二十五歳。独身。フリーター。
この三つの単語を並べたとき、世間が抱くイメージというものがある。将来への不安、社会への不満、あるいは単なる怠惰。
俺、田中真也にとって、そのどれもが正解であり、同時にどれもが核心を突いてはいなかった。
正確に言うならば、俺はただ惰性で生きていた。
朝、スマートフォンのアラームが鳴る。安っぽい電子音に舌打ちをしながら、粘つく瞼を無理やりこじ開ける。カーテンの隙間から差し込む朝日は、今日も律儀に部屋の隅に溜まった埃を照らし出している。
六畳一間のワンルーム。万年床の匂いと、昨日コンビニで買ったカップラーメンの残骸。それが俺の全宇宙だった。
「……あー、腰が痛え」
独り言が空気に溶ける。
這い出すようにして布団から出ると、洗面台の鏡に映る自分を見る。無精髭がまばらに生え、目は死んだ魚のように濁っている。かつては、自分にも何かしらの可能性があると信じていた時期もあったような気がする。高校を卒業し、なんとなく大学に行き、何事もなく就職活動に失敗し、気付けばこのザマだ。
今日のシフトは午後一時から。近所の大型スーパーの品出しだ。
ボロいTシャツを脱ぎ捨て、首の伸びたシャツに着替える。
一日の始まりは、いつだって最悪だ。なぜなら、これから始まる数時間が、昨日と何ら変わり映えのしない、磨り減るだけの時間だと分かっているからだ。
アパートを出て、駅までの道を歩く。
途中、スーツを着た同年代の男たちとすれ違う。彼らは眩しいほどに「社会の一部」として機能しているように見えた。耳にワイヤレスイヤホンを突っ込み、険しい顔でスマホを弄りながら、どこか価値のある場所へと向かっている。
それに引き換え、俺はどうか。
スーパーの裏口から入り、タイムカードを切り、ひたすら段ボールの山を崩しては棚に商品を並べる。
牛乳、豆腐、納豆。
たまに客に「醤油はどこ?」と聞かれれば、死んだ笑顔で「三番の棚の奥です」と答える。
それが俺の価値のすべて。時給1050円の労働力。
「田中くーん、そこの特売のドレッシング、前出ししといてねー」
「……はい」
パートの佐藤さんの声に、機械的に返事をする。
作業自体は嫌いじゃない。何も考えなくていいからだ。
ただ、時折、ふと思うことがある。
俺という人間は、この広い世界のどこに繋がっているのだろうか。
このまま、誰に知られることもなく、何も成し遂げることもなく、ただ消費されていくだけなのだろうか。
そんな感傷すら、時間が経てば労働の疲れに塗りつぶされる。
午後九時。
退勤の打刻をして、スーパーを出る。夜風が火照った体に心地よい。
コンビニに寄り、適当な弁当と発泡酒、それからタバコを買う。
これが俺に許された唯一の贅沢であり、一日を締めくくる儀式だ。普段はバイト先のスーパーで買って帰るが、割高のコンビニで買うほうが何となく「贅沢をしてる感」が出ていい。
街灯の下、自分の影が長く伸びている。
ふと、空を見上げた。都会の空は明るすぎて、星なんて見えやしない。
俺は、惰性という名の坂道を、ゆっくりと転がり落ちている。
どこまで落ちるのか。底はあるのか。
……まあ、いいか。明日もまた、牛乳を並べるだけだ。
そんなことを思いながら、築三十年の木造アパート『ひだまり荘』へと辿り着いた。
名前とは裏腹に、湿っぽくて日当たりの悪い場所だ。
二階の角部屋。俺の城。
ドアの前で立ち止まり、ズボンの右ポケットに手を入れる。
キーホルダーのついた鍵を探す。
指先に金属の感触が触れた。それを掴み、外に引き出す。
その時だった。
手が滑った、というほど大げさなものではない。
ただ、一日の疲れで指先の感覚が、ほんの少しだけ鈍っていた。
カランッ。
金属音が夜の静寂に響く。
鍵はコンクリートの床に落ち、少しだけ跳ねて、俺の足元に転がった。
「……チッ、ついてねえな」
溜息を吐き、身体を屈める。
膝を曲げ、右手を地面に伸ばす。
早く部屋に入って、ビールを飲みたい。
ただそれだけの思い。無意識の動作。
俺の指先が、地面の鍵に触れる、その数センチ手前で。
――ふわり。
妙な感覚が走った。
それは、重力から解き放たれるような、あるいは水の中に沈めた風船が浮き上がってくるような。
俺が指で触れる前に。
鍵が、自ら意思を持っているかのように。
地面から「浮いた」。
「……え?」
静止。
俺の指先と、宙に浮く鍵。その距離、わずか三センチ。
一瞬、目の錯覚かと思った。
あるいは、何かの拍子にキーホルダーがどこかに引っかかったのか。
だが、俺の右手は何も掴んでいない。周囲に糸があるわけでもない。
鍵は、ただそこに浮いている。
俺が伸ばした手に向かって、吸い寄せられるように、空中に静止しているのだ。
