リゼロif 少年と魔女   作:まんはんたん

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その2

 

 風が止んだ。

 果てしなく続く緑の草原を撫でていた柔らかな微風が、まるで世界そのものが息を呑んだかのように、唐突にその動きを止めた。

「夢の城」と呼ばれる精神と魂の交差点。白磁のティーカップから立ち昇っていた微かな湯気すらも、空中で静止している。

 世界そのものが、目の前に座る魔女の次の言葉を、固唾を呑んで待っていた。

 

 突き出されたナツキ・スバルの手。

 それは、かつて世界を恐怖のどん底に陥れた「強欲の魔女」に対し、一介の無力な少年が突きつけた絶対の踏み絵であった。

 嘘をつくな。隠し事をするな。常に最善を答えろ。そして、すべての可能性(ルート)を観測しようとするその底なしの悪食を捨てろ。

 魔女の矜持も、彼女の存在意義すらも縛り上げる、あまりにも傲慢で、しかしそれゆえに完璧な生存戦略。

 

 永遠とも思える数秒の沈黙。

 漆黒の喪服に身を包んだエキドナの、雪のように白い頬がわずかに緩んだ。

 底知れない知性を湛えた黒い瞳が、細められる。

 

「──いいだろう。ナツキ・スバル」

 

 静かに、だが確かな響きを持って、その言葉は空間に落ちた。

 世界が再び動き出す。止まっていた風が吹き抜け、白いパラソルがパタパタと音を立てた。

 

「ワタシ、強欲の魔女、エキドナは──君と契約を結ぼう」

 

 その瞬間、スバルの体からどっと冷や汗が噴き出した。

 テーブルの下で固く握りしめていた拳が、かすかに震えている。強がりを並べ立て、主導権を握ったかのように振る舞っていたが、内実は薄氷を踏むような大博打だった。もし彼女が「ノー」と言い、この空間から放り出されていれば、スバルは再びあの血と絶望と狂気のループを、たった一人で暗中模索しなければならなかったのだ。

 張り詰めていた緊張の糸が少しだけ緩み、スバルは肺に溜まっていた重たい空気を静かに吐き出した。

 そして、その安堵を悟られまいと、再び顔に不遜な笑みを貼り付ける。

 

「おいおい、ずいぶんと早い決断だな。もっと悩まなくていいのか?」

 

 スバルは、わざとらしく挑発的なトーンで言葉を紡ぐ。自分の声が上擦っていないか、それだけが心配だった。

 

「オマエの愛してやまない『未知の探求』とやらを、自ら手放すことになるんだぜ? 選択のやり直しは、オマエにはできないのに」

 

 なんせ、エキドナはスバルと違って『やり直し』ができない。ここでスバルの手を取ったという結末だけが固定されて、スバルを拒絶した世界線は永遠に観測できなくなる。フルコンプ主義の魔女様としては、発狂するほど惜しい選択のはずだ。

 スバルの皮肉に対し、エキドナは不快感を示すどころか、クスクスと喉を鳴らして笑い始めた。

 その笑い声は、どこかひどく純粋で、それゆえに背筋が凍るような狂気を孕んでいた。

 

「ふふ、ナツキ・スバル。ワタシ……いや」

 

 エキドナは椅子からゆっくりと立ち上がり、テーブル越しにスバルの方へと身を乗り出した。

 絹糸のような純白の長髪がサラリとこぼれ落ち、彼女の甘く、どこか死を連想させるような冷たい香りがスバルの鼻腔をくすぐる。

 

「やっぱり、気になる男の子の前では、『ボク』のままで話すほうがいいかな」

 

 彼女の瞳の奥に、再び「親愛なる協力者」という仮面が被せられるのが見えた。しかし、それは以前のような薄っぺらいものではない。強欲という名の化け物が、自らの意思で「少女」の皮を被り直したような、ひどく歪で妖艶な姿だった。

 だが、その妖艶な微笑みは、次の瞬間、絶対零度の氷のように冷たく硬質なものへと変貌した。

 

「──ボクの知識と経験を君に伝授し、最善のルートを導いたところで、君は死ぬ」

 

「……あ?」

 

 スバルの喉から、間抜けな声が漏れた。

 彼女は今、「最善」を教えると言ったはずだ。だというのに、死ぬ? 

