取調室の空気は、湿った重苦しさに満ちていた。
三十年以上、この場所で数多の悪党と対峙してきたが、これほどまでに「釈然としない」取り調べは記憶にない。
「……だから言ってるだろ、刑事さん! 俺たちは何もしてねえんだよ!仲間割れなんかするかよ!」
パイプ椅子をガタつかせ、唾を飛ばしながら喚いているのは、昨日起きた誘拐および暴行事件の犯人の一人だ。
だが、その声には犯罪者特有の狡猾な居直りではなく、底知れない「恐怖」が混じっていた。
「何もしていないだと? お前ら、廃虚に甘寺幸輝という男を呼んでバットで殴り、その家族を監禁していただろうが、そこからどうするかで、何か言い合いにでもなって、揉み合いにでもなったんじゃないのか」
俺――倉田正樹は、机の上に置いた調書を指先で叩いた。
「現場には指紋付きのバットもあった。被害者の証言も取れている。言い逃れはできんぞ」
「それは……そうだよ! 拉致ったのは認めてやるよ! でも、あそこで何が起きたかは、本当にさっぱりなんだ!」
男は頭を抱え、半狂乱の体で言葉を継いだ。
「……急に、目の前が真っ暗になったんだ。気づいたら俺たちは床に転がってて、いつの間にか目の前には警察たちがいたんだよ!」
俺は無言で男を睨みつけた。
別の部屋で行われている他二人の実行犯の供述も、寸分違わず同じだ。
『気づいたら気を失っていた』
『外傷も、揉み合った形跡も一切なし』
医学的には「あり得ない」話だ。三人のうちの二人からは薬物反応が検出されはしたが、三人が同時に、外部からの刺激なしに、失神を伴う意識喪失を起こすなど。統計学的にも不可解だ。
匿名の通報者の件もある。最初は、もう一人共犯者がいたが、仲間割れか何かで一人が裏切り、三人を気絶させ、通報したんだろう。と考えた。しかし彼らには外傷も何も無い。それに、四人目の共犯者なんていない。と彼らは口を揃えて言う。その誰かさんが裏切り者なら、彼らがそいつを庇うのは不自然だ。
俺は大きく溜息をつき、取調室を出た。
廊下では若手の刑事が、困惑した顔で報告書を整理していた。
「倉田さん、公衆電話の件なんですが……」
若手がタブレットを差し出す。
「通報があったのは、現場から十キロほど離れた古い電話ボックスです。受話器から指紋や残留物は出ず、通報記録だけが残っていました。通信指令室の録音データ……解析した結果、不自然なほどに抑揚がなく、まるで合成音声のような響きだったとのことです」
背筋に、冷たいものが走った。
――あの日。美咲ちゃんという少女が誘拐された、あの事件。
あの時もそうだった。犯人は密室で「勝手に」気絶し、誰も触れていないはずの公衆電話から、場所を特定する完璧な通報が入った。
さらに、俺の脳裏を離れない違和感がもう一つある。
被害者の甘寺という男の怪我だ。
彼は現場で、金属バットによって後頭部を強打された。犯人たちの証言と、現場に残された血痕の量、それに変形するほどの力が加わった痕跡のあるバット。彼は頭蓋骨を骨折し、重篤な脳損傷を負っていてもおかしくないはずだった。運が悪ければ死んでいたかもしれない。
だというのに、翌朝の病院の報告書によれば、彼は「軽度の打撲と、数針縫う程度の切り傷」で済んでいた。精密検査でも脳に異常は見当たらず、本人はその日のうちに退院している。
(……おかしい。不自然すぎる)
俺の刑事としての勘が、全身の警鐘を鳴らしている。
成人男性に金属バットが凹むほどの力で頭を殴られた男が、不自然なほど「浅い怪我」で済んでいる。
あの日、美咲ちゃんが救出された現場との共通点があまりに多すぎる。犯人の無力化、迅速な通報、そして現場からの徹底した痕跡の消去。
これほど鮮やかな手際を、一介の一般人が成し遂げられるはずがない。だが、現場には「誰か」がいたはずなのだ。
刑事は物理法則の信奉者だ。だが、目の前に積み上がった情報は、俺に非論理的な結論を、一つだけ指し示していた。
「……田中真也」
過去の記憶が鮮明に蘇る。
美咲ちゃんの友人たちが言っていた「おっちゃん」
親しげに呼ばれていた彼。
そして、あの時に彼が勤めていたスーパー……。
今回の被害者である甘寺幸輝は、まさにそのスーパー「サニーデイズ」の店長ではないか。
偶然だと言うには、あまりに出来過ぎている。
