その日は、待ちに待った休日だった。
長い連勤を終え、ようやく手にしたまとまった休み。
俺は昼過ぎまでベッドの中で泥のように眠り、空腹に耐えかねてようやく這い出した。
「……さて。今日は何をしようか」
朝食代わりのスナック菓子を齧り、バラエティ番組でも見ようかと、寝ぼけ眼でテレビのスイッチを入れた。
――瞬間、目に飛び込んできたのは、いつもの能天気なスタジオの風景ではなかった。
『繰り返します。本日十時頃、○○駅前の東中央銀行支店に、銃を持った複数人の男が現れました』
画面の下には、赤黒い速報テロップが躍っている。
ヘリコプターからの空撮映像が、激しく手ブレしながら映し出しているのは、俺も何度も通っている銀行だった。
「……は?」
スナックを噛む動きが止まる。
『現在、犯人グループは店内に立てこもっており、行員と客、合わせて十二名を人質に取っている模様です。警察はすでに周囲を完全封鎖。特殊部隊の出動要請も出されたとのことですが、犯人側は「近づけば人質を一人ずつ殺す」と宣言しており――』
テレビの中のアナウンサーの声が、ひどく遠くの出来事のように聞こえる。
あそこかよ。
あそこ、俺の口座がある銀行じゃないか。
この前の給料日にも、あそこのATMで金を下ろしたばかりだ。○○駅といえば、ここから徒歩で三十分もかからない距離だ。
画面は切り替わり、銀行の正面入り口の映像が映し出される。
シャッターが半分閉ざされた暗い店内の奥に、時折、人影が動くのが見える。その度に、周囲を囲む警察官たちの間にピリピリとした緊張が走る。
…もし俺があそこに介入すれば、誰も死なせずに、一瞬で片がつくだろう。銃弾が発射されることもない。一分とかからずに犯人たちを無力化出来る自信がある。
だが…
「……警察が、なんとかするだろ」
俺は独り言を呟き、自分を納得させるように何度も頷いた。
そうだ。日本警察は優秀だ。あの中には訓練を受けたプロたちが大勢いる。俺のような素人が首を突っ込む隙なんて、どこにもない。
あの中に、俺の身内がいるわけじゃない。親しい友人が閉じ込められているわけでもない。あの日、子供たちにされたように、目の前で袖を掴まれて「助けて」とせがまれたわけでもない。
こんな事件にいちいち介入していたら、それこそキリがない。
日本中で、世界中で、今も起きている悲劇を全て救い上げる「神様」にでもなれというのか。
無責任で、薄情で、自分勝手なのは百も承知だ。
だが、俺は「ヒーロー」じゃない。ましてや、お節介な「魔法使い」でもない。
見ず知らずの他人のために、この平穏な生活と、自分の人生というチップを賭けてまで「奇跡」を安売りする義務なんて、どこにもないはずだ。
「……見なきゃいいんだ。見なきゃ」
無理やりテレビのチャンネルを変える。
映し出されたのは、通販番組で健康食品の効果を大袈裟に賞賛している中年の男女。
だが、頭の中にはさっきの銀行の光景がこびりついて離れない。
怯えている人質たちは、冷たいタイルの上でどんな顔をしている?まさか、既に誰か撃ち殺されたりしたんだろうか。
「……クソっ、集中できねえ……」
画面の中の笑い声が、耳障りなノイズにしか聞こえない。
気分転換だ。外に出よう。
もっと遠くの、賑やかなショッピングモールにでも行けば、こんな物騒なニュースなんてすぐに忘れられるはずだ。
俺は急いで身支度を整えた。
財布、スマホ、鍵。それだけを掴んで、逃げるように玄関のドアを開けた。
「……え?」
そこには、一人の男が立っていた。
俺は反射的に、心臓が止まるかと思うほどの衝撃を受けた。
倉田だった。
だが、俺が知っているあの倉田刑事ではない。
髪は乱れてるし、顔色が土色になっている。
いつもピシッと整えられていたジャケットはシワだらけで、見るからに余裕が無さそうな風体だ。その瞳は血走り、尋常ではない熱を帯びて俺を凝視していた。
「……田中君。出かけるのか」
声は、低く、かすれていた。
俺はいつもの倉田とは何かが違う、と察しながらも、今までと同じようにあしらおうとした。
「……刑事さん。何の用ですか。見ての通りですよ。今から出かけるところだったんです」
俺は彼を無視して通り過ぎようとした。
だが、倉田はその大きな体で俺の行く手を塞いだ。
「駅前の、銀行の事件を知っているな?」
「……ああ、テレビで見ましたよ。大変ですね。刑事さんも現場に行かなくていいんですか? ここで俺をからかってる場合じゃないでしょ」
