スターシステムを採用しているため分かりづらいですが、『ペルソナアフターパラレル』とは別世界線で交差することはありません。
オリジナルしかない世界線ですがよろしくお願いいたします。
なおBLタグがついていますがイチャイチャしません。
本編はここで終わり。
超長丁場になりましたがお付き合いいただきありがとうございました。
玄関の扉を開けた瞬間、閉め切っていた部屋の空気が、スーツの埃っぽい匂いと一緒に鼻先へ触れた。
「ただいま」
「ただいま……つっかれた」
声がほとんど重なって、陽介が横で小さく笑った。
革靴を脱ぐ音が二つ続く。鳴上は鍵をかけ、陽介は一歩先に上がり框を越えた。ネクタイはもう半分ほど緩んでいる。朝、危うく寝坊しかけた男にしては、最後までよくもったほうだった。
「マジで終わったな」
「ああ」
「卒業式二連続は、さすがに体力持ってかれるわ」
「お前は今朝が山場だっただろ」
「そこ掘り返す?」
「確認だ」
いつもの調子で返すと、陽介は「はいはい」と肩をすくめた。
二人ともそのままリビングへ向かい、それぞれのジャケットをハンガーにかける。脱いだばかりのスーツは、まだ外の空気を少しだけ含んでいた。昨日と今日で使ったものが部屋の中へ戻ってきて、ようやく式典の一日が終わったのだと分かる。
テーブルには、朝のまま置いていった封筒と配布物の束が残っていた。学位記の筒が二本、少し角度を変えて並んでいる。違う大学のものなのに、この部屋へ持ち帰ると、同じ生活の続きに置かれたものに見えた。
「シャワー、どっち先に入る?」
陽介がネクタイを外しながら言った。
「お前」
「即答かよ」
「今日は放っておくと寝る」
「信用ねえな」
「今朝があったからな」
「まだ言う」
言いながらも、陽介は素直にシャツの袖をまくった。疲れてはいるが、足取りは崩れていない。顔色も悪くない。鳴上はそれを一度見てから、自分のネクタイを外した。
「茶、淹れておく」
「さんきゅ。出たら飲む」
陽介は着替えを取りに寝室へ向かう。少しして、浴室の扉が閉まる音がした。水音が壁越しに響き始める。
それだけで、部屋の空気が一段静かになった。
鳴上はキッチンに立ち、ケトルへ水を入れた。スイッチを押す。低い振動音が鳴り、やがて小さく湯の気配が立ち始める。
急須を出し、茶葉を入れる。
その手順は、何度も繰り返してきたものだった。帰宅して、湯を沸かして、茶を淹れる。陽介が先にシャワーへ行き、自分はその間に部屋を整える。大学生活の中で、少しずつ形になった夜の流れだった。
だが、今日はその同じ手順の中に、違うものが混ざっている。
卒業した。
陽介は今日、M大を卒業した。花村家の両親も来て、鳴上も一緒に式を見届けた。陽一おじさんとユリ子おばさんは、駅で別れるとき、ひどく安心した顔をしていた。
ちゃんと起きて、ちゃんと会場へ行き、ちゃんと式を終えた。
ただそれだけのことを、家族として喜んでいた。
普通の安堵だった。
その普通さが、今になって胸の奥へ引っかかる。
ジュネスで、イザナギとスサノオが現実に並び立ったあの日のあと、鳴上はそれとなく特捜隊の面々へその後を聞いた。
ジュネスの地上げについて、マスコミの報道が間違っていたと分かったこと。花村家が必要以上に責められずに済んだこと。八十稲羽で流れた噂が、少しずつ別の形へ落ち着いていったこと。
皆、それにほっとしていた。
それは分かる。分かってよかったと思う。花村家に向いていた矛先が、少しでも外れたのなら、それは間違いなく救いだった。
けれど、その誰の口からも、公安という言葉は出なかった。
誰もそこには触れなかった。
おそらく、知らないのだ。
あるいは、知らなくていい場所へ戻された。
見逃されたのだと、鳴上は思った。
ペルソナに関わった過去があっても、ジュネスでの事件に近い場所にいても、それ以上は踏み込まれなかった。彼らは、それぞれの生活へ帰ることを許された。
では、陽介はどうか。
ケトルの音が少し大きくなる。
鳴上は急須の蓋を閉めたまま、しばらく手を動かせなかった。
