次の日の朝は、昨夜の嵐のような出来事が嘘のように、無神経なほど清々しく明けた。
眠れなかった俺は、鳴る前にスマホのアラームを止め、いつものように朝飯を食べ、いつものようにアパートを出た。
歩きながら眺める街並みは、昨日と何一つ変わっていない。あの日、ここから何キロも離れた廃ビルで、俺が生命の理を弄び、運命を無理やりねじ曲げた形跡など、この街のどこにも残っていなかった。
だが、俺の掌には、昨夜「視た」店長の脳組織の感触が、記憶の汚れのようにこびりついている。
あんな力を振るった翌日に、何食わぬ顔で「スーパー・サニーデイズ」の制服に袖を通す。その行為自体が、自分という存在をさらに偽物へ変えていくような、奇妙な剥離感を伴っていた。
バックヤードに入ると、そこには不穏な空気が漂っていた。
「店長、まだ来てないのよ。さっき遅刻するって連絡があったけど……。あんな真面目な人が、遅刻なんて初めてじゃない?」
パートの人が、不安げな表情で在庫表を抱えていた。他の職員たちも、作業の手は止めないながらも、どこか上の空のように感じる。
俺だけは知っている。昨夜、店長が血まみれで廃虚に倒れていたことも。それを俺が「治した」ことも。そして今頃、彼は警察の事情聴取か、あるいは病院で精密検査を受けているはずだということも。
俺は黙々と、入荷した商品の仕分けを始めた。
自分の「知っている」という事実が露呈しないよう、以前よりもさらに「無機質なバイト」を演じることに必死だった。
段ボールを棚に運び、検品表と納品書をチェックする。
その単調な繰り返し。
(俺は何も知らない。昨日は家で寝ていた。店長の遅刻は、単なる体調不良か何かだ)
そう自分に言い聞かせるたびに、脳裏には昨夜の「神の視点」がフラッシュバックする。
あの全能感に比べれば、この仕事は何と小さく、脆いものだろう。それでも、俺はこの脆い場所を必死に守りたかった。
変化が訪れたのは、昼休憩を過ぎた頃だった。
「あ、店長! 」
入口付近でパートさんの歓声が上がった。
俺はコンテナを運ぶ手を止め、視線を上げた。
そこには、いつも通りの姿の甘寺店長が立っていた。
頭に包帯も巻いていない。足取りもしっかりしている。
(……怪我、浅くしすぎたか)
一瞬、そんな後悔が頭をよぎったが、すぐに打ち消した。店長の顔色は悪くない。それは良いことのはずだ。
店長は心配して駆け寄る職員たちに、「いやぁ、ちょっとトラブルがあってね」と、いつもの穏やかな笑顔で応えていた。
その姿を見た瞬間、俺の胸の奥で、張り詰めていた何かが静かに解けていった。
安堵。
理屈じゃない。俺が昨夜やったことは間違いじゃなかったんだと、その元気な姿が肯定してくれた気がした。
「田中君」
不意に、名前を呼ばれた。
いつの間にか、店長が目の前に立っていた。
その瞳は、笑っているようでいて、射貫くような鋭さを湛えていた。あの日、俺を『魔法使い』と呼んだ時と同じ、すべてを見透かしているような目。
「ちょっと、事務所まで来てくれるか。昨日のバックヤードの件で、話がある」
俺は心臓の鼓動が速まるのを感じながら、店長の後について事務所に入った。
扉が閉まり、二人きりになった瞬間。
店長は無言で俺の方を向き――そのまま、深々と頭を下げた。
「……店長?」
「田中。……昨日のこと、全部お前がやってくれたんだろう。……ありがとう。お前のおかげで、家族が、俺の人生が助かった」
店長の声は震えていた。
昨夜、絶望の中で意識を失った男が、目覚めた時には誘拐犯たちは気絶していて、家族と共に救出されていた。それが何を意味するのか、俺の「秘密」を知っている甘寺店長が気づかないはずがなかった。
「返しきれない恩ができた」と、彼は絞り出すように言った。
俺は、その言葉を真っ向から受け止めるわけにはいかなかった。
それを受け入れてしまえば、俺と甘寺の対等な「バイトと店長」という関係は終わってしまう。俺はただの「田中真也」で居られなくなる。
「……店長、何の話ですか?」
俺は努めて、抑揚のない声で答えた。
一歩も引かず、店長の目を見つめ返す。
「俺は何もしてません。昨日はあの日、店長が飛び出していった後、言われた通りにすぐに帰りました。家でビールを飲んで、早めに寝ただけです。……それ以上のことは、何も知りません」
俺は「嘘」を言った。
店長が俺にくれた「あの日」の嘘と同じ、この場所を守るための嘘だ。
店長は下げていた頭をゆっくりと上げた。
俺の目を見て、彼は少しだけ驚いたような表情を浮かべたが、すぐにすべてを理解したように、悲しげで、それでいて慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「……あぁ。そうか。そうだったな、田中君。君は昨日、ずっと寝てたんだ。俺の勘違いだ」
店長はもう一度、今度は短く、しかし深く頷いた。
「だが……それでも、ありがとう。本当に、ありがとう」
その言葉には、一人の「友人」あるいは「恩人」への心からの感謝がこもっていた。
俺は何も言わず、軽く会釈をして事務所を出た。
バックヤードに戻り、再び段ボールに向き合う。
胸の奥が、温かいもので満たされていた。
隠し切れない喜び。俺が片手間のように人間を気絶させ、怪我を治せること。店長はそれを察しているだろう。だけど店長は、そんな俺を恐れることも、周りに言い触らしたりもしていない。ただ、感謝を伝えてくれただけだ。
それは、超能力者としての俺に与えられた、初めてのまともな報酬のように感じた。
それから、数日が過ぎた。
事件のその後が気になり、俺は休みの日もずっと地元のニュース局をテレビで流しっぱなしにしていた。
本来なら、平和な家族が誘拐され、その大黒柱がバットで殴り倒されたなんて事件、ニュースで報じられてもおかしくないはずだ。
だが、いくら待っても、それらしいニュースは一切流れてこない。
(おそらくだが……店長が止めたんだな)
座椅子に深く腰掛けながら、俺はそう推測した。
詳しくは知らないが、店長には過去の因縁がある。事件が公になれば、また別の敵を呼び寄せるかもしれないし、彼の暗い過去が掘り返されるリスクもあるのかもしれない。ニュースになる事を嫌って、マスコミからの取材や報道を拒否したんだろう。
いずれにせよ、騒ぎにならないのは俺にとっても好都合だった。これでまた、俺は「透明な存在」として生きていける。
久しぶりに晴れやかな気分だった。店長も無事、店も安泰。俺はいつものように日常を謳歌出来る。
ちょっと贅沢をして、駅前のステーキ屋にでも行こうか。
そう思い立ち、重い腰を上げたその時だった。
――ピンポーン。
部屋に、電子音が響いた。