液晶画面の中で、アナウンサーが淡々と原稿を読み上げていた。
『……一昨日、市内の住宅街で保護された女子児童について、警察は、現場の住宅にいた自称派遣社員の男を未成年者誘拐の疑いで送検し――』
俺は、安物の座椅子に深く沈み込みながら、そのニュースを眺めていた。
画面には、規制線が張られたあの一軒家の遠景が映し出されている。あの時、俺の「念力の手探り」が捉えた、あの寒々しい部屋の光景が脳裏に蘇る。
あの日、男を気絶させた後、俺は一歩も部屋から出ることなく、次なる行動に移った。
自宅の電話を使うのは論外だ。スマートフォンの発信履歴を残すのも危なすぎる。今の時代、通信記録は警察の手に渡れば一瞬で身元が割れる。
俺は霧散させたばかりの「仮想脳」を再びフル稼働させ、意識を再び街へと解き放った。
ターゲットは、自宅から数キロ離れた大通り沿いにある、古い公衆電話だ。仮想脳による並列処理で街をスキャンし、ようやく街角の薄暗い電話ボックスを見つけた時、今どき公衆電話が残っていることに感謝するとは思わなかった。
俺は自宅の畳に座ったまま、数キロ先の受話器を念力で浮かせる。初めはその辺の自動販売機の下に転がっている小銭でも使おうかと考えたがすぐに気付いた。
赤い緊急通報ボタン。公衆電話から110番にかける場合は無料だ。二十年以上生きてきて、そんな基本的なことを初めて知った。教習所か小学校の授業で習ったかもしれないが、使う機会がなければ忘れてしまうような知識だ。
通報の際、俺は受話器の周囲にある空気を念力で直接振動させ、無機質な合成音を作った。
『……〇〇町の、北側にある古い一軒家。二階の部屋に、女の子が囚われている……』
それだけを告げて、俺は受話器を戻した。
全ての工程を終えて意識を完全に自室へと戻した頃には、凄まじい「疲労感」が俺を支配していた。
仮想脳を幾重にも増設し、街中をレーダーのように全てをスキャンしながら少女を救い、数キロ先の空気を微細に制御する。
それがどれほど俺の精神を摩耗させていたのか、緊張が解けて初めて理解した。
「……終わったんだな。本当に」
ニュースによれば、美咲という少女に外傷はなく、命に別状はないという。
完璧だ。もう、こんなことは二度としない。そう心に深く刻みつけた。
だが、代償はあった。
俺は翌日、数年通い続けたバイト先のスーパーに電話を入れ、退職を申し出た。
理由は単純だ。あの小学生たちが、俺の職場を知っているからだ。「おっちゃんのおかげで美咲ちゃんが助かった!」なんて、無邪気な感謝の心で店に押し寄せられでもしたら、俺の「平穏な日常」という城壁は一瞬で崩壊する。子供の口に戸は立てられない。
店長には「一身上の都合」とだけ言い張り、電話一本で全てを終わらせた。数年積み上げてきたちっぽけな社会的な信用が、たった数分の通話で塵になった。
引っ越しも検討したが、通帳の残高を確認してすぐに断念した。数万の貯金では、アパートの敷金礼金すら払えない。
それからの三日間、俺は死んだように部屋にこもっていた。
無職。貯金僅か。少女を救う超能力の行使者。
その肩書きのギャップに吐き気がした。腹は減る。電気代も家賃もかかる。魔法も超能力も、現実の支払いを免除してはくれない。
俺はスマートフォンを片手に、血眼になって求人サイトを漁った。学歴も職歴も大したことはない。それでも、今の俺に必要なのは「誰からも怪しまれない、透明な立場」だった。
そして今日。
ようやく漕ぎ着けた一軒の面接のために、俺は押し入れの奥からスーツを引っ張り出した。
数年前、就職活動に失敗して以来、一度も袖を通していなかった代物だ。少しカビ臭く、肩のあたりには埃が積もっていた。
鏡の前で、慣れない手つきでネクタイを結ぶ。
昨日までのエプロン姿とは違う、窮屈な戦闘服。
鏡の中に映るのは、英雄でも超能力者でもない、ただの必死な表情をした二十代後半の男だ。
場所は隣町の小さなIT関連会社。事務職の補充員募集だ。正社員登用の道もあるという。
駅へ向かう道中、否応なしに周囲の「気配」に敏感になっている自分に気づく。
意識を向けようと思えば、いつでもあの「仮想脳」を作り出せる。物陰での内緒話、服やカバンの中に何を隠しているのか。それらを全て知る事が出来る。
無職の俺が、その気になればこの街の全てを支配できる。
だが、俺はそれを拒絶した。
握り締めた拳の中で、超能力という名の欲望が唸りを上げている。
それを、理性の鎖で力いっぱい抑えつける。
俺が欲しいのは、世界を救う力じゃない。
月末に決まった給料が振り込まれ、誰にも怪しまれずに、静かに生きていくための権利だ。
駅のホーム。入線してくる電車の風圧を受けながら、俺は大きく息を吐いた。
「……普通の、生活。それだけだ」
電車に乗り込み、吊革を掴む。
周囲のサラリーマンたちに紛れ、俺は自分の「記号化」を急いだ。
面接会場のビルを見上げた時、少しだけ足が震えた。超能力で凶悪犯を制圧するよりも、スーツを着て面接官の前に座る方が、よっぽど勇気がいる。皮肉な話だ。
「田中真也さんですね。どうぞ、お入りください」
受付の女性の声に、俺は背筋を伸ばした。
これが俺の、新しい日常への再挑戦だ。
昨日までの「魔法使い」は、あのアパートの暗闇に置いてきた。
俺は面接室のドアをノックし、精一杯の「普通の笑顔」を作って、一歩足を踏み出した。