アクセルを踏み込む右足が、自分でも驚くほど小刻みに震えていた。
バックミラーに映る自分の顔は、十数年前の、あの血生臭い路地裏を彷徨っていた頃の「狂犬」そのものだった。
家族には、ずっと隠し通せると信じていた。
かつて俺がこの街で何をしていたか。どれほど多くの者の骨を砕き、どれほどの恨みを買ってきたか。スーパーの店長という「平穏」な隠れ蓑の下に、その醜い過去を完全に埋めたつもりだった。
だが、現実は残酷だ。埋めたはずの種は、忘れた頃にどす黒い芽を出し、俺の最も大切なものを絞め殺そうとしている。
「吉澤……っ!」
ハンドルを叩く。
かつて俺がリーダーとしてまとめていたチームと激しく争っていたチームのリーダー格。狡猾で、執念深く、目的のためなら手段を選ばない男。
十数年前、最後の抗争の夜。俺は吉澤を人気のない工事現場に追い詰め、奴の右足を鉄パイプで粉砕した。俺にとってはそれだけの相手だ。奴が俺に対してどんな思いを抱いて、これまで生きてきたのかは想像するしかない。だが、ろくでもないもんだろうって事だけは確かだった。
指定された場所の廃ビルは、人気の少ない、犯罪にはうってつけだろう場所だった。
車を降りると、全身の毛穴が逆立つような感覚に襲われる。かつての直感が、ここが「罠」であることを告げている。それでも、俺には逃げる選択肢などなかった。
ビルの中は、腐った油と錆の匂いが充満していた。
二階へ続く階段を一段ずつ上がるたび、過去の記憶が脳内にフラッシュバックする。殴った時の拳の痛み。飛び散る血飛沫。罵声。
俺がスーパーで振りまいていた「店長」という皮は、一枚、また一枚と剥がれ落ちていく。
広場のようなフロアに出ると、奥にある街灯の光に照らされて、縛り付けられた二つの影が見えた。
「……っ! 恵子! 菜々美!」
妻の恵子が、目隠しと猿ぐつわをされたまま震えている。その膝に顔を埋めて泣いているのは、まだ幼稚園児の菜々美だ。
「おいおい、勝手に近づくなよ」
柱の影から、一人の男がゆっくりと姿を現した。
吉澤だ。
十数年前よりも痩せこけ、右足を引きずりながら、奴は金属バットを地面に引きずって歩いてきた。キィキィという不快な金属音が、俺の神経を逆撫でする。
「久しぶりだな、甘寺。立派な店長さんになったそうじゃねえか」
「吉澤……家族は関係ないはずだ。放せ」
「関係ない? 笑わせるな。俺はこの足のせいで、あの後まともな仕事にもつけず、汚い仕事を転々としてきたんだ。お前が恵まれた家庭を持って、昼間の世界で笑ってる間、俺がどんな地獄を見たか……想像したことがあるか?」
吉澤の瞳には、狂気にも似た暗い悦びが宿っていた。
「お前をただ殺しても面白くない。お前が一番大切にしているものが、目の前で壊れていく絶望……それを味合わせてからだ」
吉澤がバットをゆっくりと持ち上げる。
「やめろ!」
俺は思わず駆け出そうとした。恵子たちの元へ、一刻も早く。
その焦りが、最大の失態だった。
かつての俺なら、背後の気配に気づかないはずがなかった。
だが、父親としての恐怖が、戦士としての本能を上回っていた。
真後ろ。
音もなく忍び寄っていた、もう一人の影。
後頭部を、重厚な質量が直撃した。
――ガツンッ!
