むむむの伊佐朗 作:織田ひろふみ
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練馬区掻塚町はそういう場所であった。
地名の由来は室町期にまで遡れる。それ以前のことは杳として知れない。
「
「掻塚と云ふは古き塚の意なり。何の塚なるかは知れず」
すなわちこの時点で既に名の由来は忘れ去られていた。なぜ忘れられたかという経緯もまた、文書には残されていない。
江戸期の地誌『武蔵国風土記稿』巻之百三十七には、当地について次のように記される。
「掻塚村の北方に古き塚あり。土地の者これに近づかず。年経て塚の表土を掻きむしりたるが如く荒るること有り、ゆゑに掻塚と云ふか。掻塚にはまた『掻き消える』の意あるべしと郷土の老翁が語れり。村に夜間ひとり消ゆること、しばしばあり」
地名は二つの解釈を内包している。「掻きむしる」と「掻き消える」。いずれが本来の意であったかは、その後の文献を辿っても確定しない。
郷土史家の木暮幾太郎は明治四十二年刊の『豊嶋郡郷土考』においてこの記述を引きつつ、「掻塚の地は人の消ゆる地として古より知らるるなり」と書き止めている。
木暮自身は大正二年の春、掻塚北方の林に現地調査へ出たまま戻らなかった。革鞄・万年筆・手帳の一部が後日発見されたが、本人の消息は今に至るまで判明していない。手帳の最後の頁には次の四文字のみが万年筆で記されていた。
「土が動く」
その記述の前後に、文脈の助けとなる他の語は存在しない。
明治以降、当地で記録に残された失踪と変死は数十件に上る。代表的なものを以下に抜粋する。
明治十七年、農夫一名が朝の田仕事に出たまま戻らなかった。鋤と笠が畦に残されていたが、足跡は田の中ほどで途切れていたという。
明治三十一年、子供四名が同日の同じ刻限に各々の家から消えた。四つの家に共通の縁戚関係はなく、子供同士の親交もなかったとされる。
大正七年、結婚式当日の花嫁が裏戸から出たまま戻らなかった。家から二十間ほどの所に草履の片方だけが残されていた。
昭和六年、村の小学校が遠足を催した。引率二名児童二十三名のうち、児童三名が下校時に学校に戻らなかった。同日の天候は良好で、足跡を辿るに足る雨もなかった。
昭和十九年、防空壕の中で隣保班の七名が下半身のみとなって発見された。空襲は当地にはなく、外傷の原因は警察医の検案でも特定されなかった。
昭和三十六年、宅地造成のための測量に従事した技師二名が現場から戻らなかった。周辺の捜索でも痕跡は得られなかった。
昭和五十八年、住宅街の路地で猫の下半身のみが複数発見された。同年、カラスの大量死も同地で観察されている。
平成三年、早朝の散歩に出た老人が消えた。杖と義歯のみが交差点の角に残されていた。
これらは記録に残ったものに過ぎない。
文書化されていない失踪は、その数倍に及ぶと郷土の老人は語る。語るが、語った老人の名はいずれも記録されていない。
戦後、米軍の空襲を直接受けなかった当地は、表向きには平穏な郊外の一画として戦後復興を迎えた。
昭和三十年代後半、東京の宅地不足を背景に、掻塚を含む豊嶋郡一帯では大規模な区画整理と造成が進められた。北方の塚の在った林の一部もこの時期に伐採されている。
造成時の作業日誌の一部に機材の不調や作業員の体調不良に関する記述が散見されるが、いずれも軽微な事案として処理された。
昭和四十年代以降、当地は典型的なベッドタウンとなった。新住人の多くは当地の過去について何も知らされず、また知ろうとする動機も持たなかった。古くからの住人は、過去について多くを語らない。語る者には、いくつかの理由があるとされる。
第一に、語ったところで信じる者がいないこと。
第二に、語ることで自身に何かが及ぶことを恐れること。
第三に、語る言葉を持たないこと。
平成・令和の事件についてはニュース報道と区広報の統計に譲る。重要な点だけを記す。
失踪と変死は、戦前・戦後・現代を通じて途切れたことがない。
頻度に明瞭な周期はない。年に数件のこともあれば月単位で数件のこともある。季節や時間帯、被害者の年齢層・職業・性別においても有意な偏りは見出されていない。
共通項として確認されているのは、当地もしくは当地に近接する区画で起きていること、ただそれだけである。
令和七年現在、練馬区生活安全課は当年の行方不明者届受理件数が前年同月比で増加傾向にある旨を公表した。区はこの統計と特定事件との関連について判断を示していない。