心臓の鼓動が、不自然なほど大きく聞こえ始めた。
ドクン、ドクン、と。
混乱。
だが、その混乱の直後、俺の脳内に奇妙な「感覚」が降りてきた。
それは、パズルの最後のピースが、あるべき場所に完璧な角度でパチリと嵌まったような。
あるいは、ずっと錆び付いて動かなかった古い機械に、最高級の潤滑油が注がれ、滑らかに歯車が回り出したような。
なんで今まで気づかなかったのか、こうすれば『出来る』じゃないか。
説明のつかない納得。
俺は無意識に、右手の指を少しだけ曲げた。
シュッ、と。
鍵が、まるで磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、俺の手のひらの中に飛び込んできた。
金属の冷たさが、確かな現実として掌に伝わる。
「…………は?」
俺はそのままの姿勢で固まった。
手の中の鍵の感触が脳に染み渡るにつれて実感が遅れてやってきた。
今、何が起きた?いや、『出来る』と確信してやったのは俺だが、その原理を論理的に説明しろと言われても全くできない。単にやれると思ったからやってみたら出来ちゃったのだ。
マジック? いや、そんな仕掛けはしてない。
夢? いや、手のひらの鍵の感触はこんなにも鮮明だ。
俺は震える手で、もう一度鍵を地面に落としてみた。
チャリン。
今度は、先ほどよりも慎重に。
腰を落とさず、立ったまま地面の鍵に右手をかざす。
意識を集中させる。
先ほどの「ピースが嵌まった感覚」を、意識的に手繰り寄せる。
すると、どうだ。
俺の体の中から、目には見えない「何か」が、腕を通って手のひらから溢れ出すのが分かった。
それは温かい光のようでもあり、透明な触手のようでもあった。
それが地面の鍵に触れる。
スゥッ。
鍵が、何の抵抗もなく空中に浮き上がった。
俺の視線の高さまで。
意思一つで、右へ左へ。ゆっくりと円を描く。
「マジ……かよ……」
呆然と呟く。
俺は視線を逸らし、アパートの植え込みに落ちている小石に狙いを定めた。
今度はそっちだ。
手をかざす。
ひょい。
小石が、まるで羽毛のように軽く浮き上がった。
念じるだけで、自分の腕を動かすよりも容易く、物体が俺の意のままに動く。
これは。
これは、いわゆる一つの。
「……超能力、だよな。これ」
物語の主人公が、突然特別な力に目覚める。
アニメやラノベで百万回は擦り倒されたシチュエーション。
選ばれし者。運命の歯車。世界を救う力。
俺の頭の中を、そんなフレーズが駆け巡った。
だが。
浮いている小石を見つめながら、俺の脳裏を過ったのは、高揚感ではなかった。
もし。
もしも、これが誰かに見つかったら。
国家機関に拘束される?
白い部屋で一生実験動物にされるのか?
あるいは、悪の組織に狙われるのか?
「その力で世界を救ってくれ」なんて、どこの誰とも知らん奴に押し付けられるのか?
それとも、この力を使って銀行強盗でもするか? いや、防犯カメラが張り巡らされた現代日本で、そんなことができるわけがない。
ネットに動画を上げればバズるだろう。だが、その後は?
特定班に住所を突き止められ、家を取り囲まれ、プライバシーもクソもない生活が待っている。
面倒くさい。
あまりにも、面倒くさすぎる。
俺は、浮いていた小石を静かに地面に戻した。
「……いや、この平和な現代日本で超能力なんかあったら、余計に面倒事に巻き込まれるだろ」
俺は、深く、深く溜息を吐いた。
求めていたのは、こんな劇的な変化じゃない。
せめて、宝くじの一等に当選するとか、時給が500円上がるとか、そういう「現実的な幸福」が欲しかった。
超能力。
それは、俺のような「ただ平穏に、惰性で生きていきたい人間」にとっては、劇薬どころか、人生を台無しにしかねない爆弾でしかない。
俺は震える手でドアの鍵を開け、部屋に飛び込んだ。
バタン。
鍵を二重に閉め、チェーンまでかける。
暗い部屋の中。
俺はそのまま玄関の床に座り込んだ。
右手のひらを見る。
まだ、あの「ピースが嵌まった感覚」は残っている。
いつでも、あの力を呼び出せる。
「……見なかったことにしよう」
俺は自分にそう言い聞かせた。
買ってきた発泡酒のプルタブを引く。
プシュッ、という音が、先ほどの金属音よりもずっと安心させてくれた。
一気に喉に流し込む。苦い。
「ただの、気のせいだ。疲れてるんだ。明日は……明日はシフト休みだし、一日寝てよう」
そう。
超能力なんて、この令和の日本には必要ない。
明日になれば、きっとこの感覚も消えているはずだ。
だが、俺の意識の片隅で、新しく嵌まったピースが、微かに、しかし確かに光を放ち続けていた。
俺という男の日常が、根底からひっくり返ってしまったことに、まだ俺は気付かない振りを続けていた。