倉田刑事が俺の部屋を訪れたあの日から、数週間が経過した。
驚くべきことに、俺の心はこれまでにないほど晴れやかだった。
倉田刑事と話した後に感じた、あの泥水を飲まされるような吐き気や、背筋を凍らせる絶望感は、どこか遠い過去の出来事のように霧散している。
客観的に見れば、俺の状況は崖っぷちどころか、すでに空中へ足を踏み出しているようなものだ。現職の刑事が、俺を「事件の関係者」としてマークしている。証拠こそ掴めてないだろうが、彼は執念という名の羅針盤を頼りに、着実に俺の首根っこを掴もうとしているのだから。
だが、今の俺には「日常」という名の最強の防壁があった。
あの日の映画館で観た、名もなき郵便配達員の老人の姿。そして公園で再会した、屈託のない笑顔でサッカーボールを追いかける子供たち。彼らが教えてくれたのは、特別な力を持っていようがいまいが、人は今日という一日をただ必死に、そして丁寧に生きる権利があるということだ。
俺は、ビクビクして過ごすのを止めた。
いや、正確には「超能力を隠す田中真也」から、「超能力が使える、ただの田中真也」へと、自分自身の定義を上書きしたのだ。超能力が使えるからと言っって、それがイコールで「隠し事のある人間」になる訳じゃない。
人は誰だって他人に言えない隠し事の一つや二つがあるもんだ。そんなものが「バレるかもしれない」と考えて生きていくのを「日常」とは呼ばないだろう。
朝、六時。
安物のスマートフォンのアラームが、枕元で無機質な音を立てる。
俺は重い瞼をこじ開けた。カーテンの隙間から舞い落ちる埃の粒が、光の筋の中でキラキラと踊っている。かつては部屋の隅の埃を見せびらかすような、無遠慮な物に思えていたそれ。だが、今はただ、その無意味な美しさを眺めるだけで満足だった。
顔を洗い、鏡の中の自分を見る。
そこには、どこにでもいる、少し目つきの悪い、冴えない二十代の男がいる。それでいい。それが俺だ。
朝食は、特売で買った食パンにバターを塗って焼いたものと、ソーセージと目玉焼き。
パンを噛みしめる音。ソーセージの肉汁。目玉焼きの食欲をそそる色味。五感を通じて伝わってくる些細な感覚が、俺がこの「普通の世界」に繋ぎ止められている確かな証拠だった。
この数週間、あれからも倉田刑事は俺に、偶然を装って会いに来た。
一度目は、一週間ほど経った頃の仕事帰り。
スーパーを出て家路につく俺の背後から、あの低く、それでいてこちらの内側まで見透かすような声が聞こえてきた。
「田中君。今日も遅くまでお疲れ様。スーパーの仕事も大変だろう」
心臓がドクリと跳ねた。だが、俺は意識してゆっくりと振り返った。
そこには、街灯の逆光を背に受けて、シルエットだけになった倉田が立っていた。
「……ああ、刑事さん。また何か御用ですか。スーパーの方に用があるなら、今はもうとっくに閉店してますよ」
努めて無愛想に、不機嫌そうな「労働者の顔」を作って言い放つ。
倉田は一歩近づき、街灯の下にその顔を晒した。くたびれた表情の中に、一筋の鋭い光が宿っている。
「いや。ただ、君がその後どうしているか気になってね。ところで、甘寺店長は元気にしてるかな。本当なら、今も入院して怪我の治療に専念しててもおかしくはないんだが」
「えぇ、元気ですよ。今日も普段通りでしたね。最近は家族との時間を大事にしたいとかで、たまに半休を取ることもありますけど」
「……君は、本当に何も知らない、という一点張りで行くつもりか?」
「知らないものは知らないんです。……俺、店長にも迷惑かけたし、その埋め合わせで必死なんですよ。刑事さんこそ、そんなオカルトじみた推理を披露してないで、もっと足で証拠を稼いだらどうですか」
自分でも驚くほど、滑らかに言葉が出てきた。
以前の俺なら、彼の言葉の裏を読もうとして、自滅するように言葉を詰まらせていただろう。だが今の俺には、守るべき「退屈」がある。
倉田はしばらく俺の目をじっと見つめていた。沈黙が、重たい鉛のようにその場を支配する。
やがて、彼はふっと力を抜いて、立ち去っていった。
「……そうか。ならいいんだ。邪魔をしたね。……このスーパーの惣菜は、美味いな」
それが一度目の接触だった。
二度目は、その十日後。休日の昼下がり、俺が近くの古本屋で時間を潰している時だった。
棚の陰から、ひょいと顔を出した倉田。あんた暇なのか?という言葉が咄嗟に口をついて出そうになった。
「いい趣味だ。田中君。活字は、想像力を豊かにする」
「……またあんたですか」
「偶然だよ。私もこの近所に住んでいてね。……どうだ、最近は。何か『不思議なこと』は起きていないか?」
「起きてますよ。昨日、自販機で当たりが出て、もう一本タダで飲めました。俺の人生で最大の奇跡ですね」
「ははは。それは羨ましいな」
倉田は短く笑い、それ以上深追いはしてこなかった。
彼は焦っていない。いや、焦っているのかもしれないが、それを表に出すことはないだろう。俺が根負けして、自ら綻びを見せる瞬間を、獲物を狙う蜘蛛のようにじっと待っている。
だが、俺に綻びはない。
職場であるスーパーでの日々は、皮肉なほど充実していた。
俺は、バックヤード専属から、以前のようにレジや品出しの作業もこなすようになっていた。
刑事にマークされてる俺が、子供の目を気にしてるのは馬鹿らしい話だ。
レジ打ちをしていると、時折、あの子供たちに遭遇することもある。
美咲ちゃんがお母さんの買い物に付き添ってきたり、航太が友達と騒ぎながらお菓子を選んでいたりする。俺に「魔法使い」と名付けた子供もたまに来る。
彼らと目が合うたびに、俺は「ヒーローの事なんて知らない」と言い聞かせるように、わざと不愛想な態度を取った。
彼らも俺のそんな態度を察しているのかいないのか、仕事中に話しかけてくることは無くなった。(どちらかと言うと、親からの注意が一番の要因な気がする)それでいい。記憶が薄れ、俺がただの風景の一部になること。それが、彼らにとっても俺にとっても、最も平和な形なのだ。
スーパーの床を磨き、段ボールを畳み、賞味期限のチェックをする。
汗をかき、適度に疲れ、眠りにつく。
そんな日々を繰り返すだけで、俺は幸せだった。
超能力が使える。それがなんだと言うのか。そもそも甘寺店長の時のように、実際に俺が超能力を使ってる所を見られるか、俺が自分で話さない限り、誰かにバレる心配なんてないんだ。と最近の俺は開き直るようになっていた。
倉田刑事や他の人間がどれほど外から揺さぶろうと、俺が認めようとしない限り、誰もこの聖域を侵すことはできない。
「……ああ、平和だな」
帰り道、街灯に照らされた自分の影を見つめながら、俺は小さく呟いた。
その影が、自分の意志とは無関係に、奇妙に長く、そして不吉に伸びていることにも気づかずに。
俺の日常は、完璧だった。
だからこそ、それが崩れる時は、一瞬の予兆さえ許されない。