リゼロif 少年と魔女   作:まんはんたん

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その3

 唇に落とされた、魂の髄まで凍りつくような誓約の口づけ。

 その恐ろしくも甘美な感触がまだ生々しく残る中、ナツキ・スバルはゆっくりと目を開けた。

 つい先ほどまで、この「夢の城」を満たしていた息が詰まるような重圧と、強欲の魔女が放っていた背筋の凍るような狂気は、嘘のように霧散していた。

 風が穏やかに吹き抜け、白いパラソルがパタパタと陽気な音を立てる。まるで、命がけの交渉など最初からなかったかのように、あまりにも平和で、どこか気の抜けたティータイムの空間がそこには戻っていた。

 

「さて、まずはこれを渡しておこう」

 

 先ほどの狂喜乱舞した様子から一転し、すっかりいつもの「底知れない魔女」の落ち着きを取り戻したエキドナが、上品な仕草でスバルの前に手を差し出した。

 

「……これは?」

 

 スバルは警戒心を解ききれないまま、彼女の白い手のひらの上に乗せられたものを見つめた。

 それは、ころりとした無骨な黒い石だった。だが、ただの石ではない。光を一切反射せず、むしろ周囲の光を吸い込んでいるかのような、不思議な深みを持つ漆黒。その石には細い銀色の鎖が通されており、ペンダントの形をなしていた。

 触れると、氷のように冷たいのに、魂の奥底がじんわりと温かくなるような、相反する奇妙な感覚が指先から伝わってくる。

 

「ボクと君の、決して切れることのない契約の証の結晶石。……まあ、君にわかりやすく言えば『通信石』のようなものさ」

 

 エキドナは満足げに微笑みながら、スバルが受け取ったその黒いペンダントを指差した。

 

「現実世界にも同じものを届けてるから、それをボクと思って大切に扱ってくれたまへ。これで現実世界に戻った後でも、いつでも君は可憐な魔女であるボクと、心ゆくまでおしゃべりを楽しむことができるという寸法だよ。それにその石に願えばこの場所へと来ることができる」

 

「……あぁ、そうかい」

 

 スバルは感情の抜け落ちた声で相槌を打った。

 命を削るようなループの中で、常に彼女の知識を引き出せるというのなら、これほど心強いアイテムはない。それは先ほどの契約条件を満たすための、極めて実用的かつ不可欠なツールだった。スバルは無言のまま、その銀色の鎖を自身の首にかけ、黒い石をジャージの胸元に忍ばせる。胸の奥で、石がかすかに脈打つような感覚があった。

 

 その様子を、エキドナは両手を頬に当てながら、うっとりとした表情で見つめていた。

 

「そうだとも。この通信石の動力源は、他でもないボクと君の熱烈な『愛』によって維持されているからね。どれだけ長時間繋いでも、どれほど遠く離れていても、通信料が一切かからないという超優れものだ。素晴らしいだろう?」

 

「……ファンタジー世界で通信料とかいう世知辛い単語を出すなよ。雰囲気が台無しだろ」

 

 スバルはジト目で魔女を睨みつけた。

 だが、エキドナの言葉の勢いは止まらない。彼女はさらに一歩スバルに歩み寄り、その顔を覗き込むようにして、滔々と語り始めた。

 

「いいかい? これは決して、命の危機が迫った時や、盤面に行き詰まった『問題が発生した時』だけしか使ってはいけない、なんていう野暮なシロモノじゃないんだ。もっと自由で、もっと親密なコミュニケーションのために使ってくれて一向に構わない」

 

 エキドナは自らの白い胸元に手を当て、芝居がかった仕草で目を伏せる。

 

「例えば……あぁ、無性にエキドナの素敵な声を聞きたいな、とか。朝起きて一番に、愛していると伝えたいな、とか。可憐でプリティーな魔女であるエキドナが、暗く冷たい墓所で一人きりで寂しがって泣いていないか心配だな、とか」

 

