倉田が去った後の部屋には、重苦しい静寂と、彼が残していった執念の残滓だけが漂っていた。
手の中の名刺を凝視しながら、俺は自分の心臓の音を聴いていた。ドクンドクンと、不規則に脈打つその音は、まるで「お前はもう逃げられない」と宣告する審判の足音のようだった。
バレた。いや、正確には「確信された」
俺が何かをしたこと。俺が、どうやってか事件に介入していること。あの刑事は、証拠などというまどろっこしい段階を飛び越えて、直感と憶測だけで真実を直接掴み取っていった。
(……ステーキなんて、食えるかよ)
空腹はどこかへ消え失せ、代わりにどろりとした吐き気が喉の奥までせり上がってくる。
だが、このまま部屋に閉じこもっていたら、自分の思考の毒に当てられて発狂しそうだった。俺はスマホと財布だけをズボンに押し込み、逃げ出すように部屋を飛び出した。
外の空気は、昼下がりの穏やかな陽光に満ちていた。
幸せそうな親子連れ、買い出しの主婦。犬の散歩をしている俺と同じくらいの歳の男性。
その光景が、今の俺には酷く残酷で、遠い異世界の出来事のように見えた。
目的もなく歩き、電車を乗り継いだりしてると、俺はいつかのシネコンに辿り着いていた。映画を見ようと思って来たんじゃない。ただ少し、今の気分を変えてくれる場所を探していた。
「……そういえば、あの時も気分転換のために来たんだっけか」
皮肉なものだ。非日常から逃げようとして、結局また同じ場所に戻ってきてしまう。
前回の時は、超能力が登場する作品を選んでしまって、より酷い気分になった。今回は、絶対にそんな轍を踏まない。
俺は券売機の前で、慎重にタイトルを選んだ。
SF、アクション。それらは全部パスだ。とはいえ、昨今の映画でそれらを除外すれば、残るのは俺が苦手なホラーか、趣味じゃない甘ったるい恋愛モノしか残らない。見たくない映画を避けて、より見たくない映画を選んだら本末転倒だ。
数分かけてじっくり吟味して選んだのは『名もなき風の歌』というタイトルの映画
ポスターには、古ぼけたギターを手にした初老の男が、寂れた港町を背に微笑んでいる写真。あらすじを読んでも、「一人の男の半生を描いた感動ストーリー」としかない。盛り上がりも、どんでん返しもなさそうな、眠気を誘うようなヒューマンドラマだろう。泣こうと思って見なければ泣けないような、量産型の感動日常映画だ。
これだ。今の俺に必要なのは、こういう「何事も起きない退屈」なんだ。
暗いシアターに入り、想像以上に空いている事に若干驚きながら席につく。
映画は、俺の期待通り――あるいは期待以上に、平坦だった。
主人公の男は、特別な才能があるわけでもなく、世界を救うわけでもない。
ただ、若い頃に音楽を志し、挫折し、小さな町で郵便配達員として働きながら、出会った人々と言葉を交わし、老いていく。
ラストは主人公が、音楽を使って町の人間と心を通わす。という、どこかで聞いたことのあるようなストーリーだった。
スクリーンの中の時間は、現実と同じように、残酷なほどゆっくりと流れていた。
(……なんだよ、これ。本当につまんねぇ……)
最初はそう思っていた。
だが、不思議とスクリーンから目を離せなかった。
男が、郵便を届ける途中に見かける何気ない道端の花。
仕事終わりに飲む、安物の缶ビールの音。
冬の朝の冷たい空気。
それらの描写が、妙に生々しく俺の胸に刺さった。
この男は、神様じゃない。
何万、何十万といる「普通の人」の一人だ。
彼にも、他人には言えない後悔や、墓まで持っていく秘密の一つや二つがあった。それでも彼は、その秘密を抱えたまま、今日という一日を丁寧に生き、他人の幸せをささやかに願い、そして消えていく。
劇中、老いた彼が友人に呟くシーンがあった。
「特別な事ができるかどうかじゃない。どう生きたかだよ」
ただ、自分という不条理な存在を全否定されているような倉田刑事との対峙の後に、「ただ生きているだけでいい」と言われたような気がして、堪らなくなった。
超能力があるからといって、ヒーローになる義務なんてない。
逆に、超能力があるからといって、「人間」であることを諦める必要もない。
俺が守りたかったのは、この映画に出てくるような、退屈で、けれどかけがえのない「名もなき日常」だったはずだ。
シアターを出た時、空は柔らかな朱色に染まり始めていた。
重かった足取りは、いつの間にか少しだけ軽くなっているのを感じた。
「……さて、帰るか」
