翌日、俺は逃げるようにバイト先のスーパーへ向かった。
制服のエプロンを締め、品出し用のカッターを腰に下げる。この、時給1050円の記号としての自分に戻っている間だけは、昨日の悪夢のような出来事を忘れられた。
段ボールを切り開き、棚にペットボトルを並べる。規則的な動作、周囲の喧騒、客の足音。これこそが俺の居場所だ。ここでは俺は「便利な労働力」であって、世界を揺るがす異能者なんかじゃない。
(大丈夫だ。全部終わったことなんだ)
自分に言い聞かせながら、俺はひたすら棚の奥から商品を前に出す「前出し」作業に没頭した。
昨日のあの感触――少年の身体を念力で強引に引き寄せた時の、あの内臓に響くような衝撃――を脳の隅に押し込め、ただのフリーターとして振る舞う。
俺はそれでいい。
目立たず、騒がれず、ただ消費されるだけの日常。それが、今の俺にとってどれほど守る価値のあるものか、あの超能力を手に入れてから嫌というほど理解した。
「……よし、次は三番の調味料の棚だな」
独り言を呟き、台車を押して移動する。
その時だった。
「あ! 昨日のおっちゃん!」
背後から響いた甲高い声に、俺の心臓が物理的に跳ねた。
ビクリ、と全身の筋肉が硬直する。
……落ち着け。ただの呼びかけだ。
俺は強張った顔を無理やり緩め、ゆっくりと振り返った。
そこには、ランドセルこそ背負っていないが、見覚えのある顔の小学生が立っていた。昨日の現場にいた子供の一人だ。そして、その隣には、彼の手を引く三十代くらいの女性。母親だろうか、困ったような笑顔を浮かべてこちらを見ている。
「あら、こら。店員さんの邪魔しちゃダメでしょ。すみません、急に声をかけてしまって」
女性は丁寧にお辞儀をしながら、子供をたしなめた。
俺は冷や汗が背中を伝うのを感じながら、営業用の死んだ笑顔を張り付かせた。
「あ……いえ。大丈夫ですよ」
声がわずかに掠れる。
だが、子供は母親の制止などどこ吹く風で、自慢げに母親を見上げた。
「お母さん、このおっちゃんだよ! 昨日、航太が怪我した時に絆創膏くれたんだぜ!」
……絆創膏。
そうだ。あの混乱の中で、俺は確か、バイトの支給品の予備としてポケットに入れていた絆創膏を、泣きじゃくる少年に手渡したんだった。
「あら、そうなの? それは本当にありがとうございました。航太のママからも、誰か親切なお兄さんに助けてもらったって聞いていたんですけど……お名前も伺わずに失礼してしまったみたいで」
女性が申し訳なさそうに微笑む。
俺は「いえ、そんな」と短く返しながら、内心で激しいパニックを起こしていた。
マズい。顔を覚えられている。それも、善意の第三者として「美談」の中に組み込まれようとしている。
「たいしたことじゃありませんから……。怪我、大したことなくて良かったです」
俺は早々に話を切り上げようと、再び棚の方へ体を向けた。
だが、子供の純粋な好奇心は、俺の逃げ道を無情に塞いだ。
「そういやおっちゃん、昨日の航太、なんであんなに飛んだの?」
心臓が凍りついた。
開きかけた俺の口が、そのまま固まる。
母親が不思議そうに子供に聞き返した。
「どういうこと? 航太くん、自分で転んじゃったんでしょ?」
「違うよ! 航太、トラックに轢かれそうになったんだ。でも、突然誰かに突き飛ばされたみたいに、こっちにビュンッ!って転んできたんだよ!」
子供は興奮気味に、手振り身振りを交えて説明を続ける。
「誰も触ってないのに、航太の身体が後ろに引っ張られたみたいに見えたんだぜ。俺、チョーびっくりしたもん!」
「もう、あんたの言い方は大げさなんだから。びっくりしてそう見えただけでしょ」
母親は笑って受け流そうとしているが、その瞳にわずかな困惑が混じっているのが分かった。彼女は再び俺の方を向き、確認するように言った。
「昨日は、そんなに危なかったんですか? トラックが近くを通ったとか……」
言わなければ。
何か、当たり障りのない言い訳を。
「いや、あの子が自分で後ろに跳び退いたんですよ」とか、「風が強かったからですかね」とか。
だが、喉が引き攣ってうまく音が出ない。
子供の真っ直ぐな視線が、俺の「嘘」を見透かそうとしているように感じられた。
子供は嘘を吐かない。彼らは、見たままを言葉にする。
「……おっちゃん、昨日、何か魔法使った?」
冗談めかした子供の問いかけが、俺の耳元で爆音のように響いた。
周囲の喧騒が遠のく。
スーパーの明るい蛍光灯の下で、俺だけが暗い泥沼の中に沈み込んでいくような感覚。
魔法。超能力。
昨日の今日で、その単語を突きつけられるとは思わなかった。子供はこういう所がある。大人と違って「魔法」や「超能力」が夢や幻想の類いだとまだ気づいていないからこういう事が言えるだけだ。(実際は俺という超能力者が目の前にいる訳だが)
俺は無理やり喉を鳴らし、乾いた唇を動かした。
「……まさか。そんなのあるわけないだろ」
自分でも驚くほど、低く、冷たい声が出た。
「あの子がパニックになって、自分で後ろに跳んだんだよ。俺は……ただそれを見てただけだ」
俺は子供と目を合わせないように、再び棚に手をかけた。
手のひらがじっとりと汗ばんでいる。
「ほら、店員さん困ってるじゃない。行きましょう」
母親が子供の手を引いて、足早に去っていく気配がした。
子供はまだ何か言いたげだったが、母親に促されてようやく視線を外した。
「……失礼しました。ありがとうございました、本当に」
女性の声が遠ざかっていく。
俺は二人が完全に売り場から消えるまで、棚の一点を凝視し続けた。
……バレたのか?
いや、そんなはずはない。母親は信じていない。
だが、あの子供の記憶には、はっきりと「不自然な現象」として刻まれてしまった。
もしあいつが、学校で、あるいは塾で、昨日いた他の友達ともう一度その話をしたら。
『航太が、誰もいないのに後ろに飛んだ』
『横にいたおっちゃんが怪しかった』
そんな話が、何かの拍子に大人の耳に入り、面白半分でSNSに書き込まれでもしたら。
俺は、商品を握る右手に思わず力が入りすぎてしまった。
パキッ。
小さな音を立てて、プラスチックのボトルの蓋が歪む。どう見ても握力でやった。とは言えないような歪み方をしている。
「……クソッ」
俺は小さく毒づき、歪んだボトルを廃棄に回すために回収した。
平和な日常? ただのフリーター?
笑わせるな。
一度使ってしまった力の代償は、こうしてじわじわと、俺の退屈な聖域を侵食し始めている。
俺は、自分のすぐ後ろに、目に見えない巨大な亀裂が走り始めているのを、確信せずにはいられなかった。