世界が白く弾けた。
脳を直接揺さぶるような、凄まじい衝撃。
重力があらぬ方向へと引っ張られ、コンクリートの床が視界に迫ってくる。
「アハッ! 案外、呆気なかったな」
意識が急速に遠ざかっていく。
体の末端から感覚が失われ、冷たい闇が這い上がってくる。
(すまない……恵子、菜々美……俺が……俺のせいで……)
最後に見たのは、昏い快楽に浸りながらこちらを見下ろす吉澤の靴先だった。
絶望。
それが、俺が意識を失う直前に感じた、最後の感情だった。
自室の畳の上。俺は、自分という存在が「拡張」されていく感覚の中にいた。
自分の精神が、現実というキャンバスに直接書き込まれていくような、透明で底知れない全能感。
俺の頭蓋の周囲には、すでに四個の「仮想脳」が電流を迸らせながら、整然と並列稼働している。
ここから二十キロは離れた廃ビル。
あの後、店仕舞いの作業を他の人に丸投げして、すぐに家に戻った俺は、超能力を使ってすぐにそこを見つけ出していた。
だが、見つけ出した時には店長がバットで殴られ、意識を失った後だった。
怒りはある。だが、それを仮想脳が即座に冷静な演算へと変換する。
今の俺に情緒は不要だ。必要なのは、完璧な『処理』だけだ。
(まずは、邪魔者の排除)
俺は、数キロ先の空間へ指を伸ばすように、意識を一点に集中させた。
ターゲットは三人。
吉澤と呼ばれていた男。店長を背後から殴った男。そして入り口で見張りをしている男。
彼らの首筋、皮膚のすぐ下を走る、頸動脈。
その中を流れる血流を、血管の壁を傷つけないよう、それでいて一滴も脳へは送られないよう、完璧な力加減でせき止める。
何が起きたのか、奴らの脳が理解する時間は与えない。
酸素の供給を絶たれた脳は、一瞬で活動を停止する。
三人ほぼ同時。
彼らは声すら上げることなく、深い眠りへと突き落とされ、バタバタと倒れていった。
さて。
最大の問題は、店長だ。
俺の意識は、店長の後頭部へと潜り込んだ。
頭蓋骨のヒビ。
それ自体は大きな問題ではない。
問題は、衝撃によって破れた太い血管と、そこから漏れ出し、脳組織を圧迫し始めている血腫だ。
このまま放置すれば、あと数分で店長は命を落とす。助かっても、後遺症が残る事になるかもしれない。
(……やる。今の俺なら、できるはずだ)
仮想脳をさらに二つ増設。
処理速度を極限まで加速させる。
世界が止まって見える。
俺は、店長の血管の一細胞、一細胞に語りかけるように、力を注ぎ込んだ。
まずは、溢れ出した血液の保持。
血小板の動きを物理的に固定し、凝固を強制的に早める。
同時に、圧迫されていた神経組織を、念力の膜で優しく保護し、元の位置へと押し戻す。
次は、血管壁の修復だ。
破れた内皮細胞。その分子構造に干渉し、強制的に結合させる。
縫うのではない。再構成するのだ。
正しく「奇跡」と呼べるような超常。しかし、自分が「人間」という枠組みから、どんどん遠ざかっていくような、空恐ろしい静寂があった。
(……止まった)
内出血は完全に消失。
脳浮腫のリスクも排除した。
だが、完璧に治しすぎてはいない。
警察が来た時に、「バットで暴行した誘拐犯たちと、運良く致命傷を免れた男」というストーリーが必要だ。
俺はわざと、頭皮の浅い切り傷と、打撲痕を残した。
血痕もそのままにする。
店長の家族は何が起きてるか分からずに震えている。目隠しも縄もそのままだが、警察が来るまでは、申し訳ないが我慢してもらうしかない。「何も見ていない」という言い訳ができた方が、誰にとっても良いはずだ。
最後に。
俺は、あの懐かしい「公衆電話」を探した。
仮想脳が瞬時にマッピングを完了する。
街灯の下にある、寂れた電話ボックス。
誰もいないボックスの中で、受話器が持ち上がる。
赤い緊急通報ボタンが独りでに押され、念力が直接空気を震わせ、声へと変える。
「……○○町の廃ビルで、男たちが喧嘩をしている。……怪我人が出ている。早く、救急車を……」
通報を終え、受話器が静かに戻される。
俺は、すべての仮想脳を霧散させ、意識を現実の肉体に戻した。
部屋に静寂が戻る。
この「超能力」に漫画やフィクションのような分かりやすい、鼻血や頭痛みたいな反動は無い。少なくとも数キロ先の人間の怪我を治したくらいじゃ、反動と言えるようなものは感じてない。あるのはただ、長時間集中を続けた事による疲労感だけだ。
ただ、自分の指先を眺めた時、それが自分の体ではないような、奇妙な感覚が残っていた。
さっきまで、俺は生命の根源を弄んでいた。
人を気絶させ、死の淵から引き戻し、運命を書き換えた。
甘寺店長。
店長が守りたかった「日常」を、俺は守ったはずだ。
でも、俺自身の「日常」は、どうなる?
これほどまでの力を振るっておきながら、明日また、スーパーのバックヤードで段ボールを畳むことができるのか?店長だって、ただの偶然だと思うはずはない。俺が何かしたことをすぐに察するだろう。
……店長は、それでも俺を受け入れてくれるだろうか。
「……俺は、ただの田中真也だ」
俺は自分に言い聞かせるように、震える手でスマートフォンの画面を点灯させた。
そこには、何の変哲もない、明日から始まる仕事のシフト表が表示されていた。
神のような力を持ちながら、今の日常にしがみつく。
それが、今の俺にできる唯一の「人間らしさ」の証明だった。
俺は、深すぎる静寂に包まれた部屋の中で、眠りにつくことさえ忘れ、ただ夜が明けるのを待った。