世界を救う力があっても、自分の家計一つ救えない。
それは笑えない冗談のようであり、目を背けたくなるほどに無慈悲な現実でもあった。
あれから一週間。
俺、田中真也(無職)は、自室の安物の座椅子に深く沈み込み、スマートフォンの画面を虚ろな目で見つめていた。
カーテンを閉め切った部屋。ブルーライトが俺の顔を白く、病的に照らし出す。メールの受信トレイをスクロールすれば、そこには人の心が感じられない定型文が幾重にも並んでいた。
『厳正なる選考の結果、誠に残念ながら……』
『今回はご希望に添いかねる結果と……』
「……また全滅かよ」
吐き出した溜息は、淀んだ空気に溶けるように重く沈み、そのまま消えた。
部屋には、昨日か一昨日かさえ判然としないコンビニのカップ麺の容器が放置されたまま、不快な酸っぱい匂いを放っている。
つい先日に自信満々で面接に向かった事務の仕事は、当然のように落とされた。あの時は他の事で頭がいっぱいで、そこまで考えが及んでなかったが、そもそも事務の経験も資格も無い元フリーターが簡単に就職出来るなら、俺はそもそもフリーターになんかなってない。
焦って応募した倉庫管理や警備、データ入力の仕事。特別なスキルや経験を必要としないはずのそれらでさえ、面白いように落ち続けた。
理由は明白だった。
数年続けた前職のスーパーを、なぜ突然、一週間前に電話一本で辞めたのか。面接官のその問いに、俺はいつも言葉を濁した。
『……一身上の都合です』
『……体調が急に悪くなって』
そんな、社会人失格のレッテルを自ら貼るような煮え切らない答えで、まともな企業が採用してくれるはずもない。……もしくは、単に俺みたいなやつを取りたくないっていう身も蓋もない理由なのかもしれないが。
「はは……魔法使い、ねぇ」
自嘲気味に呟く。
今この瞬間も、意識を研ぎ澄ませば、壁一枚隔てた隣人がテレビのリモコンを操作する微かな振動さえも、自分の指先のように感じ取ることができる。アパートの前の電線に止まった鳥の羽ばたきさえ、念力の残滓が捉えてしまう。
だが、履歴書の職歴欄を「魔法」で埋めることはできない。空腹を「念力」で満たすこともできない。
社会にとっての俺は、超能力者でも英雄でもない。ただの、社会の循環からこぼれ落ちた「無職」という記号に過ぎないのだ。
「……今日はハ○ーワークにでも行ってみるか。」
求人サイトだけで職を探すのにも限界がある。
俺は重い腰を上げ、クローゼットの奥から唯一の戦闘服であるスーツを引っ張り出した。一週間前には「再出発の希望」を込めて袖を通したはずのそれは、今では俺の首を絞める呪いの装備のように重く感じられた。
カビ臭い洗面所で最低限の身なりを整え、鏡の前で引きつった笑顔を作る。
靴を履き、重い鉄製のドアの鍵を開ける。
だが、その瞬間。
「田中真也さん、ですね?」
背筋を物理的に凍りつかせるような、重みのある低い声が廊下に響いた。
心臓が不規則に、激しく脈打ち、全身の毛穴が瞬時に収縮する。
アパートの狭い廊下に立っていたのは、くたびれたトレンチコートを羽織った、どこにでもいそうな初老の男だった。使い込まれたコートのボタンが一つ取れかかっていて、それが妙にリアルな生活感を感じさせる。
「……え、あ、はい。そうですけど」
俺は困惑した表情を取り繕い、男を見つめた。新聞の勧誘か、あるいは何か別のセールスであってくれと、祈るような心地で。だが、男が胸元から無造作に取り出した、四隅が擦り切れた革製の手帳を見て、俺の祈りは無残に砕け散った。
「県警の倉田です。……お出かけのところ、急に悪かったね」
警察。
最悪の単語が、脳内でリフレインする。
なぜ。どうして。心臓の鼓動が耳の奥で、警鐘のように乱打される。
まさか、なんで、俺は完璧にやった。警察だって、まさか数キロ先から「脳を増設した男」が念力で通報し、犯人の血管をピンポイントで圧迫したなんて、夢にも思わないはずだ。あの現場に、俺という人間を特定できる物理的な証拠は何一つ、塵一つ残っていない。俺に繋がる訳がないんだ。
なのになんで、今、俺の前には刑事が立っている?
全身の血の気が引き、指先が急速に冷えていく。自分の顔が幽霊のように青ざめているのを自覚しながら、俺は必死に、震えそうになる喉を抑え込んで声を絞り出した。
「……警察? 何の、用ですか。俺、何か……トラブルにでも巻き込まれたんですか?」
倉田は俺の動揺をなだめるように、申し訳なさそうに眉を下げて笑った。その笑みは、善良な市民を安心させるための、長年の経験で磨き上げられた仮面のようにも見えた。
「いやいや、そう身構えないでくれ。先日この近くで起きた、例の誘拐事件。……覚えてるかな。犯人も捕まって一件落着なんだが、報告書をまとめるにあたって、少しだけ『拾い残した声』を確認して歩いているんだよ。本当に形式的なものだ。君を疑って来たわけじゃないから、安心してほしい」
誘拐事件。
倉田の口からその単語が出た瞬間、俺の脳裏が真っ白に染まった。
やはりそれか。終わったはずの、あの事件。俺が「一線を越えて」介入した、あの事件の件で俺を訪ねてきたのか。
「確認……ですか。何かお役に立てるようなことは、ないと思いますけど……」
「ああ。被害者の女の子の友人たちが、君のことをよく覚えていてね。事件の数日前とか、当日に何か変わった様子がなかったか聞いて回っているんだ。……なにせ、あの子たちがね、口々に言うんだよ。『おっちゃんは魔法使いだから、魔法で悪い奴をやっつけたんだ』って。警察の事情聴取でまで、大真面目にそんなこと言うもんだからね。形式的な手続きとして、一応ヒーローの正体を確認しておこうと思ってね」
魔法使い。
追い打ちをかけるようなその言葉に、眩暈がした。視界の端がぐにゃりと歪む。
……冗談だろ? 子供たちが……警察にまで? 俺のことを話したのか?
