三十秒。
彼はそう言って、古ぼけたアパートのドアを閉めた。
私は、冷たいコンクリートの廊下に膝を突いたまま、動けなかった。掌には、先ほどまで掴んでいた田中君のパーカーの感触が残っている。刑事として、一人の大人として、二十代の若者に縋り付くなど、本来ならあってはならない醜態だ。だが、今の私にそんな自尊心は欠片も残っていなかった。
(田中君……頼む……)
これまで彼をマークしてきたのは、理詰めの捜査の結果ではない。しかし、刑事としての鼻、状況証拠とも言えないような情報の集まりが、田中真也が、私や警察の想像を越えるような方法で、事件に介入したと告げていた。
それらすべてを繋ぎ合わせれば、一つの結論に辿り着く。田中真也という男は、何らかの特殊な「技術」か、あるいは秘密組織のバックアップを受けた「工作員」か、はたまた未知のガジェットを操る「天才」なのかもしれないと。
私は、彼が何らかの特殊な装置や、あるいは海外の過激な組織から得た隠密技術を持っているのだと推測していた。あの誘拐事件での出来事、店長の驚異的な回復。それらはすべて、現代科学の枠を超えた「道具」か「技術」によるものだと思っていたのだ。
彼が部屋に戻ったのは、その「道具」か何かを取りに行ったからに違いない。特殊な発信機か、あるいは遠隔で何かを操作する端末か。
ガチャリ、と乾いた音がした。
数えてはないが、一分も経ってないだろう。
扉が開いた。私は縋るような思いで見上げた。
だが、そこに立っていた田中君の姿を見て、私は言葉を失った。
「……え?」
変わっていない。
さっきまでの、少し目つきの悪い、冴えない青年のままだ。
手に何かを持っているわけでもない。特殊なスーツに着替えたわけでもない。防弾ベストも、通信機も、武器らしきものも、何一つ。
彼はただ、ポケットに手を突っ込んだまま、呆然とする私を見下ろしていた。
「協力……してくれないのか、田中君」
絶望が、冷たい波となって押し寄せてきた。やはり無理だったのだ。私があまりにも突拍子もない幻想を彼に押し付けてしまったせいで、彼は困惑し、ただ「忘れ物」という言い訳をして戻っただけだったのではないか。
そもそもからして、本当に勘違いだったのかもしれない。私の考えすぎで、田中真也は本当に事件に介入などしていなかったのか…
しかし、田中君は低く、どこか覚悟を決めたような声で言った。
「刑事さん。手を貸すのはこれきりです。もう二度と、俺の前に現れないでください」
「……あ?」
理解が追いつかない。彼は手を貸すと言ったのか?これから現場に向かうのか? しかし、手ぶらで?特殊なテーザー銃か何かを使うんじゃないのか?
「いいから、入ってください。外で騒がれると迷惑なんです」
彼は私の腕を掴み、強引に部屋の中へと引き入れた。
生活感の乏しい、どこにでもある独身男の部屋。
田中君は、リモコンを手に取るとテレビの電源をつけた。
「見てください。あんたの息子さんは、もう大丈夫だ」
「何を……何を言っているんだ。君は、ずっとここに――」
言いかけて、私の視線は画面に釘付けになった。
ライブ配信されている報道特別番組。ヘリコプターからの映像。
そこには、信じられない光景が映し出されていた。
『――あ、今! 今、銀行のシャッターが開きました! 人質が、人質が次々と外に出てきます!』
レポーターの興奮した声が、スピーカーから割れて響く。
私はテレビ画面にかじりつくようにして、その映像を凝視した。
警察官たちが盾を構えながら駆け寄り、出てきた人々を保護していく。泣き叫ぶ女性、呆然と歩く老人。そして、その中に。
「勇一……」
青い制服を着た、見間違えるはずのない私の息子が、同僚に肩を貸しながら、自らの足でアスファルトを踏みしめていた。
生きていた。
あいつは、無事だった。
全身の力が抜け、私はその場にへたり込んだ。安堵のあまり、涙が止まらない。視界が滲んで、画面がよく見えない。喉の奥から、言葉にならない嗚咽が漏れた。
助かった。本当に、助かったんだ。
だが。
安堵の波が引いた後に残ったのは、心臓を鷲掴みにされるような、どす黒い「戦慄」だった。
(どうやって……?)
