――ピンポーン。
不意に響いた電子音が、昼下がりの弛緩した空気を切り裂いた。
贅沢をしてステーキでも食べに行こうか。そんな、久しぶりに手にした「普通の人間」らしいささやかな高揚感が、その一音で急速に冷え込んでいく。
「……誰だ?」
俺は怪訝に思いながら、重い腰を上げた。
一人暮らしの独身男性に、会いに来る相手なんて心当たりなんてない。宗教の勧誘か、あるいはネット通販の荷物が誤配送で届いたのか。
特に警戒することもなく、俺は玄関のドアを開けた。
「……はい?」
開けた扉の向こうに立っていたのは、くたびれたジャケットを羽織った、どこにでもいそうな初老の男だった。無精髭の混じった頬と、深く刻まれた目尻の皺。どこかで会ったことがあるような気がしたが、すぐには思い出せない。
「久しぶりだね……田中真也君」
男の低く、落ち着いた声を聞いた瞬間、俺の記憶の底から「あの日」の光景が引きずり出された。
ハ○ーワークへ行こうとしていた俺を、アパートの廊下で待ち構えていた男。
美咲ちゃんの事件のあと、聞き込みに来た刑事だ。確か、名前は――。
「……倉田、さん?」
「お、覚えていてくれたか。二ヶ月近く前のことなのに、光栄だね」
倉田は、親戚の叔父さんでも訪ねてきたかのような、人当たりの良い笑みを浮かべた。
だが、俺の全身の毛穴は瞬時に収縮し、心臓が不規則なビートを刻み始める。
(なんで、また。……終わったはずだろ、あの事件は。犯人も捕まったって、あんた自分で言ったじゃないか)
喉の奥がカラカラに乾く。
今回も、俺は完璧にやったはずだ。家から出ることすらなく、何キロも離れた場所に干渉し、証拠も残さず、当事者の店長さえ俺の事を言い触らしたりはしてないだろう。ニュースにさえなっていない。この刑事が、俺のところへ来る理由なんて、この世のどこにも存在しないはずなんだ。
「何の、用ですか。……俺、もう前の誘拐事件の件なら話しましたよ。それとも、また別の事件か何かあったんですか?」
「君はサニーデイズに戻ったんだよな。甘寺さんの下で。……いい店長さんだね、彼は」
俺の言葉を遮るように、さらりと言われた言葉に、俺は息が止まりそうになった。
甘寺店長。
なんで急に、店長の話題を出す?
「……店長が、何か?」
「いや、実はね。先日、甘寺さんがちょっとした災難に遭ってね。……立ち話もなんだ。少しだけ、中で話をさせてもらえないかな。今日は非番なんだ。個人的な、頼みとして」
断るべきだ。
「予定がある」と言って、強引にドアを閉めるべきだ。
だが、倉田の瞳の奥にある、逃げ場を許さないような鋭い光が、俺の足を床に縫い付けた。ここで拒絶すれば、それこそ「何かを知っている」と認めるようなものだ。
「……少しだけですよ。俺、これから用事があるんで」
俺は渋々、彼を部屋に招き入れた。
狭い六畳間。テレビではどこかで聞いたようなニュースが無機質な音を上げている。
倉田は差し出した座布団にゆっくりと腰を下ろし、部屋の中を一度、ぐるりと見渡した。その視線が俺の背後を通るたび、自分の魂まで検品されているような、耐え難い不快感がこみ上げる。
「……それで。店長がどうしたんですか。最近、変わったことなんて無かったですよ。店長も変わらず仕事に来てますし」
俺は努めて「何も知らない」顔を作った。
ニュースもやっていない。店長も公にしていない。俺が「店長に災難があった」ことを詳しく知っているのは不自然だ。まずはそのスタンスを貫かなければならない。
「ああ、実は彼の家族が誘拐されてね。甘寺さん本人も、バットで頭を殴られたんだ」
「……え!? 誘拐? 嘘でしょ。店長が?」
俺は、大袈裟なくらいの驚きを演じてみせた。
心臓が早鐘を打っているのは演技じゃない。この刑事が、どれだけの情報を握っているのかが分からない恐怖だ。
「……でも、店長、普通に出勤してましたよ? 元気に仕事してましたけど……。あ、でもこの前に一度遅刻してきた事がありましたけど……それ、本当の話なんですか?」
「ああ、本当だ。……そしてね、ここからが不思議な話なんだよ、田中君」
倉田は身を乗り出し、机の上に組んだ手を置いた。
「犯人は三人。そいつらは現場で、全員が意識を失って倒れていた。外傷も、揉み合った痕跡もない。まるで、神様が指を鳴らした瞬間に全員眠らされたような、そんな不自然な状況だ」