子供たちの純粋な感謝が、これほどまでに鋭利な刃物となって自分に突き立てられるとは想像もしていなかった。大人は信じない、そう高を括っていた。だが、警察が「魔法使い」というキーワードから、わざわざスーパーの元店員の身元を割り出し、このボロアパートの玄関先まで辿り着いたという事実に、俺は吐き気すら覚えた。
子供たちは「善意」で俺を誇ったのだ。それが、俺を破滅の淵へ追い詰めているとも知らずに。
「……ただちょっと、話す機会があっただけですよ。転んだ男の子に絆創膏をあげただけです。魔法なんてのも、あの子たちが勝手に言ってるあだ名みたいなもんでしょう。……事件の日は、特に何も見ていません。仕事が忙しかったので、本当に。お役に立てなくてすみません」
俺は必死に声を整えた。肺から空気が漏れるような感覚を必死に堪え、怪しまれないよう、視線を泳がせないよう、細心の注意を払う。
倉田は「そうだろうねぇ、今の子供は想像力が豊かだ」と穏やかに相槌を打ちながら、熱心に手帳にペンを走らせている。そのペン先が紙を擦る音が、俺の寿命を削る音のように聞こえた。
「事件の翌日に仕事を辞められたのも、やはり何か事件の影響で……? 怖くなったりしたのかな?」
「……いえ、ただの体調不良です。以前から調子が悪くて、ちょうどあのタイミングで辞めることにしただけです。事件とは、何の関係もありません」
「なるほど、それは災難だったね。今はもう大丈夫なのかな?」
「ええ、ハ○ーワークへ行けるくらいには」
「そうか、それは良かった。忙しいところ、変なことを聞いて悪かったね。仕事探し、頑張ってください」
倉田は手帳を閉じ、深々とお辞儀をした。その仕草はどこまでも謙虚で、一人の善良な公務員そのものだった。
「おかげで助かったよ。失礼します」
倉田はそのまま、後ろに控えていた若い刑事と共に、階段を降りていった。
……終わった。
刑事たちが見えなくなると同時に、俺はその場に静かに崩れ落ちた。
手の震えが止まらない。背中は汗でぐっしょりと濡れ、コンクリートの床が妙に冷たく感じられた。
ただの聞き込みだった。
解決済みの事件の、余談のようなもの。
俺が超能力を使ったことなんて、微塵も気づかれていない。
安堵が全身を駆け巡る。
俺は震える手でスーツを正し、ハ○ーワークへ向かうために立ち上がった。
大丈夫だ。乗り切った。俺はまだ、平凡な日常の中にいる。自分にそう言い聞かせるようにしながら、足早に俺は歩き出した。
――だが。
アパートの敷地を出て、角を曲がったパトカーの車内で。
倉田の表情からは、先ほどまでの「柔和な老人」の面影が、霧が晴れるように消え失せていた。
彼は無言で、手帳の「田中真也」と大きく書かれたページをじっと見つめていた。その横には、殴り書きで『瞳の揺らぎ』『指先の微震』『異常なまでの拒絶反応』と記されている。
「倉田さん、お疲れ様です。……でも、やっぱり無駄足だったんじゃないですか?」
ハンドルを握る若手刑事が、倉田の顔を横から窺い、苦笑いしながら言った。
「事件はもう解決して、犯人も自供してる。物証も揃ってる。あの青年が言った通り、ただバイトを辞めたタイミングが悪かっただけですよ。子供たちに好かれる好青年ってやつじゃないですか」
倉田は返事をしなかった。
脳裏に焼き付いているのは、最初に「警察」だと名乗った瞬間の、田中真也の『瞳』だ。
単なる困惑ではない。
自分の存在そのものが、その一瞬で崩壊するのを待つような。
断頭台の上で、刃が落ちるのを待つ死刑囚のような、底知れない絶望と拒絶。
「……犯人の供述に、一箇所だけ、どうしても腑に落ちない点があった」
倉田が低く呟いた。その声は、若手刑事が聞いたこともないほど冷え切っていた。パトカー内の空気が、一瞬で緊張感に包まれる。
「『急に、頭の中が真っ白になって動けなくなった』。……薬物反応もなく、健康な男がだ。脳卒中でもない。そしてその直後、誰もいないはずの場所から、正確に事件現場を指定した通報が入った。……物理的にありえないピースが、この事件には混じっているんだよ」
倉田は窓の外を流れる、ありふれた街の景色に視線を移した。
その目は、獲物の喉元を確実に捉えた老練な獣のように、鋭く、暗く光っていた。
「あの田中真也という男……。彼は、嘘を吐くのが下手じゃない。だが、自分が『何者か』を隠そうとする必死さが、あまりにも異常だ。ただの男が、警察に名乗られただけであんな顔をするものか」
倉田はペンを走らせ、田中真也の名前に、紙を突き破らんばかりの力で二重の線を引いた。
「事件は解決した。だが、田中真也という『謎』は残ったままだ。あいつは何かを隠してる」
倉田は、若手刑事に聞こえないほどの小声で付け加えた。
「…また会うことになるだろうよ。田中君。君が何者であれ」