 

「わかっているんだろう? 君は、この世界ではあまりにも脆弱だ」

 

 エキドナは、まるで出来の悪い生徒に物理の法則を教えるように、淡々と、しかし残酷に事実を羅列し始めた。

 

「君にはマナを扱う才能は低く、強力な精霊の加護もない。権能と呼べるものは『死に戻り』という極めて受動的で痛みを伴うものだけであり、正面から敵を打破する卓越した頭脳や戦闘力も持ち合わせていない」

 

 彼女の言葉は、スバルがこれまで幾度となく痛感し、その度に血を吐くような思いで飲み込んできた自分自身の「弱さ」そのものだった。

 

「大兎の群れ、ガーフィールの狂化、ロズワールの思惑。この『聖域』という盤面は、君にとってあまりにも難易度が高すぎる。君はこの聖域をクリアするという、たった一つの目的を達成するためにすら……ボクの完璧な指示を受けながらなお、何度も、何度も、惨たらしく死んでやり直すことになる」

 

 スバルの背筋を、氷のような悪寒が駆け抜けた。

 頭では理解していたはずだ。自分が弱く、無力であることを。だが、全知の魔女に「お前は最善を尽くしてもなお死ぬ」と断言されることの絶望感は、想像を絶するものだった。

 

「ボクがその膨大な知識と経験を総動員し、盤面を読み切り、君にとっての『最善の一手』を口にするのは間違いない。だが、それはあくまで『その時点での最善と思われる意見』にすぎないんだ」

 

 エキドナはスバルの周りをゆっくりと歩きながら、冷酷な思考実験を提示する。

 

「例えば、だ。君が深い森を歩いていて、分かれ道に出くわしたとする。ボクの千里眼が、右の道には盗賊が五人、左の道には盗賊が十人潜んでいると警告したとしよう」

 

 カツン、カツンと、彼女のヒールの音が夢の城に響く。それは死へのカウントダウンのようだった。

 

「選ぶべきは当然、人数の少ない『五人』の方だろう? ボクもそう指示を出す。……だが、そちらの道には巧妙な伏兵がいたら? あるいは、その五人の中に、今の君では到底勝てない猛者が紛れ込んでいたら?」

 

「っ……!」

 

「君の貧弱な身体能力でも、必死に走れば逃げられるかもしれない。ボクは『森の奥へ走れ』と叫ぶ。だが……木の根につまずいて逃げられなければ? 恐怖で足がすくんで一歩も動けなければ?」

 

 エキドナはピタリと足を止め、スバルの背後からその肩に両手を置いた。その手は氷のように冷たかった。

 

「結果、君は無残に切り刻まれて死に、悲鳴を上げながら時間を巻き戻す。そしてボクは、君が持ち帰った『右には伏兵がいた』『逃げるのは物理的に不可能だった』という血塗られた新しい情報を元に、また『最善の答え』を口にするんだ。『次は左の十人の方へ行き、土下座をして命乞いをしよう』とね」

 

 それが、これからスバルが歩む道。

 魔法のような解決策などない。ただひたすらに、エキドナの「最善の仮説」をスバルが己の命と肉体をすり減らして「検証」し、死んで、修正し、また死ぬ。その永遠にも似た地獄の繰り返し。

 内臓を食い破られる痛み、体が真っ二つにされる感覚、凍りつくような死の感触が、フラッシュバックのように脳裏をよぎる。契約を結べば、あの地獄から抜け出せると思っていた。だが、現実は違う。地獄の案内人を雇っただけで、歩くのは自分自身の足なのだ。

 

 スバルの顔色が悪くなるのを、エキドナはどこか満足げに、そして熱っぽい吐息を吐きながら見つめていた。

 

「もちろん、ボクとしては……君がその脆弱な肉体と精神で、どのような死を遂げ、どのような失敗を繰り返すのか。あらゆる選択肢を試してみたいという気持ちで溢れているよ。右に行けばどうなるか。左に行けばどうなるか。立ち止まれば? 泣き叫べば? それを全て観測したい」