「……へぇ。運が良かったんですね。店長も、その隙に逃げたってことですか?」
「甘寺さんの怪我もだ。金属製のバットが凹むほどの力で頭を殴られ、現場には大量の血痕。救急隊員は絶望的だと思ったらしい。だが翌朝、彼は小さな切り傷だけで病院を飛び出してきた。……君は、どう思う?」
(なんで俺に聞くんだ。やめろ。こっちを見るな)
落ち着け。俺が超能力を使っているなんて、物理法則を無視した結論に辿り着けるはずがない。
「……どう、って。それはもう、奇跡としか言いようがないですよ。店長、昔から運が強いって言ってましたし」
「奇跡、か。……犯人が怪我もなく勝手に気絶し、誰もいない場所から正確な通報が入る。私はこの『奇跡』のように解決した事件に、もう1つ心当たりがあるんだ。……そして、その両方の事件のすぐ近くに、君という存在がいるんだ」
倉田の言葉が、逃げようのない事実として突き刺さる。
「君がどうやったかは知らない。特殊なスタンガンか、警察の目を欺くような高度な工作か……あるいは、もっと別の『何か』か。だがな、田中君。俺は確信している。君はあの二つの事件に、何らかの形で介入した」
「……言いがかりだ。証拠でもあるんですか?」
俺の声が、自分でも驚くほど鋭く響いた。
余裕がなくなっている。認めるわけにはいかない。認めてしまえば、俺の日常は、俺という人間は、終わる。
「証拠はない。……だからこうして、非番の日に、一人の人間として君に会いに来た」
倉田は、真っ直ぐに俺の目を見据えた。
「君が悪いことをした。と責めに来たんじゃない。むしろ逆だ。被害者は助かり、君は尊い行いをした。それは間違いない。……だが、俺は刑事だ。君がどうやったかを知らなければならない」
「……しつこいですよ」
「いいか、田中君。痕跡も残さずに人を無力化し、重傷であるはずの怪我を無かったことにする。そんな恐ろしい方法が、もし悪人に知られたらどうなる? どんな警備も、どんな法律も意味をなさなくなる。この法治社会は根底から崩壊するんだよ。俺はそれを、刑事として見過ごすわけにはいかない」
倉田の声には、切実なまでの義務感が宿っていた。
彼は俺を、社会を脅かす「未知の脅威」として定義しようとしている。俺がただ、自分のささやかな居場所を守りたかっただけの、臆病な男だということも知らずに。
「本当のことを言ってくれ。君は、一体何を隠している?」
沈黙が部屋を支配する。
テレビの中では、相変わらずどこかの誰かの悲劇が、無機質な音声で語られている。その声が、まるで俺の内心を暴露しているように感じて、今の俺には酷く不気味に聞こえた。
(言えるわけがないだろ)
超能力。
そんな荒唐無稽な言葉を、普通の人間が、科学捜査の申し子たる刑事が信じるはずがない。言えば精神科に送られるか、あるいは薬でもやってるのか、と疑われるのがオチだ。
「……刑事さん。期待させて悪いんですけど、俺は本当に、何も知りません。特殊な武器も、変な技術も持ってません。……あなたは、考えすぎなんです」
俺は、凍りついたような声色で言い放った。
全身の神経が、一秒でも早くこの男を部屋から追い出せと叫んでいた。
倉田は、じっと俺の瞳の奥を覗き込んでいた。
俺がどれほど必死に嘘を吐き、どれほど怯えているか、彼はすべて読み取っているようだった。
「……そうか。今日のところは、諦めよう」
倉田はゆっくりと立ち上がった。
「だが、田中君。君がどんなに隠そうとしても、俺のような人間にははっきりと見えるんだよ。もし、気が変わったらここに連絡してくれ。……また来る。君が、自分の持っているものの重さに、耐えられなくなる前に」
倉田はそれだけ言い残し、名刺か何かを俺に手渡すと玄関へと向かった。
パタン、とドアが閉まる音が、この世の終わりの合図のように響いた。
俺はそのまま、畳の上に力なく崩れ落ちた。
手の震えが止まらない。
バレた。いや、正体まではバレていない。だが、俺が「何か」であることは、もう隠し通せなくなっている。
日常を守るために力を使ったのに。
その結果、俺は厄介な執念を持った男に、喉元を掴まれてしまった。
俺は、独りになった部屋で自分の掌を見つめた。
神のような力。
けれど、今の俺は、ただの初老の刑事に追い詰められた、惨めな逃亡者でしかなかった。
「……なんで、こうなるんだよ……」
ステーキを食べに行く気分なんて、もう微塵も残っていなかった。