病室の重い扉の向こう側は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
聞こえるのは、一定の規則的なリズムで鳴り続ける心電図の電子音と、人工呼吸器が酸素を送り込む機械的な音だけ。消毒液の匂いが、鼻腔の奥をツンと刺す。
そのベッドの上に、田中律子は横たわっていた。
かつて、法廷で鋭い舌鋒を振るい、家庭では俺を完璧な「正解」へと追い込んだ、あの峻厳な弁護士の面影はどこにもない。
頭部に巻かれた分厚い包帯。無数の管に繋がれ、蒼白というよりは土色に近い肌をした、ただの痩せ細った初老の女性。病院の話だと、運転中に猛スピードで突っ込んできた車と、正面衝突する形で事故を起こし、頭を強く打ったらしい。
峠は越えたが、頭部へのダメージが酷く、目覚めないかもしれない。との事だった。
「……久しぶりだな、母さん」
俺はパイプ椅子を引き寄せ、意識のない彼女の傍らに腰を下ろした。
看護師には「しばらく二人にしてほしい」と言って席を外してもらった。この密閉された空間で、俺と彼女を繋いでいるのは、皮肉にも彼女がかつて「不要」と切り捨てたはずの、脆い血の繋がりだけだった。
俺は、彼女の反応がないのをいいことに、今まで胸の奥に溜め込んできた言葉を一つずつ吐き出し始めた。
「あんたが事故に遭ったって聞いた時、俺が最初に何を思ったか分かるか? ……『面倒だな』だよ。ようやく手に入れた、スーパーのバイトとしての平和な毎日が、あんたのせいで壊されるんじゃないかって。それが一番最初に来た」
ひどい息子だと思う。だが、それが本音だった。
「あんたは俺に対して、愛情らしいものを一つも見せてくれなかったよな。俺が就職に失敗した時、あの氷みたいな目で俺を見ただろ。俺はあんたのキャリアの汚れでしかないんだって、あの瞬間に理解したよ。あんたが作ったレールは綺麗だったけど、歩くのは死ぬほど息苦しかったんだ」
俺は自嘲気味に笑った。
「でもな……不思議なもんで、疎遠になってからも、俺は心のどこかであんたを意識してた。スーパーの品出しをして、段ボールを畳んでる時も、心の隅で『これであんたを見返せるか?』なんて考えてた。フリーターの自分を受け入れてくれないあんたを、俺はずっと、どこかで憎みながら、同時に求めてたんだろうな」
意識のない律子は、何も答えない。
心電図の波形が、彼女が今も辛うじてこの世に留まっていることを示している。
「……話は変わるけど、最近の俺、結構すごいんだぜ」
俺は少しだけ声を和らげた。
「超能力に目覚めたんだ。最初は怖かった。こんなSFみたいな力、自分の人生を壊しに来た異物にしか思えなかった。隠さなきゃ、バレたら終わりだ。そう思ってビクビクしてたよ」
俺は自分の手のひらを見つめた。
「でもな、色んなことがあった。交通事故からガキを救って、誘拐された女の子を助けて……職場の店長を守って、銀行強盗まで制圧した。そんなことをしてるうちに、気づいたんだ。超能力があろうとなかろうと、俺はただの『田中真也』だってことに。特別なヒーローになる必要も、隠れて震える必要もない。ただ、目の前の誰かを助けるっていう選択肢が増えただけなんだ」
俺はゆっくりと立ち上がった。
「……あんたが認めてくれなくても、俺は今の生活を気に入ってる。あんたには感謝してるよ。女手一つで育てて貰った恩もある。だから俺は俺のやり方で、あんたに最後の一撃を食らわせてやる」
俺は少しだけ呼吸を落ち着け、四個の仮想脳を展開した。
意識の拡張。思考の並列化。
病室の空気が、ピリピリとした静電気を帯びたように震える。
一つ目の脳で、頭蓋骨内部のスキャンを。
二つ目と三つ目の脳で、組織の修復と細胞の活性化を。
四つ目の脳で、脳神経の接合と損傷箇所の再構成。
生命維持装置との整合性を保ちながら、不自然ではないレベルにまで生体数値を調整していく。
完全に健康体にするわけじゃない。それはあまりにも目立ちすぎる。
だが、「数週間後には目を覚ますだろう」という、奇跡と呼ぶにはギリギリ現実味のあるラインにまで、彼女の肉体を引き戻す。
数秒後。
心電図の音が、先ほどよりも力強いリズムに変わった。
俺は仮想脳を霧散させ、深くため息をついた。
「……これで貸し借りなしだ。次に会う時は、せいぜい『フリーターの息子』に命を救われた気分を、たっぷりと味わってくれよ」
俺は一度も振り返ることなく、病室を後にした。
外に出ると、夕暮れの赤い光が街を染めていた。
俺の心は、自分でも驚くほど晴れやかだった。
俺はヒーローでもなければ、親孝行な息子でもない。
ただ、自分の意志で力を使うことを選んだ、一人の田中真也だ。
母親の事を、俺はどう思っているのか。そう問われても、俺自身はその答えを一言では言い表せない。しかし、助けたいと思ってここに来た訳じゃないのは確かだ。そこまで母親の事を好いていた訳じゃない。リスクだってある。バレないように加減して治したが、病院の精密検査でなら、違和感に気付く人間もいるかもしれない。
それなのに、気が付けば自然と彼女を助けていた。
「……それが、家族ってもんなのかな」
俺はそう呟いて、自分の手を見た。超能力に目覚めてから色々な事があった。最初はバレないように、使わないようにしよう。と決めていたはずなのに俺は、周りの人を助けるために、結局この力を使い続け、何人かの人には既にバレてしまっている。
それでも今日、ここで母親を助けられた事は、少なくとも「良い事」のはずだ。
今でも時々考えることがある。
俺に超能力が無かったなら、どうなっていたんだろうか。
あの日、航太という少年はトラックに轢かれ、美咲ちゃんという少女は二度と家には戻れなかったかもしれない。
甘寺店長はバットで殴られて帰らぬ人となり、その家族も酷い目にあっていただろう。
倉田刑事の息子や銀行に居た人たちも、死んでいたっておかしくはない。
そして俺の母、田中律子は二度と目覚めないまま、病室のベッドの上で眠り続けていたかもしれない。
これからどうなるかは分からない。もしかしたら今回のことで超能力がバレて、俺が最初怖がっていたみたいに、世界中から追われる身になってしまうのかもしれない。
仮にそうなっても後悔しない。と今の俺なら胸を張って言うことができた。もし過去に戻る機会があって、今までの「選択」をやり直す事が出来たとしても、俺は同じ「良い事」をするだろう。今後、誰かに「奇跡」をせがまれたとして、俺はそれを拒む事はしないだろう。
「ま、とりあえず家に帰るか」
世界を救える力があっても、俺のような小市民にはこの人生が似合っている。明日からもスーパーで働き、目の前の人を救う。それ以上の人生を望んだら、欲張りすぎってもんだろう。
母さんは認めようとしないだろうが、これが俺の身の丈なんだ。今の生活で、十分に幸せなんだ。
これが、神様でも、魔法使いでも、ヒーローでもない俺の、最高の「日常」なんだ。
この作品はここで完結とさせていただきます。
こんな自己満小説に付き合っていただいてありがとうございました。
最後に、オマケとしてエピローグをあげます。