バックヤードの冷たいコンクリートの床に、俺は立ち尽くしていた。
指先には、今しがた拾い上げた飲料ケースの、ひしゃげた段ボールの感触が残っている。
「……お前、マジで『魔法使い』か何かなのか?」
甘寺店長の口から漏れたその言葉は、まるで静まり返った湖面に投げ込まれた巨大な岩のように、俺の頭の中を激しく掻き乱した。
(魔法使い……?)
その言葉の響きに、心臓がドクンと嫌な脈動を打つ。
この一ヶ月、俺が死に物狂いでひた隠しにしてきた「異常」。子供たちが言い触らしているであろうその単語。俺が超能力者だという「真実」を示す言葉が、なぜ今、このタイミングで、この人の口から飛び出してきたのか。
わけがわからなかった。
俺はただ、棚の奥に滑り込んだ伝票を取ろうと這いつくばっていただけだ。
無理な体勢で柱を揺らしてしまったのか、横で「ドサッ」という鈍い音が響いた。驚いて這い出してみれば、そこには飲料ペットボトルの入った段ボールが転がっていた。
(……危なかったな。あと数十センチずれていたら、頭に直撃していたかもしれない)
俺の認識はその程度だった。
間一髪で荷物を避けた、幸運な男。ただの不注意なバイト。
今の俺を客観的に見たならば、そう見えたはずだ。
なのに、目の前の店長はどうだ。
血の気が失せた顔。幽霊を見たかのような、見開かれた瞳。
そして、その口から発せられた、現実離れした問い。
「て、店長……? 何を、言ってるんですか?」
俺は乾いた笑い声を漏らした。
店長の様子があまりに尋常じゃなくて、背筋が凍るような感覚がした。
怒っているのか。それとも、何かに怯えているのか。
店長の視線は、俺の頭のあたりと、俺の抱える段ボールの間を何度も往復している。まるでそこに、俺には見えない「何か」が残っていると確信しているかのように。
「田中、お前……今、何をした」
店長の声は震えていた。
いつもなら「怪我は無いか?田中君?」と落ち着いた声で心配してくる店長が、絞り出すような、ひどく重い声を出している。多分だけど、この『荒っぽい甘寺店長』がこの人の素なんだろうな。と、どうでもいいことがぼんやりと浮かんだ。
何か、この人から『普段の甘寺店長』を剥ぎ取るような、あの子供たちから聞いたんであろう「魔法使い」という単語が「真実」だと確信させるような出来事があったんだ。
(まさか……今、俺、無意識に……?)
嫌な汗が吹き出した。
俺は使っていない。使うつもりなんてなかった。
日常を守るために、自分を殺してまで真面目に働いてきたんだ。
なのに、店長は俺の事を「魔法使い」と言っているのか?
「て、店長、落ち着いてください……! 俺、別に何もしてませんよ! ただ棚を揺らしちゃって、荷物が落ちてきて……あ、危なかったなーって、それだけです!」
俺は両手を振って否定した。声が裏返り、自分でも驚くほど必死な調子になった。
否定すればするほど、自分の中の「やましさ」が剥き出しになっていくようで、胃のあたりが焼けるように熱い。
「嘘だ。……俺は確かに見た。あんな落ち方、物理的にありえねえ。お前の頭を滑るみてえに、段ボールがまるで生き物みたいに避けたんだ。ありえねえだろ。……お前、本当に……」
店長が一歩、踏み込んでくる。
その一歩が、俺には崖っぷちに追い詰められる死神の歩みに見えた。
バレる。
ここで認めれば、俺の「平穏」は終わる。
これまでの努力が全て無駄になる。やっと慣れてきたこの仕事だって失うかもしれない。子供たちにバレるのとは話が違う。店長がこれを誰かに話したら、俺は今度こそ終わりだ。
そんなの、耐えられない。
「ち、違います! 店長の見間違いです! 光の加減ですよ、ほら、ここ、蛍光灯がチカチカしてるから! あるいは俺が、無意識にサッて避けただけかもしれないし……!」
俺は必死に、論理的でもなんでもない言い訳を並べ立てた。
