リゼロif 少年と魔女 作:まんはんたん
「──当代の剣聖、ラインハルト・ヴァン・アストレアさ」
強欲の魔女の口から紡がれたその名前に、ナツキ・スバルの全身は文字通り硬直していた。
夢の城を吹き抜ける風の音すら、今の彼には聞こえない。脳内を、圧倒的な絶望感と、絶対的な不可能の二文字が暴風雨のように吹き荒れている。
ラインハルト。
燃えるような赤毛と、空のように澄み切った青い瞳を持つ青年。この世界における「武」の頂点。無数の加護に愛され、世界そのものから祝福された、絵本の中から飛び出してきたかのような完璧な英雄。
彼を敵に回せば、死に戻りの権能を持とうと、問答無用でゲームオーバーとなる。それはスバルも痛いほど理解していた。
だが、だからといって「じゃあ味方に引き入れよう」と簡単に切り替えられるほど、ラインハルト・ヴァン・アストレアという存在は軽くはない。彼は正義の体現者であり、主であるフェルトへの忠誠心は鋼よりも硬い。
盤面の全てを操作し、感情を切り捨て、暗殺者すら手駒にする今のスバルの泥沼のようなやり方に、あの清廉潔白な騎士が賛同するはずがないのだ。
あまりの難題、いや、神への冒涜とも言えるスカウト計画に、スバルは立ち上がったまま数分間、一言も発することができなかった。
そのスバルの様子を、エキドナは急かすこともなく、ただ面白そうに、そして慈愛に満ちた瞳で静かに見つめながら、自身の椅子へと優雅に座り直した。
絹糸のような純白の髪がふわりと揺れ、喪服のようなドレスの裾がテーブルの下で擦れる音が、微かに夢の城の静寂を撫でる。
やがて。
スバルは深く、ひどく重たい息を肺の底から吐き出した。
カタン、と。立ち上がった際に後ろにずらしていた白い椅子を、片手で乱暴に元の位置へと引き戻す。
そして、ドカッという遠慮のない音を立てて座り直し、全体重を背もたれに預けた。天井──青く澄み切った夢の城の空──を仰ぎ見ながら、両手で顔を覆い、ガシガシと乱暴に自身の黒髪を掻きむしる。
思考が沸騰しそうだった。ラインハルトの強固な精神をどうやって折るか。どうやって彼を孤立させ、自分たちの陣営こそが唯一の正義だと錯覚させるか。吐き気を催すほどの悪辣な算段が、すでにスバルの脳内でいくつも立ち上がっては消え、また立ち上がっている。
だが、その毒に当てられて、スバル自身の精神が悲鳴を上げていた。
スバルは顔を覆っていた手を離し、真っ直ぐにエキドナを見据えて、ひどく掠れた声で口を開いた。
「……お茶をくれ」
「おや?」
「めいいっぱいに、熱いやつで頼む。舌が焼け焦げるくらいのでいい」
スバルの唐突な要求。
それは、彼なりの精神の鎮静化の儀式だった。熱という強烈な刺激で、オーバーヒートしかかっている脳髄を強制的にクリアにするための荒療治。
「──お安い御用だとも」
エキドナは、一瞬だけ目を丸くした後、花が綻ぶような、ひどく嬉しそうな笑みを浮かべた。
彼女が白く細い指を掲げ、パチンッ、と軽快な音を鳴らす。
その直後、白いテーブルの中央には、何もない空間から魔法のようにティーセットが実体化した。
立ち昇る濃厚な湯気。それは以前出されたものよりも遥かに温度が高く、ボコボコと微かに沸騰する音さえ聞こえてきそうなほどだ。二つの白磁のティーカップには琥珀色の液体がなみなみと注がれ、さらにその横には、以前よりも豪華に盛られた色とりどりのお茶菓子がバスケットに溢れんばかりに用意されていた。
スバルは無言のまま体を起こし、目の前のティーカップへと手を伸ばした。
取っ手越しにでも伝わってくる強烈な熱さ。
だが、それを口元へ運ぼうとしたスバルの動きが、ピタリと止まった。
視線の先。テーブルの向かい側に座るエキドナが、両手を頬に当てて、今までスバルに見せたことのないような、ひどく熱っぽく、そして底知れぬ歓喜を孕んだ微笑を浮かべて彼を見つめていたからだ。
その瞳は、まるで極上の獲物を前にした肉食獣のようでもあり、愛しい恋人の仕草に見惚れる乙女のようでもあった。
「……何がおかしいんだよ」