陽介は、見逃されなかった。
今回の事件が陽介を狙ったものだったことは変わらない。花村家の事情、日下部家の思惑、不知火の術式。鳴上がどう動こうと、陽介が狙われた事実そのものは消えない。
だが、もし、それだけだったら。
ただの被害者として処理されていたら。
もし、数年前、自分が実家に陽介を呼ばなければ。
雅也さんの視線が届く場所へ、陽介を連れていかなければ。
公安の内側から、鳴上悠と共にいる花村陽介という存在を、あの人が見ることはなかったのではないか。
そうすれば。
そうすれば、陽介は四月から、内定が決まっていた会社へ入っていたのかもしれない。
研修の愚痴を言いながら、朝の電車に乗っていたのかもしれない。帰ってきて、ネクタイを緩めて、今日みたいに「疲れた」と言って、けれどその疲れは、普通の社会人一年目のものだったのかもしれない。
公安だの、内偵だの、管理だの、そういう言葉と無縁の場所にいられたのかもしれない。
湯が沸く音が止まった。
鳴上はそれに一拍遅れて気づいた。ケトルを持ち上げ、急須へ湯を注ぐ。茶葉が開いていく匂いが立った。いつもより少し濃い香りだった。
なんだ。
そんな言葉が、胸の底へ落ちる。
結局、陽介を普通の生活からこちら側へ引きずり込んだのは、自分ではないか。
事件そのものの犯人ではない。陽介を狙ったのは別の誰かだ。そんなことは分かっている。分かっているから、今まで言葉にしないでいられた。
けれど、陽介が公安の視線から外れない場所へ来た理由を辿ると、そこには自分がいる。
自分が実家へ連れていった。
雅也さんに会わせた。
鳴上悠の隣にいる花村陽介を、裏の世界の人間に見せてしまった。
急須から湯呑みへ茶を注ぐ。少し濃いめの緑色が、白い器の中で揺れた。鳴上は二つ淹れるつもりで出した湯呑みのうち、一つだけをリビングへ運んだ。
テーブルに置く。
椅子を引いて座る。
浴室からは、まだ水音が聞こえていた。
鳴上は湯呑みの中を見た。湯面に、リビングの明かりがぼんやり映っている。揺れが少しずつ収まるにつれて、緑色だけが濃く見えた。
どのくらい、そうしていたのか分からなかった。
水音が止まったことにも、浴室の扉が開いたことにも、すぐには気づかなかった。
「……悠」
呼ばれて、ようやく顔を上げる。
陽介がリビングの入口に立っていた。髪はまだ少し濡れていて、首にタオルをかけている。シャツではなく部屋着に着替えているのに、その顔だけがさっきの卒業式の続きみたいに強張った。
「ひどい顔してるな」
陽介の声が、いつもより低くなる。
「……泣いてる、のか?」
言われて初めて、鳴上は自分の頬が濡れていることに気づいた。
涙は、もう一筋ではなかった。
いつから泣いていたのか分からない。声を出した覚えも、息を乱した覚えもない。ただ、湯呑みの中を見ているうちに、視界が滲んで、そのまま落ちていたらしい。
まだスーツのシャツのままだった。ネクタイだけ外した格好で、椅子に座ったまま、鳴上はぼろぼろ泣いていた。
「……俺の、せいだな」
一つ、言葉が落ちた。
陽介の眉根が寄る。
「馬鹿言ってんじゃねえぞ」
即座に返ってきた声は、強かった。怒鳴るほどではない。ただ、放っておいたらどこまでも沈んでいくものを、そこで止める声だった。
「この件は、もうとっくに俺たちの中で決めたことじゃないか」
「ああ」
鳴上は頷いた。
それは分かっている。何度も話した。雅也さんとも話した。条件も出した。陽介と一緒であることを、こちらの条件として通した。
それでも。
「……だが、それでもだ。未だに考える。本当に、これでよかっ……」
最後まで言えなかった。
陽介が、深くため息をついたからだった。
「んなもん、とっくに俺は覚悟決めてんだ」
呆れたような、でも突き放してはいない声だった。
「勝手に全部背負っていくなよ。……ほんと春奈おばさんが言ったとおりだ」
鳴上は濡れた視界のまま、少しだけ瞬いた。
「母さん、そんなこと、言ってたっけ」
「ああ」