田中がバイトを辞めたタイミング。そして、その元職場である店長のピンチに現れる「不可解な現象」。
パズルのピースが、ガチガチと音を立てて噛み合っていく。
「倉田さん? どうかしましたか?」
「……いや。何でもない」
俺はそのまま、被害者として話を聞くために署に呼ばれていた甘寺と、その家族の居る部屋へと向かった。
部屋に入ると、そこには昨夜、バットで暴行を受けたはずの男が、驚くほど平然とした顔で座っていた。
彼の妻とその娘は、安堵か、もしくは疲れからか眠ってしまっているようだった
「甘寺さん。怪我の方は本当にもういいのか? 救急隊の報告では、かなりの出血だったと聞いているが」
「ええ。自分でも不思議なんですがね、刑事さん……どうやら俺の運が相当良かったらしい。ほら、この通りピンピンしてますよ」
甘寺は人当たりの良い笑みを浮かべた。
だが、その目は笑っていない。何かを隠し通そうとする、特有の強張りが俺には見えた。
俺は彼の前に座り、あえて何気ない風を装って、記憶の糸を辿るように呟いた。
「……そういえば、以前にも誘拐事件の件で、君の店を訪れさせてもらったことがあったな……確か、田中君だったかな。彼は元気にしているかい?」
その瞬間、甘寺の指先がわずかに震えた。
本当に微かな反応だ。だが、三十年デカをやってきた俺の目は、その「動揺」を逃さない。
「田中君ですか? いや、昨夜彼がどこで何をしていたかなんて、俺が知るはずもありません。……どうして、急に彼のことなんて聞くんです?」
問い返す甘寺の言葉は少しだけ速かった。
何もやましいことがなければ、「彼の事なんて知らない」で済む話だ。わざわざ「昨夜の所在」を否定し、「なぜ聞くのか」と食いついてくるのは、彼の中に明確な警戒対象として田中の名が存在している証拠だ。
それに、二ヶ月近く前に辞めたはずのバイトの事を聞かれている人間にあるはずの「思い出す間」が、今の彼には無かった。
「いや。……ただ、ふと思い出しただけだよ」
俺はそれ以上追及せず、席を立った。
甘寺の今の反応。それは無関係な人間を疑われたことへの困惑ではない。大切な誰かを守ろうとする、必死な保護の意志だ。
やはりそうだ。
甘寺は、あの場に田中真也が何らかの形で介入していたことを知っている。そして、その事実が公になることを警察にすら隠そうとしている。
(救われた人間が口を噤み、救った本人も名乗り出ない。……不器用な奴らだ)
署を出て、夕闇に染まる街を眺めた。
美咲ちゃんの時も、今回の事件も。
田中真也という男が具体的に何をしたのか、その「手段」は俺にはまだ見当もつかない。特殊なスタンガンや催涙ガスの類か、あるいは高度な隠密技術か。物理的に説明がつかない部分は多いが、少なくとも彼はあの現場にいたのだ。
そして、その介入の結果は、常に誰かを救うことに向けられている。
私欲のために動くならば、吉澤たちのようなチンピラから金を奪うこともできただろう。警察の科学捜査をすり抜けて人を昏倒させられるなら、犯罪なんてやりたい放題だ。
だが、彼はそれをせず、ただ静かに事態を収束させ、自分だけが消えることを選んでいる。
その行動原理にあるのは、英雄願望などではない。もっと切実で、臆病なまでの「善意」だ。
(だがな、田中君。世の中には俺みたいな執念深い老いぼれが他にもいる。隠し通すなら、もう少し上手くやらんといかん)
警察組織として彼をマークすべきなのかもしれない。だが、証拠と言えるようなものは何一つ無い。俺の刑事としての直感が、彼がキーマンだ。と囁いてくるだけだ。
彼を追い詰めるためではない。
ただ、もう一度彼とは話をしておくべきだと感じた。
それから数日後。
俺は休みを取って、田中真也の住むアパートの前に立っていた。
古びた廊下を歩く足音が、静まり返った空気に響く。
部屋の前で足を止めると、中から微かにテレビの音が聞こえた。
今度こそ、その仮面を剥がさせてもらうぞ。
田中君。
君がどんな方法を使ってるかは知らないが、事件に介入してることは確信している。俺は刑事として、真実を知らなければならない。
田中真也の部屋の前。
俺は呼吸を整え、インターホンのボタンを押した。
――ピンポーン。
電子音が狭い廊下に虚しく響く。