スバルは訝しげに眉をひそめ、カップを持ったまま低く尋ねた。
「いや? おかしいなんてことはないよ。ただ……」
エキドナは自身の頬を撫でながら、うっとりとした吐息を漏らした。
「君の方から、自発的にボクに『お茶』を所望されるのは、これが初めてだったからね。ホスト側としての至上の喜びに、深く感じ入っていたのさ」
「────」
エキドナのその言葉に、スバルは一瞬だけ口をつぐんだ。
この夢の城で提供される「お茶」。それは単なる嗜好品ではない。強欲の魔女エキドナの体液であり、魂の抽出物であり、彼女との契約のパスを繋ぐための強烈な呪いだ。
これまでは、エキドナが一方的に用意し、スバルは仕方なく、あるいは無自覚にそれを口にしてきた。
だが今、スバルは自らの意思で、それを求めた。
疲弊した精神を落ち着かせるためのカンフル剤として、魔女の魂を欲したのだ。それは、スバルが己の魂の奥底で、エキドナという存在を完全に「共犯者」として受け入れ、依存し始めていることの決定的な証拠でもあった。
「ボクたちの初めての共同作業である『聖域の解放』も見事に終えた直後だ。そんな記念すべき日に、君からボクの欠片を欲しがってくれるなんて……これはもう、君がボクの溢れんばかりの魅力と知識の虜になったと言っても、決して過言じゃないだろう?」
エキドナは身を乗り出し、甘く、ねっとりとした声で囁きかけた。
「……過言だろ」
スバルは一切の表情を崩さず、絶対零度の声で即座に切り捨てた。
そして、沸騰寸前の熱いお茶を、ためらいもなくズズッと啜る。
「熱っ……いや、味も温度もよくわかんねえな、相変わらず」
舌が焼け焦げるほどの熱さを要求したにもかかわらず、スバルの顔に苦悶の色は浮かばない。
夢の城という精神世界特有の仕様なのか、それとも幾多の地獄を越えてきたスバルの痛覚がすでに麻痺しているのか。ただ、腹の底に落ちた熱い液体が、魔女の因子となって全身の血管を駆け巡り、不思議と荒ぶっていた思考をクリアにしていく感覚だけが確かにあった。
平然とお茶を飲み干し、ふぅ、と息を吐くスバル。
その可愛げのない態度に、エキドナは大袈裟に肩をすくめて見せた。
「やれやれ、スバル。君のその素直になれないツンデレな態度は、ボクからすればひどく愛らしくて好ましいのだけれどね」
「ブッ……! ゲホッ、ゴホッ!」
突然飛び出した現代のオタク用語に、スバルは思わずむせ返った。
「ツンデレって……お前なぁ。今日日の魔女は、そんなサブカル用語まで把握してることに、俺は本気で驚いてるよ。四百年前のババアが無理して若者言葉を使うな」
「ババアとは失礼な。君の記憶という名の極上の図書館を覗かせてもらったのだから、現代の概念を学習するくらい造作もないことさ。それに、ボクはいつだって瑞々しい乙女だからね」
エキドナは誇らしげに胸を張る。しかし、次の瞬間、彼女の纏う空気が、ふわりと、だが確実に冷ややかなものへと変貌した。
「でもね、スバル」
エキドナは、ティーカップの縁を白い指先でツーッと滑らせながら、先ほどまでのふざけた空気を完全に拭い去った、冷徹な魔女の顔でスバルを見据えた。
「君のそのひねくれた態度や、ボクに対する不遜な物言いは、ボク相手だから成立しているコミュニケーションだ。……間違っても、あのずっと眠り続けている『お姫様』や、君なしでは何も決められない『ハーフエルフのお人形』を相手にする際には、よしておきなよ」
ピタリ、と。
夢の城の風が止まった。
スバルの顔から、先ほどまでの呆れたような表情がスゥッと消え失せ、代わりに、どす黒いほどの重圧を伴った険しい怒りが浮かび上がる。
「……エミリアを、その呼び方で呼ぶのはよせ」
低く、地を這うようなスバルの警告。
レムを「眠り続けるお姫様」と呼び、エミリアを「お人形」と称した魔女への明確な敵意。
聖域の試練から遠ざけられ、スバルに依存しきっているエミリア。彼女が思考を放棄し、スバルという宿主なしでは生きられない存在になっていることは、スバル自身が誰よりも理解している。自分が彼女を美しい人形に仕立て上げているという自覚もある。
