あの日、バックヤードで起きた「事故」から数週間が過ぎた。
スーパー・サニーデイズの日常は、驚くほど何事もなかったかのように流れている。
だが、俺の心の内側は、日に日にどす黒い澱のような不安で満たされていた。
店長は、あの日以来、何も聞いてこなかった。
バックヤードで二人きりになっても、彼は以前と変わらない穏やかな口調で指示を出すだけだ。
その沈黙は救いだったが、同時に俺の中の「異物感」を際立たせた。店長が俺を「普通のバイト」として扱おうとしてくれるほど、俺の中にある「超能力」が、自分という存在を裏切っているような倒錯した罪悪感に襲われる。
深夜、自室のベッドで横になりながら、俺は自分の呼吸の音だけを数えていた。
最近の俺は、常に自分自身を監視している。
たとえば、今この瞬間。俺がふと「顔の横を飛んだ羽虫が邪魔だ」と思ったとする。その程度の些細な欲求が、脳の神経を通って腕を動かすより先に、未知の経路を通って『現実』を直接書き換えてしまったらどうなる?
それを誰かに見られたら?その「羽虫」が「人間」だったら?
これまで無意識下で勝手に何かが起きた明確な証拠は、あの時の「段ボール」だけだ。俺の「超能力」は、あの時の状況から見て、俺の肉体を勝手に守ろうとしてる事は確かだった。それが俺の体を守る事以外でも無意識で発動するかもしれない。という疑念を拭い去る事は出来なかった。
蛇口を閉め忘れるように、あるいは瞬きをするように、自分の意思の欠片がこぼれ落ち、それが物理的な破壊として結実してしまうのではないか。
俺は自分の右手を、まるで時限爆弾のスイッチでもあるかのように見つめた。
俺がこれまで培ってきた「人間としての輪郭」が薄れ、本当に「魔法使いか何か」になっていってしまっている気がする。本能が、これは生存のための進化ではなく、人間としての死なのだと告げていた。
俺が超能力を隠し、使わないようにしてるのは、日常を守りたいから。というのもある。
だがこの『異物』を認めてしまったら、二度と「普通の人間」という側に戻ってこれなくなる。それが怖くて、俺は自分の意識に幾重にも鍵をかけ、縮こまるようにして過ごしていた。
だが、そんな不安とは裏腹に、俺は努めて「以前と同じ」仕事ぶりを続けていた。
バックヤード専属という立場は、今の俺にとって救いだった。誰の目にも触れず、ただ黙々と段ボールを捌き、検品し、決められた棚に配置していく。その単調な反復に没頭している間だけは、自分が『人間』であることを再確認できた。
端末を叩く指の角度、カッターを入れる深さ、コンテナを積み上げる順番。
あえて一文字も変えない台本をなぞるように、以前の自分を模倣するかのように、俺は仕事に没頭した。
(大丈夫だ。俺はまだ昨日の俺と同じ場所にいる)
検品を終え、俺は額の汗を拭った。
俺は必死に「バックヤードの作業員」という殻に閉じこもった。昨日と同じ時間に段ボールを畳み、昨日と同じ熱量で在庫表にチェックを入れる。そうすることでしか、自分の輪郭を保てない気がした。
そんな緊張の糸が張り詰めたままの、閉店間際の蒸し暑い夜のことだった。
俺は空き箱を片付けるため、事務所の前を通りかかった。
その時、薄い扉の向こうから、普段の穏やかな店長からは想像もできないような、しかし「荒っぽい甘寺店長」とも違う。低く、地を這うような怒声が響いてきた。
「……ふざけるな! 家族は関係ないだろ!」
俺の足が、凍りついたように止まった。
「……分かっている……一人で行く……警察? 呼ぶわけがないだろ……だから……頼む、娘にだけは……」
ドア越しに途切れ途切れに聞こえてくるその声。
その声には、怒りだけではなく、肺を搾り出すような悲痛な祈りが混じっていた。
俺は手に持っていた段ボールを落としそうになるのを必死でこらえた。店長の家族。確か娘さんはまだ小さかったはずだ。それが、何らかの事件に巻き込まれていると言うのか?