疑問が、私の脳細胞を侵食していく。
田中君は、今ここにいる。私の目の前に。
彼は部屋に戻り、数十秒後に再び現れた。そして私を部屋に入れ、テレビをつけただけだ。
彼が「忘れ物」とやらを取りに部屋に入ってから、まだ三分も経っていないだろう。
仮に、彼が部屋の中で、あらかじめ待機させていた「協力者」に連絡をしたのだとしても。
警察、特殊部隊、マスコミのカメラ。三重四重に包囲された、蟻の這い出る隙もないあの銀行の中に、数十秒で侵入し、犯人を無力化し、人質を解放する?
物理的に、絶対に不可能だ。
そんなことができる人間など、この世に存在するはずがない。
私は震える手でスマートフォンを取り出した。現場にいるはずの同僚の刑事に、確認せずにはいられなかった。この目で見た映像が、何かの見間違いではないのかと。
『倉田さん!? こんな時にどうしたんです、非番でしょう!』
「……あ、ああ、倉田だ。現場はどうなっている! 立てこもっていた犯人は……犯人はどうなったんだ!」
電話越しの同僚の声は、困惑と、そして奇妙な動揺に満ちていた。
『……それが、まだよく分からないんです。人質になっていた人たちの話によると、さっきまで銃を突きつけていた犯人たちが、全員同時に……急に、糸が切れたみたいに倒れて動かなくなったらしいんです』
「倒れた……? 撃たれたのか?」
『いえ。銃声なんて一発もしませんでした。詳しいことは、突入したSATからの報告待ちで……』
私は、最後まで聞かずに通話を切った。
スマートフォンの重さが、まるで鉄の塊のように感じられた。
人質たちは無傷。
犯人たちは、同時に気を失っている。あの二つの事件と全く同じ状況。
しかし、そのすべてが、田中真也という男が「忘れ物を取りに戻った」数十秒の間に完結している。
私は、ゆっくりと首を巡らせた。
そこには、テレビの内容に興味を失ったかのように、安物のポットで湯を沸かし始めた男の背中があった。
「なにか見落としている」というレベルの話ではない。
これは、私の知る「世界の理」そのものが、根底から覆されているのだ。
この男の周囲で起きる、あまりにも整合性の取れない奇跡。
その時、私の頭の中に、古びた映画のフィルムが再生されるように、ある記憶が蘇った。
「魔法使いのおっちゃん」
美咲ちゃん誘拐事件の捜査の過程で、話を聞いた子供たちが、キラキラとした瞳で言っていた言葉。
あの時は、何か気の利いた比喩か、手品でも見せて懐柔したのだろうと、軽く考えていた。
だが、今、目の前で起きたことは――
「……田中君……君は……」
私の声は、恐怖に震えていた。
刑事として、数多くの悪党と対峙してきた。命を狙われたことも、死を覚悟したことも一度や二度ではない。だが、これほどまでの「畏怖」を感じたことはなかった。
「……君は、本当に……『魔法使い』なのか?」
私の、論理性を放棄した問いかけに、田中君はわずかに眉をひそめた。
彼は面倒そうに、しかしきっぱりとした口調で答えた。
「その呼び方は、やめてください。気分が悪い」
彼はそれ以上、何も語らなかった。
その言葉は、肯定でも否定でもなかった。
だが、私には分かってしまった。
この男が守りたがっていた「日常」とは、私のような人間には到底理解できない、あまりにも巨大で、残酷なほど美しい「秘密」の上に成り立っている脆い砂の城だったのだということを。
そして。
その砂の城を、彼は今、私の息子の命と引き換えに、自ら壊したのだ。