だが、それを他者の、それも強欲の魔女の口から事実として突きつけられることは、スバルの魂の最も柔らかい部分を無残に土足で踏みにじられるに等しい行為だった。
スバルの放つ刺すような殺気を受けながらも。
エキドナは一切動じることなく、むしろ「ああっ、しまった」とでも言うように、わざとらしく自身の口元を両手で覆った。
「おや、これは失礼したよ。ボクとしたことが……愛しい君を独占するあの娘たちへの『嫉妬』から、つい口が滑ってしまったようだ」
「…………」
その見え透いた弁明に、スバルの目がスッと細められた。
嫉妬。
それは、いつぞやのお茶会での会話の意趣返しだ。
あの時、スバルが「エミリアの可愛さに嫉妬してんのか」とからかった際、エキドナはひどく不快げな顔をして「嫉妬はボクの担当ではない」と冷たく言い放ったはずだ。
その彼女が、自ら「嫉妬」という言葉を口にして、からかうように微笑んでいる。
「……ちっ」
スバルは忌々しそうに舌打ちをし、乱暴にティーカップをソーサーに叩きつけた。カチャリ、と甲高い音が鳴る。
「俺の記憶が確かなら、俺の契約相手は、世界中のあらゆる知識を求める強欲の魔女さまだったはずだ。嫉妬の魔女なんぞと契約した覚えはねえよ」
「うん。ボクは確かに強欲の魔女で、君のたった一人の頼れる契約相手さ」
エキドナは、スバルの怒りを全て受け流すかのように、ひどく優しく、そして底なしの慈愛に満ちた声で答えた。
「それに……ボクが嫉妬に駆られたというのは冗談だとしても。君の顔、ようやく少しだけ血の気が戻ってきたじゃないか」
「……あ?」
スバルは虚を突かれたように目を瞬かせた。
「ラインハルトという、この世界における最大最強の難敵を引き入れる作戦。彼をどうやって騙すか、彼の正義をどうやって折るか、どこから手をつければいいのか……先ほどの君の心中は、途方もないプレッシャーと不安で、今にも押し潰されそうになっていたからね」
エキドナは立ち上がり、テーブル越しにスバルの方へと身を乗り出した。
彼女の純白の髪が揺れ、甘く、死の香りが混じったような魔女の匂いがスバルの鼻腔をくすぐる。
「人の心を読む魔法が使えない凡人たちであったとしても、今の君の張り詰めた顔を見れば、誰でもその心中を言い当てられただろうね。呼吸は浅く、肩には力が入り、目は絶望に泳いでいた。……そのままでは、最善のルートを計算する前に、君の精神の方が悲鳴をあげていただろう」
エキドナの言葉に、スバルは無意識に自身の肩を触った。
確かに、先ほどまでの、重力に押し潰されそうな圧倒的な緊迫感は、彼女との悪趣味な口喧嘩のおかげで、嘘のように霧散していた。
彼女はわざとエミリアたちを侮辱し、スバルの怒りを引き出すことで、ラインハルトへの恐怖と重圧から意識をそらし、精神の均衡を取り戻させたのだ。
「……性格の悪い荒療治だな。相変わらず」
スバルは毒気を抜かれたようにため息をつき、椅子の背もたれに体を預けた。
「言っただろう? ボクは君を導き、サポートする存在だと。君がどれほどの地獄を歩もうとも、ボクだけは君の影となり、日向となって支え続ける」
エキドナは自身のティーカップを手に取り、スバルに向けて軽く掲げた。
「さて、クールダウンは済んだね? 我が愛しき契約者よ」
「あぁ。おかげさまで、腹の底まで真っ黒に染まり直したぜ」
スバルもまた、自身のカップを手に取り、魔女の乾杯に応えるように掲げた。
「さあ、始めようか。当代の剣聖ラインハルト・ヴァン・アストレアを、我らが陣営へと引き込むための……最高に胸糞悪くて、最高に最善な計画の立案を」
「あぁ、望むところだとも」
強欲の魔女と、全てを救うという狂気の強欲に憑りつかれた少年。
二人の共犯者は、ティーカップをカチンと合わせ、この世界で最も攻略不可能な英雄を盤面に引き摺り下ろすための、果てしなく昏い作戦会議を始めるのだった。
吹き抜ける風は、彼らの行く末を暗示するように、少しだけ冷たさを増していた。