陽介はリビングへ入り、鳴上の前に置かれた湯呑みを見てから、キッチンへ向かった。自分の分がないことを確認したらしい。勝手に急須を取り、湯呑みを出す。その手つきがいつもどおりで、鳴上はかえって何も言えなくなった。
「なんでも抱え込むから気をつけろってな。ほんとそういうとこだぞ」
「そんなこと」
「ある」
陽介は茶を淹れながら、背中を向けたまま言った。
「お前、自分で分かってねえだけで、すぐそういう顔するからな。俺が決めた分まで、自分の責任みたいに持ってく」
鳴上は返事ができなかった。
湯呑みの緑色が、また少し滲む。もう泣き止まなければと思うのに、そう思ったところで簡単には止まらなかった。
陽介が湯呑みを持って戻ってくる。
向かいではなく、隣の椅子を引いた。肩が触れるほど近くはない。けれど、真正面から責める位置でもない。同じテーブルを見られる距離だった。
「俺たちはさ」
陽介は湯呑みを置き、タオルで濡れた髪を雑に拭いた。
「とっくに親友だの相棒だのを超えてんだよ」
鳴上は、少しだけ顔を上げる。
陽介はまっすぐこちらを見ていなかった。テーブルの上の学位記の筒と、配布物の束と、鳴上の湯呑みを順番に見る。それから、いつもの調子より少しだけ低い声で続けた。
「なんでも半分ずつだぜ? これまでも、これからも」
その言葉は、きれいに整えられた慰めではなかった。
だが、だからこそ逃げ場がなかった。
鳴上が一人で抱えようとしたものを、陽介は乱暴に半分持っていく。責任がないと言うのではなく、勝手に全部持つなと言っている。その雑な優しさが、今の鳴上にはいちばん効いた。
「そう、だな……」
声はまだ少し掠れていた。
鳴上は袖口で目元を拭こうとして、途中でどうでもよくなった。着ているワイシャツが汚れることも構わず、手の甲でごしごしと涙を拭う。
乱暴に拭いたせいで、目元が少し痛い。
それでも、ようやく呼吸が戻ってきた。
陽介がその顔を見て、露骨に眉をひそめる。
「ほんとひでー顔」
「……自覚はある」
「なら、はやくシャワー浴びて切り替えて来いよ」
そう言って、陽介は首にかけていたタオルを外した。
次の瞬間、ぽい、と鳴上のほうへ投げてよこす。
タオルは胸元に当たって、膝の上へ落ちた。少し湿っていて、まだ陽介の体温が残っている。
鳴上はそれを受け止めるように掴んだ。
「使いかけだ」
「文句言う顔かよ、今」
「言ってない」
「じゃあ行け」
陽介は自分の湯呑みを持ち上げ、少し熱そうに息を吹いた。
その仕草があまりにいつもどおりで、鳴上はようやく少しだけ笑った。泣いたあとの顔で笑うから、きっと相当ひどい表情になっている。陽介がまた「うわ」と言いそうな顔をしたので、鳴上はそれ以上見られる前に立ち上がった。
テーブルの上には、二本の学位記がある。
卒業式は終わった。
春からの進路も、もう決まっている。
普通の生活から遠ざかったものは、たしかにある。戻れない場所もある。それでも今夜、この部屋には湯呑みが二つあって、陽介が淹れ直した茶があって、投げられたタオルを手にした自分がいる。
全部を一人で背負わなくていい。
その言葉は、まだうまく信じきれない。けれど、陽介が隣でそう言った以上、少なくとも今夜だけは、それをそのまま受け取ってもいい気がした。
鳴上はタオルを持ったまま、浴室へ向かった。
背後で、陽介が小さく言う。
「のぼせんなよ」
「分かってる」
「今のお前、信用ねえからな」
その返しに、鳴上はもう一度だけ笑った。
「確認してるだけか」
「そういうこと」
扉を閉める直前、リビングの明かりが少しだけ細くなる。
まだ夜は終わっていない。
だが、泣く前よりは、息がしやすくなっていた。
登場人物をここでまとめておく
鳴上悠(T大卒業しました!)
花村陽介(M大卒業しましたやったね)
本編最終回にして書きたかったところその3の回。
元々の構想はここから始まりました。
まさかこんなことになろうとは思いませんでしたが。
次回は毎度おなじみ(?)ネタバレ後日談です。
本編で明かせてなかった部分でかけるとこは書きました。
次回もよろしくお願いいたします。