リゼロif 少年と魔女 作:まんはんたん
ヒロイン不在会
薄暗い部屋の中に、薬草の饐えたような匂いと、濃厚な血の香りが淀んでいた。
「聖域」の一角に設けられた療養のための部屋。そこには、全身を痛々しい包帯でぐるぐる巻きにされた辺境伯、ロズワール・L・メイザースがベッドに身を横たえていた。
そのベッドの傍らには、主人を献身的に看病する桃色の髪のメイド、ラムが控えている。
静寂に包まれていた部屋の空気が、唐突に乱された。
ノックの音もなく、乱暴に扉が押し開けられたのだ。
「おやおやおーや? 君らしくないずいぶんな態度だーね。スバルくん」
ベッドの上で上半身を起こしたロズワールが、いつもと変わらぬ、しかしどこか探るような道化た口調で来訪者に声をかけた。
部屋に入ってきたのは、ナツキ・スバルだった。
いつもの見慣れたジャージ姿。しかし、その纏う空気は、これまでロズワールやラムが知っていた「ナツキ・スバル」のそれとは、決定的に異なっていた。
「……あぁ、そうだろうな。ロズワール、お前に話がある」
低く、ひどく冷たい声だった。
それは、ナツキ・スバルの口から出たとは思えないほど、圧倒的な重圧と、絶対的な意志を孕んだ言葉であった。
まるで、長い年月をかけて血の池を渡り歩き、幾千の死骸を踏み越えてきた暴君のような、底冷えのする響き。感情の起伏が完全に削ぎ落とされたその声に、室内の温度が数度は下がったかのように錯覚させられる。
「っ……!」
傍らに控えていたラムが、微かに肩を震わせ、動揺を隠せなかった。
彼女の鋭い警戒の本能が、警鐘を鳴らしていた。今のスバルの雰囲気、言葉使い、そして何より、言葉を紡ぐまでに彼が発している無言の圧力。
それは、ただの無力な少年が発していいものではない。力ある者のみに許された覇気。まるで──そう、彼女の絶対の主人である、ロズワール・L・メイザースが放つそれと、全く同質の威圧感だったのだ。
「スバル……バルス、あなた、ロズワール様に向かってその態度は……」
ラムが、主人を守るために前に出ようとした。傷だらけのロズワールの身を案じ、この得体の知れない空気を纏う少年を押し留めようとする。
だが、それを制したのは、他でもないロズワール自身だった。
「──いや、いいんだよ、ラム」
「ロズワール様?」
「彼と、二人きりで話をする」
それは、甘やかすような道化の口調ではない。主としての、有無を言わさぬ絶対的な命令だった。
ラムがハッとしてロズワールを振り返ると、主人の双眸には、これまでに見たこともないような、ひどくおぞましく、そして純粋な『歓喜』の炎がチロチロと燃え盛っていた。
「……かしこまりました。ロズワール様。それでは、私はこれで失礼させていただきます」
ラムはスバルの方を一度だけ鋭く睨みつけ、深く一礼すると、足早に部屋から出ていった。
バタン、と。
重厚な木製の扉が閉まる音が、やけに大きく部屋に響き渡る。
スバルは、ラムが完全に気配を消したのを確認し終えると、ゆっくりと動いた。
部屋の隅に置かれていた木製の丸椅子。それを片手で掴むと、床を削るような無遠慮な音を立てて引きずり、ロズワールのベッドのすぐ脇にドンッと置いた。
そして、ドカッと深く腰を下ろす。背もたれに体重を預け、足を組み、見下ろすような視線でベッドの上の魔導士を見据えた。
ここに至ったナツキ・スバルは、この強大な力を持つ辺境伯に対して、もはや精神的に一歩も引く気はなかった。
なぜならば、スバルがくぐり抜けてきた地獄の深さは、すでにロズワールのそれを凌駕している。魂の次元において、両者はすでに互角であり、対等の立場にまで登り詰めていたのだ。
「……良い顔つきになったじゃないか。ナツキ・スバル」
ロズワールは、痛む体を庇うことすら忘れ、恍惚とした表情で目の前の少年を見つめた。
絶望に泣き喚き、誰かにすがりつこうとしていた脆弱な少年の面影は、もはやどこにもない。そこにあるのは、自らの目的のためならば、どのような手段をも厭わないという、冷酷な鋼の意志。
「そうか? 最近は鏡をあまり見ないもんでな。俺自身には、その自覚はねえよ。ロズワール」
スバルは感情の抜け落ちた声で淡々と返した。
その顔には、怒りも、憎しみも、悲しみも浮かんでいない。ただひたすらに、盤面の駒を見つめ、価値を値踏みする、虚無的な冷静さがあった。
「ふふ……ふふふ……くふふふふふぁ! あははっ、はぁーっ!!」
突如として、ロズワールが顔を覆い、狂ったように笑い声を上げ始めた。
「かはっ、げほっ……!」と時折血を吐きながらも、その笑いは止まらない。顔や腹部に巻かれた真っ白な包帯から、じわじわと新しい赤黒い血が滲み出し、シーツを汚していく。しかし、彼は自らの傷が開くことなど全く意に介さず、ただ目の前で完成しつつある「理想の怪物」の姿に、歓喜の声を張り上げた。
血と狂気に満ちたその異様な空間の中で。
ナツキ・スバルは、顔色一つ変えなかった。
ただ冷ややかな目で発狂する男を眺めながら、不意に、サイドテーブルの上に置かれていた物に目を留める。
誰かが残していた忘れ物だろうか。年季の入った、木製の細長いパイプだった。