自分の不自然な弁明が、店長の疑惑をますます確信に変えていくのが分かって、さらにパニックが加速する。
「それより店長、すみません! 商品が、段ボールが潰れちゃって……! 中のボトルも傷ついてるかもしれない。本当に、俺の不注意です。弁償します。給料から引いてください。始末書も書きますから……だから、変なこと言わないでくださいよ……っ」
俺は、商品を抱えたまま深々と頭を下げた。
「魔法使い」という正体不明の疑惑よりも、「商品を壊したダメなバイト」という確定した罪の中に逃げ込みたかった。
謝罪の言葉を盾にして、俺は必死に店長の視線から自分を隠した。
床のタイルの模様を凝視しながら、心臓の音がバックヤード中に響いているんじゃないかと気が気じゃなかった。
長い沈黙が流れた。
俺の頭上から、店長の重苦しい視線が離れない。
どれくらいの時間が経っただろう。数秒だったのかもしれないし、数分だったのかもしれない。
バックヤードの冷気が、汗ばんだ肌を冷やし、震えを助長させる。
「……ふん」
不意に、鼻を鳴らすような音が聞こえた。
恐る恐る顔を上げると、店長は、俺から視線を逸らして、後頭部をガシガシと乱暴に掻いていた。
「……そうかよ。見間違いか。最近、疲れが溜まってんのかね、俺も」
「え……?」
店長の声から、さっきまでの鋭さが消えていた。
代わりにあったのは、ひどく投げやりで、それでいて温かい響きだった。
「田中君。その潰れたケース、中身が無事なら特売用のワゴンに突っ込んどいて。段ボールが凹んでるなら詰め替えて。……弁償なんていいよ。その代わり、次からは気をつけてね」
普段の口調に戻った店長は、俺にそれ以上の追求をすることを、明確に拒否した。
その横顔には、俺の嘘を、嘘だと知りながら、それを「日常」として処理しようとする、強引なまでの寛容さが滲んでいた。
「あ、ありがとうございます……店長……すみません……」
俺は、膝の力が抜けて、その場にへたり込みそうになった。
店長は何も聞いてこなかった。
なぜ俺がそんな力を持つのか。その力でどんな事ができるのか。
この人は、その「深淵」に踏み込めば、今までの関係が壊れてしまうことを分かっているのだ。
「……田中君」
立ち去りかけた店長が、背を向けたまま足を止めた。
「君が何者だろうが、ここで段ボールを運んで、棚を埋めてる限りは、俺の店の従業員だ。……それだけは忘れるな」
「……っ……はいっ」
俺は、絞り出すような声で返事をした。
視界が少しだけ、潤んだ。
店長が事務所へと消えていく。その背中を見送りながら、俺は冷たくなった指先で、破損したケースを抱え直した。
『魔法使い』
店長はきっと、それを確信しているだろう。
でも、この場所は守られた。
店長が俺を「田中君」と呼び続けてくれる限り、俺はまだ、ただの人間としてここにいてもいいんだ。
この超能力に目覚めてから、俺はたった一人でこの「重荷」を抱えてきた。
この便利な力が、いつか自分の生活を壊してしまうのではないか。誰かにバレたら、もう普通ではいられなくなる。その不安が、ずっと胸の奥に澱のように溜まっていた。
でも今、店長がそれを知った。
俺の異常性を目撃し、その上で「見間違い」だと言ってくれた。
それは、俺にとって初めての経験だった。
この厄介すぎる力を隠し通さなければならないという孤独な戦いの中に、ようやく一人、背中を預けられる――いや、見て見ぬふりをしてくれる、無言の共犯者ができたような感覚。
恐怖の裏側で、じわりと温かいものがこみ上げてくる。
「凄い力だ」と畏怖されるのでもなく、「怪物だ」と拒絶されるのでもなく、いつもの「バイトの田中君」として扱われた。
平凡な、どこにでもあるスーパーの日常。
その薄皮一枚の下に、得体の知れない何かが潜んでいたとしても。
俺は、店長が差し出してくれたこの「嘘」の中で、必死に生きていこうと心に決めた。