「……君なら」
倉田が、一歩踏み込んでくる。
その距離は、警察官が被疑者を尋問する時のそれではなく、溺れる者が藁を掴もうとする時の近さだった。
「君なら、あの中に潜り込めるんじゃないのか? 誰にも気づかれず、音も立てず、中の犯人を無力化できるんじゃないのか? あの事件の時と同じように、いや、出来ると言ってくれ!」
心臓が早鐘を打つ。
おかしい、なんでこんなに焦ってる?今までの、俺の知ってる倉田刑事は、常に余裕綽々と言うか、どっしりと構えて先を見据える棋士のような落ち着きを持っていたはずだ。こんな直接的な聞き方をしてくる事は無かった。
「……何の話をしてるんですか。何回も言ってるでしょ、俺はただのフリーターだ。そんな超人みたいな真似ができるわけないでしょ。……そこをどいてください」
俺は倉田刑事の横をすり抜け、さっさと立ち去ろうとした。しかし倉田刑事は、俺の肩をしがみつくように掴んで引き止めた。
「待ってくれ……頼む、待ってくれ!」
「……言ったはずですよ。俺はそんな事が可能な方法なんて、何も知らないって」
「嘘でもいい! 言い逃れでもいい! 君がどうやったかなんて、もうどうでもいいんだ!」
倉田の声が震えている。警察官としてのプライドも、俺への疑惑も、すべてをかなぐり捨てたような、無様な懇願だった。
なんだ?なんでこの人はこんなに焦ってる?
「君は……君なら、できるんだろう? 警察の目を盗んで現場に潜り込み、誰にも気づかれずに犯人を無力化することが。致命傷を負った人間さえ、一晩で治してしまうような……そんな技術を、君は持っているんだろう!?」
俺は冷たい沈黙を保った。
こいつは完全にパニックになっている。ここで認めれば最後だ。
「……刑事さん。落ち着いてください。あんた、考えすぎだって。そんなSF映画みたいな話――」
「頼む!!」
倉田が、廊下で膝を突いた。
初老の刑事が、二十代のフリーターの前で、床に額を擦り付けて震えている。
「なんで……そこまで焦ってるんですか。駅前なら、もうSATとかが囲んでるんでしょ。プロに任せればいいじゃないか」
俺の言葉に、倉田がゆっくりと顔を上げた。
その目から、一筋の涙が溢れるのを俺は見逃さなかった。
「……あそこに……あそこの窓口に……」
倉田の声は、もう震えていた。
彼が額を床に擦り付けるようにして、絞り出した言葉。
「あそこで働いている……。俺の、息子が、あそこに居るんだ……」
「…………」
頭を殴られたような衝撃が、俺を貫いた。
「勇一というんだ。あいつは……俺が刑事であることを、ずっと嫌っていた。いつか恨まれて殺されるんじゃないかって。……そのせいで…仲は良くなかったが……それでも、俺の息子なんだ」
倉田の背中が、激しく波打つ。
彼が床に落とした涙が、コンクリートの床に黒いシミを作っていく。
「さっき……連絡があったんだ。あいつが、犯人に銃を突きつけられているって……。一番窓口に近いところに座っていたからって……。犯人は、要求が通らなければ、まずあいつを殺すと……犯人は逃走用の車を要求してるが、警察がその要求を飲むことは無いだろう……」
倉田は、なりふり構わず俺の靴にしがみついた。
「頼む……。田中君、お願いだ。なんでもする。だから……勇一を、息子を助けてくれ……!」
俺は、動けなかった。
倉田の慟哭が、狭い廊下に響き渡る。
その声は、これまで俺が聞いてきた「正義」や「確信」に満ちた言葉ではなく。
ただ、自分の子供を救いたいと願う、あまりにも無力で、あまりにも切実な、一人の父親の叫びだった。
守りたかった「日常」。
倉田勇一という、俺と同じくらいの年齢かもしれない若者。
その彼にも、今日、この瞬間まで続いていたはずの日常があったのだ。
俺がここで無視をすれば、俺の日常は守られる。
だが、倉田の日常は、そしてあの中にいる人々の人生は、永遠に断絶する。
「…………刑事さん」
俺の声は、自分でも驚くほど静かだった。
俺はゆっくりと、膝を突く倉田の肩に手を置いた。
俺には才能がある。
神に等しい力が。やろうと思えば、世界中の紛争だって止められるだろう。地球温暖化だって止めれるかもしれない。だが、そんな事はするつもりはない。俺のような小市民に「神様」の肩書きは似合わない。
でも、目の前で泣いてる人を救えないなら、俺は「人間」ですらなくなってしまう。
「……三十秒、待ってください。忘れ物を取りに戻ります」
俺は部屋に戻り、ドアを静かに閉めた。