スバルは無造作にそれを手に取ると、ジャージの袖で吸い口を軽く拭う。そして、懐から火打ち石を取り出し、慣れた手つきで火を点けた。
チッ、チッ、という小さな火花の音。
やがて、紫煙が静かに立ち昇る。スバルはパイプをゆっくりと口に咥え、深く吸い込み──そして、肺に満たした煙を、狂笑するロズワールの顔に向けて、ふぅ、と長く吐き出した。
煙草など吸ったことはなかったはずだ。だが、今の彼には、その煙の苦味さえもが、ひどく現実味のない、ただの舞台装置のように感じられた。
「……ロズワール。お前のその三文芝居を見に来たわけじゃない」
煙の向こう側から、スバルの静かで、絶対的な声が響く。
「俺は忙しいんだ。お前の下らない悦びに付き合ってやるのは、俺のルートにおいて、時間の無駄でしかない」
「ふふふぅ……すまないねぇ。ナツキ・スバル。つい年柄もなく、興奮してしまったよぉ」
ロズワールは口元を拭い、血に染まった唇を歪めて笑った。
「君が、ついに……ついに、私の求めていた領域に足を踏み入れてくれたことが、嬉しくて嬉しくてたまらなくてねぇ。私の期待に、見事に応えてくれた」
「あぁ、そうだろうな」
スバルはパイプを指の間に挟み、淡々と事実を述べるように言った。
「わざわざ俺たちが留守にしているアーラム村の屋敷に、優秀な『殺し屋』まで送り込んでくれてるわけだしな。それも、ひどく厄介な『腸狩り』と『魔獣使い』のコンビをな」
ピタリ、と。
ロズワールの笑い声が止まった。
彼のオッドアイの瞳が、驚愕に大きく見開かれる。
エルザ・グランヒルテ。そして、メィリィ・ポートルート。
ロズワールが密かに手引きし、屋敷にいるレムやフレデリカ、ペトラ、そしてベアトリスたちを皆殺しにするために配置した最凶の死客。
その情報を、なぜ今のスバルが知っているのか。
いや、彼が『やり直し』の力を持っていると確信しているロズワールにとって、スバルがその事実を知ること自体は想定の範囲内だ。しかし、問題はそこではない。
「ふむぅ……」
ロズワールの瞳に、深い懸念と、純粋な疑念が宿った。
「君がその事実を……屋敷が襲撃されるという未来を、そこまで正確にわかっているならば。なぜ……君はここにいるんだい? なぜ、すぐに屋敷に戻って事前に対策をしない?」
ロズワールは探るようにスバルを見つめる。
大切な者たちが惨殺される未来を知りながら、なぜこの少年は、ここで悠長にパイプを燻らせているのか。なぜ、血相を変えて怒り狂い、自分の胸ぐらを掴みかかってこないのか。
この期に及んでまだ、自らの手を汚すこと、人殺しを厭うとでもいうのか?
そのロズワールの疑問に対し。
スバルは、今日一番の、ひどく冷たく、そしておぞましい笑みを唇の端に浮かべた。
「知れたことだろ」
スバルはパイプの灰を、床へと無造作に落とす。
「腸狩りは、ここでは殺さない」
「……何?」
「ちょうど、盤面を動かすのに使える、取引できる『人質』までセットで来てるからな」
スバルの脳裏に、魔獣使いの少女、メィリィの顔が浮かぶ。彼女の背後にある組織、そして彼女自身の価値。それらを天秤にかけた結果、エキドナの知識とスバル自身の経験が弾き出した「最善の答え」。
「腸狩りは、狂ってはいるが、手駒として使うには非常に便利な道具だ。力ずくで殺して排除するよりも、生かして首輪をつけ、俺の目的のために働かせた方が、はるかに効率がいい」
スバルの声には、他者の命を奪うことへの忌避感も、逆に命を弄ぶことへの嗜虐的な歓喜もなかった。
あるのは、ただ純粋な「効率」と「利用価値」の計算のみ。
かつて、腸をぶちまけられ、大切な人々を殺されたことへの私怨すらも、彼は目的のために完全に切り捨てていた。
「俺の目的を達成するために使える道具が落ちている。拾えるのならば、拾う。……ただ、それだけのことだ」
静寂。
パイプから立ち昇る煙が、二人の間の空間をゆっくりと揺蕩う。
「あぁ……」
ロズワールの喉から、震えるような、歓喜のうめき声が漏れた。
彼は両手で自身の顔を覆い、天を仰ぐようにして、ベッドの上でのたうち回った。
「あぁぁぁ……! 素晴らしい! 素晴らしいよ、ナツキ・スバル!!」
自分の大切な仲間を殺しに来る、忌まわしい殺し屋。
普通であれば、憎悪に狂って殺し返すか、恐怖に怯えて逃げ出すのが人間というものだ。
しかし、目の前の少年は、その殺し屋の命すらも、盤面を有利に進めるための「便利な道具」として利用すると言い放ったのだ。
感情を捨て、道徳を捨て、ただたった一つの未来を掴み取るためだけに、あらゆるものを天秤にかける冷徹な精神。
「君は……ついに、私と同じになった! たった一つの目的のために、己の魂すらも差し出す、本物の『怪物』に!!」
ロズワールの狂気に満ちた絶叫が、血の匂いが充満する部屋に響き渡る。
自分が探し求めていた、唯一無二の共犯者。
その完成を喜ぶ魔導士の姿を、スバルはただ冷めた目で、深く、深く、パイプの煙を吸い込みながら見下ろしていた。
すでに、ナツキ・スバルの心は、人間が住む場所からは遠く離れた深淵へと、決定的に沈み込んでいた。