 そこまで一気に語り、エキドナは不意にスバルの耳元へと顔を寄せた。

 吐息が直接耳の裏を撫でる距離。彼女から漂う、死と甘さが混じったような魔女の香りが、スバルの鼻腔を強制的に支配する。

 

「──今は、どんな下着を身につけてるか気になってしょうがないな、とかね」

 

「…………」

 

「つまり! これといった用事がなくとも、いつでも、どんな時間帯でも、ボクの愛しい契約者である君は、気軽にボクに声をかけてくれたまえ! ということさ!」

 

 エキドナはパッと顔を離すと、両手を広げて満面の笑みを浮かべた。

 その表情は、これから過酷な死のループに挑む少年の背中を押す女神というよりは、新しい玩具を手に入れてはしゃぐポンコツな小娘にしか見えなかった。

 

 風が、ヒュオオと虚しく吹き抜けていく。

 夢の城に、重たく、そして冷ややかな沈黙が落ちた。

 

 スバルは、ただただ無言だった。

 目を見開き、口を半開きにしたまま、目の前で胸を張る強欲の魔女を見つめている。

 いや、見つめているのではない。脳の処理能力が完全に限界を突破し、フリーズしているのだ。

 つい数分前まで、互いの魂を削り合うような、血みどろの心理戦を繰り広げていたはずだ。相手は四百年前の伝説の魔女であり、自分は死の運命に抗おうとする矮小な人間。緊張感と絶望感が支配する、ダークファンタジーの極致のような空間だった。

 それが、どうだ。

 今、目の前にいる喪服の美女は、自らを「プリティーな魔女」と称し、「下着の心配をしてくれ」と堂々のたまっている。

(……なんだこれ。俺の脳髄がストレスでついにイカれたのか? それとも、これも魔女の精神攻撃の一種か?)

 スバルはあまりの落差と唐突なジャンル変更に、ツッコミの言葉すら見つけられず、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。

 

 しかし、そのスバルの深い沈黙と、硬直した体を、エキドナは全く別の意味に受け取ったらしい。

 

「おや……?」

 

 エキドナは目を丸くし、それから「ふふっ」と嬉しそうに吐息を漏らした。

 

「歓喜のあまりに、ボクの愛しい契約者様は言葉も出ないかい?」

 

「…………は?」

 

 スバルの喉から、間抜けな音だけが漏れた。

 しかし、エキドナにはその戸惑いは全く届いていない。彼女は一人納得したように、うんうんと大袈裟に頷きを繰り返している。

 

「そうだろう、そうだろう! 無理もない。なにせ君は、この世界で唯一、ボクの赤裸々な秘密が隠されている鍵付きの引き出しを、一切の制限なく自由に開けることができる『マスターキー』を手に出来た、途方もない幸せ者なのだからね!」

 

 エキドナは興奮した様子で、ビシッとスバルに向かって指を突きつけた。

 

「思い出すがいい、ナツキ・スバル! 君がボクに突きつけた、あの恐ろしくも素晴らしい契約の条件を!」

 

 彼女の言葉に、スバルはハッと我に返った。

 嘘をつかない。質問には必ず真実で答える。知識を隠さない。最善の方策を偽りなく答える。

 自分が考え抜いて提示した、魔女の悪意を封じるための完璧な防壁。それがどうかしたというのか。

 

「ボクはあの契約によって、君からの問いかけに対して、どんなに恥ずかしく、どんなに破廉恥な質問であったとしても……絶対に、真実を答えざるを得ない身体になってしまったからね!」

 

 エキドナの顔が、ほんのりと朱に染まる。彼女は両手で自身の頬を覆い、身をよじりながら、まるでとんでもない弱みを握られた乙女のような悲鳴を上げた(ただし、その目は全く笑っていないどころか、奇妙な熱を帯びて爛々と輝いている)。

 