 

 彼女は自身の胸に手を当て、うっとりとした表情を浮かべた。

 

「しかし、君の言う通りだ。ボクは君の条件を飲んだ。最初の一歩目から『片方しか見ることができない』というのは、知識を貪る魔女としては、身が引き裂かれるほど残念極まりないことだ」

 

 エキドナはスバルから数歩離れ、パラソルの下から空を見上げた。

 

「二者択一を選ばされるとは……しかも、ボク自身の本能を縛り付ける鎖を、自ら喜んで首にかける羽目になるとはね。ボクの契約者殿は、随分とお人が悪い」

 

 ため息まじりにそう言った彼女の背中。

 しかし、スバルは気づいていた。彼女の声が、全く落ち込んでなどいないことに。

 むしろ、その声は微かに震え、異常なまでの熱を帯びていた。

 

 ゆっくりと、エキドナが振り返る。

 その顔を見た瞬間、スバルは思わず息を呑み、本能的な恐怖で一歩後ずさった。

 

 彼女は、笑っていた。

 雪のように白い頬を泥酔したように赤く染め、瞳孔を極限まで開き、荒い呼吸を繰り返している。

 それは、純粋な歓喜。極限の快楽。未知の刺激に脳髄を焼かれた狂者の悦び。

 

「──でもね、ナツキ・スバル」

 

 彼女の声は、甘く、ねっとりと空間に絡みつく。

 

「ワタシに、究極の選択肢を投げつけてくれたこと。ワタシの『強欲』を真っ向から否定し、ねじ伏せ、たった一つの運命を強要してくれたこと……それは、最高に胸が踊る体験だったよ」

 

 スバルの四つの条件。それは確かに彼女の「強欲」を縛る鎖だった。

 だが、その鎖をかけられたこと自体が、彼女にとっての「未知なる刺激」だったのだ。

 観測者として高みから見下ろすだけだった魔女が、初めて盤上の駒(スバル)によって首輪をかけられ、自由を奪われる。その圧倒的な屈辱と、予測不能な事態がもたらす極彩色の興奮が、彼女の論理的な精神を完全に凌駕していた。

 

「強欲の魔女として永らく時を過ごしてきたけれど……これほどまでに情熱的で、残酷で、ワタシの心をかき乱す口説き文句は初めてだ」

 

 エキドナはふらつくような足取りでスバルに近づき、両手で彼の頬を包み込んだ。逃げ出そうとするスバルの体は、蛇に睨まれた蛙のように金縛りにあって動かない。

 

「あぁ……なんてことだろう。400年もの間、ただ墓所で知識の海を漂うだけで、少しも動いていなかったボクの心臓が……今、狂ったように高鳴っている。君という存在に、完全に射止められた気分だ」

 

 エキドナの顔が、スバルの目の前まで迫る。

 彼女の吐息が、スバルの唇に触れるほどの距離。

 物理的な肉体を持たないこの夢の城において、口づけとはすなわち、魂の最も深い部分を直接接続し、永遠に縛り合わせるという呪いの儀式だ。

 

「さあ、契約を交わそう」

 

 魔女の瞳の奥で、底知れぬ狂気と愛執がドロドロと渦巻いている。

 

「地獄のように甘く、永遠に燃え上がるような……君を苦しめる苦痛も、歩みを止めてしまいたくなるほどの絶望も、記憶したくもない死の記憶も、その全てをワタシと共有する、魂を交える、契約の口づけをね」

 

 逃げ場はない。スバル自身が、この魔女の手を取ることを選んだのだから。

 冷たい唇が、スバルの唇に重なった。

 ──ジュッ。

 音のない烙印が押された感覚。脳髄の奥底に魔女の存在が侵入し、自分の運命の糸が、彼女の白く細い指先に完全に絡め取られていく、おぞましくも甘美な悪寒。

 視界が白く染まっていく中、耳元で、魔女の歓喜に満ちた囁きが響いた。

 

「また、あのようなトキメキを感じさせておくれよ。ボクの愛しい、ナツキ・スバル──」

 

 その声は、これから始まる果てしない地獄の道程への、優しく残酷な魔女の祝福であった。

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