心臓が早鐘を打つ。せっかく手にした平穏。それを守るために自分を殺してまで続けてきたこの一ヶ月。それらが、たった一本の電話によって、暴力的な「非日常」へと引きずり戻されていくのを感じる。
突然、事務所の扉が勢いよく開いた。
飛び出してきた店長と、鉢合わせになる。
「店長……?」
店長の顔は、幽霊でも見たかのように青白く、それでいてその瞳の奥には、あの日見た「鋭さ」が絶望の色を帯びて燃えていた。
店長は俺の姿を認めると、一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「田中……すまない、聞かれたか。……昔、俺がヤンチャしてた頃に恨みを買った奴が、俺の家族を誘拐しやがった」
「ヤンチャ」という、その場にそぐわないほど軽い響きの言葉。だが、店長が口にしたそれは、かつて彼が暴力と隣り合わせの世界で、誰かの深い怨恨を買うような生き方をしていたんであろう事実を、重く俺に突きつけた。「店長」の裏側にあった、俺の知らない暗い過去。
衝撃で頭が真っ白になった。 過去の報復? まるでドラマか何かの出来事のようだ。けれど、目の前で、隠し切れないほどの怒りに震えている店長の姿が、これが逃れようのない現実であることを突きつけていた。
「これは俺一人の問題だ。俺の過去が招いた、俺だけの……罪なんだ。お前は何も気にするな。普通に店を閉めて、普通に帰れ」
店長は、それだけを言い残すと、俺が声をかける隙も与えず、バックヤードを飛び出していった。駐車場でエンジンが掛かる音が聞こえ、タイヤが悲鳴を上げて遠ざかっていく。
取り残されたバックヤードに、冷ややかな静寂が戻る。
俺は、立ち尽くしたまま、床を所在なさげに眺めるしか無かった。おそらく、数分はそうしていたと思う。
───それで?そこでずっと立ってるつもりか?
内なる声が問いかけてくる。
俺の頭の中は、相反する感情が激しくぶつかり合う戦場と化していた。
店長は、俺が何者であるかを知りながら、あの日「見間違いだ」と言って俺を庇ってくれた。俺に「田中君」という日常の名前を与え続けてくれた。俺が不思議な力を持っている事を察しながらも、それを誰にも言うことなく、黙っていてくれた。
その人が、その「恩人」の大事な人たちの日常が、過去の因縁か何かで、そんなもんのために、壊されようとしている。
超能力に目覚める前の俺なら「どうせ何も出来ることは無い」と、ただ家に帰って寝ていただけだろう。精々が、警察に連絡する。くらいの事しか出来なかったろう。
だが今は違う。
あの少女、美咲ちゃんだったかを助けた時と同じだ。こんな力を持ってなければ、こんなに悩む事も無かった。悩める、という「選択肢」が生まれることも無かった。
もし、俺が「普通」のふりをして、そのままアパートに帰ったら?
明日も店は開くだろう。でも、そこに店長はいないかもしれない。店長を救えなかった俺という「薄情者」はこの先、どうやって「人間」のふりをして生きていけばいい?
(怖い。……本当に、怖いんだ)
俺は自分の腕を抱きしめた。
力を使うことが怖い。世間にバレてしまう事が怖い。この「日常」が壊れてしまうのが、何よりも怖い。
───カッコつけて言うなよ。結局は自分可愛さでビビってるだけだろ。
…そう。その通りだ。
次に俺が「超能力」を使って、一線を越えれば、俺の心は全能感に侵食され、他者を、世界を、ただの「動かせるモノ」としてしか見られなくなるのではないか。もしそうなったら、昨日まで必死に守ってきた『田中』という一個人が、ただの『怪物』に塗りつぶされてしまう。
超能力。あんな不気味なものを使って介入すればどうなる?あの日、段ボールを無意識に避けただけで、店長は俺を『魔法使い』と呼んだ。もし今、自分の意思であの深淵を覗き込み、その力を振るえば、もう二度と「ただのバイトの田中君」には戻れない気がする。
せっかく手に入れた、この平穏な場所。自分を繋ぎ止めてくれる唯一の錨を、自分自身の手で叩き壊すことになるかもしれない。
だが。
(……それでも、店長を助けたい)
店長が差し出してくれたあの「嘘」
店長も俺も、それ以上話すことはなかったが、俺はそれに対して、深い感謝を感じていた。俺はそれに報いたい。
俺や店長から日常を奪おうとする奴らを、俺は見過ごすことはできない。
胸の奥で、鍵をかけていた扉が、音を立てて崩れ落ちた。
これまで必死に抑え込んできた、あの「感覚」を意識的に回す。
視界が歪む。物理法則が俺の意志に屈服し、周囲の空気が密度を増していく。
俺は、もはや震えてはいなかった。
決意が、俺の感覚を「人間」から「超能力者」へと切り替えていく。
───これでお前は「こっち側」だな。
うるさい、黙れ。
俺は店長の過去について何も知らない。家族がどんな人なのかも、ほとんど聞いた事は無い。美咲ちゃんの時のように、頼まれた訳でもない。
わざわざ俺が助けなきゃいけない理由なんか無い。電話では、警察には言うな。とか言われていたようだが、俺が通報すれば、警察が何とかしてくれるのかもしれない。
それでも、ここで見て見ぬフリなんかできない。