映画館を出た後の俺は、ひどく気分が沈んでいた。
スクリーンの中のド派手な破壊劇が、網膜の裏側に焼き付いて離れない。あんな風に、いつか自分の人生も火花を散らして爆発するのではないかという妄想が、夕暮れの街を歩く俺の足取りを重くさせていた。
時刻は午後五時を過ぎたあたり。
西日に照らされたアスファルトは、まだ昼間の熱を微かに残している。
俺は駅からの帰り道、いつもの商店街を抜けて、住宅街へと続く細い路地を歩いていた。
(今日の夕飯、どうするかな……)
昨日買った半額の惣菜はもうない。スーパーに寄って何か適当なものを買うか、それとも冷凍庫に眠っている化石のようなうどんを解体するか。そんな、どうでもいい日常の悩みこそが、今の俺には唯一の救いだった。
前方を、数人の小学生が歩いている。
黄色いカバーのかかったランドセルを背負い、何がそんなに楽しいのか、けたたましく笑い合いながら歩く子供たち。その中の一人が、メッシュの袋に入ったサッカーボールを大事そうに抱えていた。
俺は彼らと一定の距離を保ちながら、ぼんやりとその背中を眺めていた。
二十五歳、フリーター。一方、あいつらはこれから何にでもなれる無限の可能性を持った子供。本来なら交わるはずのない、平行線の人生だ。
やがて、小さな交差点に差し掛かった。
信号はちょうど赤に変わり、俺は小学生たちの数歩後ろで足を止める。
俺の横には、先ほどのサッカーボールを持った少年。
彼は友達とふざけ合いながら、ボールを袋ごと放り投げたり、キャッチしたりして遊んでいた。
「あ、危ねっ」
少年の手から、メッシュの袋がすり抜けた。
回転しながら飛んだ袋は、あろうことか車道の方へと転がっていく。
「あ! 待てよ!」
少年は、何も考えていなかった。
赤信号であることも、そこが車道であることも。ただ、自分の宝物が転がっていくのを止めることだけが、彼の世界のすべてになった。
彼は弾かれたように、道路へ飛び出した。
俺は、無意識にそれを目で追った。
同時に、右側から迫る巨大な「影」に気づいた。
トラックだ。
配送中だろうか、かなりの速度が出ている。
運転手はまさか、子供が飛び出してくるとは思っていないだろう。
トラック。速い。
このままじゃ、
そんな思考が、一瞬の間に脳裏に浮かんだ。
――その瞬間。
突き飛ばされるような衝撃が、空気を震わせた。
いや、突き飛ばされたのは、少年の方だ。
車道へ踏み出そうとした少年の身体が、まるで見えない巨大な手に背中を掴まれたかのように、猛烈な勢いで「こちら側」へと引き寄せられた。
ゴォォォォンッ!
直後、鼓膜を劈くような風切り音と共に、トラックが目の前を通り過ぎていった。
トラックは何事もなかったかのように、そのまま直進し、次の角を曲がって消えていった。運転手は、一瞬の異変にすら気づかなかったのかもしれない。
「……う、うわぁぁぁぁぁん!!」
静寂を破ったのは、少年の泣き声だった。
無理やり引き寄せられた勢いで地面に転がった彼は、膝を強く擦りむいたのか、顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくっている。
「ちょっと、大丈夫!?」「航太、血が出てるよ!」
周囲にいた小学生たちが、心配そうに少年に駆け寄る。
俺は、その場に棒立ちになったまま、自分の右手を見つめていた。
やってしまった。
今の力は、なんだ。
今朝の検証で試したような、穏やかな浮遊じゃない。
出力の調整なんて微塵も考えてなかった。というより意識するより先に念力で小学生を吹っ飛ばしていた。
あいつ、下手をすれば俺の念力で骨が折れてたんじゃないか?
頭が真っ白になった。
その後の記憶は、ひどくおぼろげだ。
集まってきた子供たちに、「怪我はないか?」「大丈夫か?」と声をかけたような気がする。「飛び出したら危ないぞ」と、震える声で諭したような記憶もある。
子供たちは泣きじゃくる少年を抱えるようにして、逃げるようにその場を去っていった。
俺はどうやって家に帰ったのか、自分でもよく覚えていない。
気がつけば、俺は自分の部屋のドアを閉め、鍵をかけ、チェーンを回していた。
そのまま、靴も脱がずに万年床に倒れ込む。
ドッと、冷や汗が噴き出してきた。
心臓の音がうるさい。全身の毛穴という毛穴から、嫌な汗が流れる。
指先がガタガタと震えて止まらない。
「やってしまった……。まずい。なんで、あんなことを……」
後悔が、どす黒い波のように押し寄せてくる。
人を助けた。それ自体は善行のはずだ。
だが、俺にとっては死刑宣告にも等しい。
あの不自然な動きを誰かに見られていたら?
もし、あのトラックのドライブレコーダーに、ひとりでに吹っ飛ばされる小学生が写っていたら?
街頭の防犯カメラに、少年が磁石のように引き寄せられる映像が残っていたら?
「いや……待て。落ち着け。落ち着け俺」
俺は布団を頭から被り、必死に自分を納得させるための材料を探した。
大丈夫だ。あの時、現場にいたのは小学生だけだ。
子供の証言なんて、大人はまともに取り合わない。「なんか友達が急に後ろに飛んだ」と言ったところで、風のせいか、自分で踏ん張ったと思われるのが関の山だ。
トラックだって、止まらずに行った。
運転手がバックミラーで確認したとしても、子供が転んでいるのを見ただけだ。
何より、俺は手をかざしたり、呪文を唱えたりしたわけじゃない。
俺の視線は、トラックの方を向いていた。
周囲から見れば、俺はただ事故の瞬間を目撃して、呆然と突っ立っていた通行人に過ぎないはずだ。
仮に、少年の動きが異常だったと気づいた奴がいたとしても、その原因が「横に立っていた死んだ魚の目をしたフリーター」にあるなんて、誰が思うだろうか。
超能力。
そんな非現実的な答えに辿り着く前に、人は「見間違い」という便利な言葉で処理してくれるはずだ。
「そうだ……誰も見てない。誰も気づいてない。あれは、ただの偶然だ」
俺は暗い布団の中で、呪文のように繰り返した。
だが、震えは一向に収まらない。
脳裏にこびりついた、あの「突き飛ばされるような感覚」。
一度使ってしまった。
隠し通すと決めたはずの禁忌に、俺は足を踏み入れてしまった。
あの少年を助けたことは、正しかったのか。
もし、助けなければ、彼は死んでいた。それは最悪の結末だ。
だが、助けたことで、俺の平和な日常が崩壊するリスクを背負った。
「……くそっ」
俺は布団を強く噛み締めた。
自分でも驚くほど、俺は自分勝手だった。
一人の子供の命よりも、自分の「面倒のない日常」の方が重いのではないか。そんな薄汚い本音が、胸の奥でチリチリと燃えている。
いや、考えるのはやめよう。
今日はもう寝るんだ。寝て、明日になれば、また全部が夢だったことになっているかもしれない。
俺は電気も点けず、着替えもせず、ただひたすらに布団の中に潜り込んだ。
外からは、何事もなかったかのように夜の静寂が忍び寄ってくる。
遠くで救急車のサイレンが聞こえるたびに、俺は身体を強張らせ、暗闇の中で息を殺し続けた。
眠りに落ちる直前、俺は自分の右手に、まだ残っているかすかな熱を感じていた。
その熱は、俺がどれだけ否定しても、この力が本物であることを冷酷に告げていた。