「嘘偽りなく! ボクは今身につけている下着の色や形状、さらにはその材質や肌触り、着心地に至るまで! 細部にわたって詳細に、かつ一つの情報を隠すことも許されず、余すことなく君に答えなくてはならないというわけだ! なんという屈辱! なんという絶対服従の契約! あぁ、君のその強引な支配欲には、ボクの知的好奇心も感服するほかないよ!」

 

 一人で喋り、一人で興奮し、一人で納得している魔女を前に、スバルの顔面からみるみると血の気が引いていく。

 彼女は、本気だ。

 この四百年の叡智を誇る「強欲の魔女」は、スバルが己の命と尊厳を守るために必死で組み上げた「絶対に嘘をつけない」という血の滲むような契約条件を──ただの「究極のセクハラ合法化ツール」として解釈し、歓喜に打ち震えているのだ。

 

「さぁ、遠慮はいらない!」

 

 エキドナは両手を大きく広げ、まるで世界の真理を開示するかのような神々しいポーズで高らかに宣言した。

 

「まずは、ボクの今の下着の色を尋ねるといい、ナツキ・スバル! なんの躊躇いもなく、その特権を行使したまえ! だって、他でもない、そのための契約だったのだろう!?」

 

 夢の城の空気が、ピーンと張り詰める。

 数秒の、完全なる静寂。

 エキドナは、期待に胸を膨らませ、頬を赤らめてスバルの「命令」を待っている。

 スバルはうつむいたまま、わなわなと肩を震わせていた。握りしめた拳は白く変色し、全身の血が逆流するような感覚。限界まで膨れ上がったマグマが、ついに火山口から噴出する。

 

 スバルは顔をバッと上げ、肺の中の空気を全て絞り出すような勢いで、夢の城の空を割るほどの大音声を張り上げた。

 

「だぁぁぁぁぁぁぁぁぁれが!! そんなくだらねえことを聞くために、命懸けで契約なんかするかァァァァァァァァァァァッ!!!」

 

 あまりの剣幕と声量に、物理的な衝撃波でも発生したかのように、パラソルが大きく揺れ、エキドナの純白の髪がブワッと後ろになびいた。

 スバルは顔を真っ赤にして、ゼェゼェと肩で息をしながら魔女を指差す。

 

「ふざけんな! 俺のあの真剣な葛藤を! 死ぬ気で絞り出した防衛策を! なんでただのド変態エロガキのセクハラ要求に変換してんだよ、オマエのそのポンコツ頭は!!」

 

 その凄まじいツッコミを全身に浴びたエキドナは、ビクッと肩を震わせると、両手で口元を覆い、これ以上ないほど目を丸くして硬直した。

 彼女の瞳孔が揺れ、信じられないものを見るような視線がスバルに注がれる。

 

「な……な、なんだって……!?」

 

 エキドナはワナワナと唇を震わせ、まるで天地がひっくり返るほどの衝撃の事実を告げられたかのような、絶望的な表情を浮かべた。

 

「嘘をついてはいけないという絶対条件を、あんなに必死な顔で入れたのは……ボクの下着の色や形が、どうしても気になって気になって夜も眠れなかったからじゃ、ないのかい……!?」

 

「当たり前だろ! どんだけ自意識過剰なんだよ! 俺の命とオマエの下着を同じ天秤に乗せるか、普通!!」

 

「そ、そんな……! じゃあ、ボクがこれまで、君に聞かれた時のためにと、日夜さまざまなバリエーションのランジェリーを想像しては一人で頬を染めていた、あのいじらしい乙女の時間は……!」

 

「知らねえよ! 勝手に一人で興奮してろ、この強欲ポンコツ魔女!!」

 

 静かで、重苦しく、果てしない絶望に満ちていたはずの「夢の城」

 しかし今、そこには、真っ赤になってキレ散らかすジャージの少年と、ショックのあまりその場にへたり込みそうになっている純白の魔女の、なんとも締まらない怒声が響き渡っていた。

 

 先行きは、限りなく不安だった。

 スバルは通信石を握りしめながら、頭を抱えて深いため息をついた。地獄のループは、どうやら別の意味でも前途多難になりそうだった。

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