馴染み深い『スーパー・サニーデイズ』の裏口。従業員専用の重い鉄扉の前に立つと、喉の奥がちりりと焼けるような不快な緊張感に襲われた。かつては一日に何度も無意識に開閉していたその扉が、今は境界線――平穏な日常と、取り返しのつかない非日常を分かつ絶壁のように思える。
搬入口の脇にある狭い階段を上り、二階の事務所へと向かう。
磨りガラスのはまったドアをノックし、細く開けた。
「……失礼します。田中です」
事務所の中は、蛍光灯の一本が寿命を迎えかけているのか、一定の周期でジジッ、ジジッとか細い異音を立てていた。
乱雑に積まれた伝票の山と、古びたデスクトップパソコンのモニターの影から、一人の人影が顔を上げた。
短く刈り込まれた清潔感のある髪。端正だが彫りが深く、何となく強面に感じる顔、左手の薬指にはシンプルな結婚指輪が光っている。甘寺幸輝、三十二歳。この店の舵取りを担う店長だ。
甘寺は俺の姿を認めると、手に持っていたボールペンをデスクに置き、組んでいた足を静かに入れ替えた。
「……あの、店長。本当に、急にあんな辞め方をして、申し訳ありませんでした」
入り口で深く頭を下げた俺の謝罪に対し、甘寺はそれを受け入れるでも、否定するでもなく、ただ冷淡に顎で前方のパイプ椅子を指した。
「……とりあえず座れ。話はそれからだ」
その低く、刺すような声音。
普段の甘寺は、部下に対しても「田中くん、これお願いできるかな」といった、既婚者らしい落ち着きと余裕を感じさせる口調で話す。だが、今の彼は違う。声音を荒らげているわけではない。むしろ、感情の起伏を押し殺したような平坦な響き。だが、言葉の端々に隠しきれない、剥き出しの「荒々しい男の響き」が混じっている。
電話で話した時から既にこうだったが、もしかしたら着く頃には怒りが収まっているかもしれない。そんな淡い期待が砕け散るのを、俺は肌で感じた。
この『荒っぽい甘寺店長』は、彼が本気で腹を立てている時のサインだ。怒鳴られた方がまだマシだと思えるほど、その静かな声には、有無を言わせぬ暴力的な圧力が宿っている。怠けた学生バイト、陰湿なクレーマーたち、それらを彼は「これ」で対応してきた。
俺は蛇に睨まれた蛙のように、促されるまま、軋むパイプ椅子に腰を下ろした。
「田中。お前が急に電話一本で辞めて、現場がどれだけ混乱したか分かってるか? シフトの穴埋めで俺は三日、まともに家に帰ってない。……だが、今日呼び出したのはその説教をするためでも、荷物を取らせに来させたんでもない」
甘寺はデスクの上のペンを弄りながら、獲物を品定めするような目で俺を見た。
「最近、警察がお前のことを聞きに来た。誘拐事件の事で話を伺いたい……とな。それから、子供たちのグループが何度も店に来ては、『あのおっちゃんはいないの?』とうるさく聞いてくる」
警察。それに子供たち。
その単語が出た瞬間、俺の肩が微かに跳ねた。膝の上で握りしめた拳が、じっとりと嫌な汗をかく。
そのわずかな、しかし決定的な反応を、甘寺は見逃さなかった。彼はふっと眉をひそめ、俺の顔の筋肉の動きを一つ一つ検品するように、目を細めて覗き込んできた。
「……警察と聞いて、そんなに顔色を変えるのか。何か、やましいことでもあるのかよ、お前」
声が一段と低くなる。追求するような威圧感が、逃げ場を完全に塞いでいく。俺は視線を逸らし、必死に動悸を抑えながら答えた。
「……いえ、別に。何もありません。ただ、警察なんて聞くと、驚くのが普通でしょう」
嘘を吐くときの、乾いた、喉に張り付くような声。
甘寺はそれ以上深くは追及せず、デスクの引き出しから小さなビニール袋を取り出した。
「……まあいいさ。これを渡してって、その子供たちに頼まれたんだ。毎日毎日、業務に支障が出るほど聞かれるから、預かっておいた。子供たちからのお礼だそうだ。受け取れよ」
彼がデスク越しに滑らせてきたのは、包装のチョコレートが数粒入った透明な袋だった。
「……っ」
あの子たちは確信しているのだ。あの日、俺が「魔法」のようにして美咲ちゃんを救い出したことを。それだけならまだいい、しかしその『真実』を周囲に、店長や警察にも言いふらしている。俺にはこの安っぽいお菓子の袋が、自分の行動の代償を象徴する重石のように見えて、動けなくなった。
すると、甘寺はそんな俺を見て、椅子の背もたれに深く体重を預け、大きく息を吐いて前髪をかきあげた。それまで事務所を支配していた鉄のような緊張感が、ふっと霧散した。
「……田中君、そんなスーツ着て出歩いてるって事は、まだ次の仕事も決まってないんだろう?」
唐突に、いつもの口調に戻っていた。
「お前」から「田中君」へ。刺々しさが消え、年上の男性らしい落ち着いた響き。だが、その豹変こそが、俺の心拍数をさらに跳ね上げた。彼はもう怒っていない。いや、正確には「怒る段階」を終え、俺という存在を「どうするか」の判断を下そうとしているのだ。
甘寺はこの「切り替え」を良かれと思ってやってる節があるが、そのギャップが逆に普段と似ても似つかない『荒っぽい甘寺店長』の怖さを助長している。
怒声よりも恐ろしい、いつもの声。それは獲物の喉元を確実に捉えた捕食者の余裕に似ていた。
「……実は田中君が辞めてすぐに、パートの佐藤さんも辞めちゃってね。夫婦喧嘩で実家に帰るんだとさ。……田中君は真面目だったし、仕事も早かった。あの日、急に辞めたのだって、何か人には言えないトラブルに巻き込まれたんだろう?」
彼の言葉は、恐ろしいほど核心を突いていた。だが、彼はそれ以上暴こうとはせず、穏やかに、同情を誘うような響きで続けた。
「事情は聞かないよ。でも、今のこの店には、君の力が必要なんだ。新人教育には時間がかかるし、信頼できる人員を欠いて、俺も限界なのは事実なんだから」
甘寺はデスク越しに身を乗り出し、俺の目を真っ直ぐに見つめた。
「戻ってきてよ、田中君。……子供たちに会うのが気まずいなら、バックヤード専属の作業を用意してあげる。荷受け、品出し、検品。これなら客と接することもないし、あの子たちと顔を合わせることもない」
それは、今の俺にとってこれ以上ない救いのように聞こえた。
ハ〇ーワークで見た、あの殺伐とした求人票の山。社会から「お前の代わりはいくらでもいる」と突き放される感覚。それに比べれば、ここは俺の存在を必要とし、俺という人間を、そのまま受け入れてくれる場所だ。
「……店長、俺は」
断りの言葉を紡ごうとしたが、言葉が喉の奥でつかえて出てこない。
彼の提案は、逃げ場を失った俺の背中を、静かに、しかし確実に押し始めていた。
一度怒りを見せ、その後で優しく微笑む。その単純な、しかし強力な緩急に、俺の精神はじわじわと摩耗していく。
外堀を埋められ、俺という人間が再び「日常」という名の檻へと引き戻されていく足音が、夕闇の中に響いているようだった。