駅からの帰り道の途中、俺は、子供がトラックに轢かれそうになった、あの交差点を避けて帰った。そこを通るとまた「非日常」を思い出してしまいそうで嫌だった。
普段は通らない道を歩いていると、小さな公園があるのに気付いた。何気なく目線を向けると、広場の中心で賑やかな声が響いていた。
「航太! こっちだってば!」
「わかってるよ、次は外さないからな!」
聞き覚えのある名前。
俺は思わず足を止めた。
そこにいたのは、あの日、トラックに轢かれそうになった少年――航太だった。
そしてその近くには、あの少女、美咲もいる。
(……あ。今日は日曜日か)
バイトに追われる日々の中で、曜日の感覚が欠落していた。
美咲は事件があったことを感じさせないほど元気そうで、航太たちと一緒に、あの時見た物と同じサッカーボールを追いかけていた。
最近の子供は家でゲームばかりしてるんじゃなかったのかよ。
そう毒づきながら、俺は咄嗟に身を隠そうとした。
だが、運命は意地悪だった。
「あ! 魔法使いのおっちゃん!」
あの日、スーパーで俺に「魔法使った?」と聞いてきた子供が俺の姿を見つけ、顔を輝かせて駆け寄ってきた。そういえば俺はこいつらの名前をほとんど知らないな。ということに今更ながら気付いた。
美咲や他の仲間たちも、それに続いてバタバタとこちらへやってくる。
「おっちゃん! 久しぶり!」
「あ……ああ、。……元気そうだな」
俺は精一杯、他人の空似を装うように無愛想な顔を作った。
「みんなでお礼したかったから、あのスーパーに行ったんだよ! でも店長さんが、おっちゃんは遠くに引っ越したって……」
「ああ、そうだな。ちょっと戻ってきてただけだ。……もう行くぞ」
突き放すように言って背を向けようとしたが、航太が俺の服の裾を掴んだ。
「おっちゃん、ありがとう! あの時のこと、やっぱりおっちゃん、魔法使いだよね。僕が危ないとき、ふわって浮いたもん!」
「……何の話だ。俺は何もしてない。お前が勝手に踏ん張っただけだろ」
冷たく拒絶の意志を込めて言い放つ。
だが、子供たちはひるまなかった。
「あはは! ヒーローは正体を隠すんだよね!」
「そうだよ、テレビでもそう言ってたもん! おっちゃん、本当はすごい力を持ってるんだよね!」
「美咲のときも、おっちゃんが助けてくれたんでしょ? 美咲が言ってたよ。急に悪い奴が倒れちゃったって」
こいつら…人の話を聞かねえ…そして会話が終わらない。矢継ぎ早に、次から次へと質問がマシンガンのように、浴びせかけられてくる。美咲ちゃんはまだ大人の男性が怖いのか、他の子供の影に隠れるようにしているが、それを差し引いてもまるで数十人に詰められてる気分だ。
「……もう、そういうのはいいから。……じゃあな。二度と飛び出すなよ」
俺は会話を打ち切り、逃げるように公園を後にした。
背中から「おっちゃーん! またねー!」という明るい声が追いかけてくる。
歩きながら、俺は深く溜息をついた。
結局、何をやっても上手くいかない。日常に戻りたくて映画を見たのに、最後にはまた「非日常」の当事者たちに再会してしまった。
ゲンナリした気分で、家までの道を歩く。
だが、ふと足を止めたとき。
俺の胸の奥にあった、あの重苦しい「何か」が、すっかり消えていることに気づいた。
倉田刑事との対峙で見せた絶望。
自分の力を呪い、明日を恐れていたあの暗い感情。
あんな事件の後なのに、美咲があんなに笑っていた。
航太が元気に、サッカーボールを追いかけていた。
(……まあ、いいか)
俺がリスクを背負って、日常を壊しかけてまでやったことは、少なくともあの笑顔を守る役には立ったらしい。
それは、神としての傲慢な喜びではなく。
映画で描かれていたような、ささやかな、しかし確かな幸せの形に似ていた。
ぐう、と腹が鳴った。
「……あー、。腹減ったな」
さっきまではあんなに食欲がなかったのに。
今は、自分でも驚くほど、胃袋が生命力を主張している。
「やっぱり……ステーキでも食べに行くか。高いやつ」
俺は、死んだ魚の目ではない、ほんの少しだけ生気に満ちた瞳で、歩き出した。
俺はただの田中真也だ。
スーパーで働き、正体を隠して怯えながら生きていく。
超能力に目覚めてからの俺は、まるで罪人のような気持ちで生きていた。バレてはいけないと言いつつ、自分のエゴで超能力を使って、それがバレたかバレてないかで一喜一憂する。そんな窮屈な人生。
だけど今日だけは。
自分を少しだけ許して、豪華な晩飯にありついてもいい気がした。