むむむの伊佐朗 作:織田ひろふみ
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どの町にもたいてい誰も読まない本が一冊はある。例えば『わたしたちの掻塚』という、町制の節目に町会が編んだ二十数頁の薄い記念誌が
それであった。
その巻頭はこんなふうに始まる。
「掻塚町は練馬区の北東部に位置する閑静な住宅地です。春には桜並木が美しく、子供会や町内清掃などの活動もさかんな、緑ゆたかな住みよいまちです」
どこの町の記念誌にも書いてあるようなことだ。変わったところは何もない。問題は頁をめくった先にある。
『わたしたちの掻塚』は町の起こりをこう記している。
「掻塚の地名は古く、室町のころにはすでに見えます。掻塚とは『古き塚』の意とされ、古くよりこの地は亡き人をねんごろに弔う信仰の篤い土地でした。北のはずれには塚があり、土地の人々は長くこれを大切に守り伝えてきたといいます」
弔いの篤い土地、大切に守り伝えてきた塚──記念誌はそう書いている。
ところが江戸期の地誌『武蔵国風土記稿』巻之百三十七は同じ塚についてまるで違うことを記している。
──『掻塚村の北方に古き塚あり。土地の者これに近づかず』
近づかない塚のことを守り伝えてきたとは言わない。記念誌が書かなかったことのほうがたぶん本当である。
この食い違いには出どころがある。練馬区の区史編纂室に世に出なかった調査草稿が一綴り眠っている。昭和四十年代に区史を編むため委嘱された郷土史家の手によるもので、とうとう本編には入らなかった。入らなかった理由は編纂者が死亡したからだ。事故か事件か、はたまた単なる病死かまでは定かではないが。
草稿は北の塚を「葬地」と言い切っていた。
掻塚の北一帯は中世から続く「三昧」であったという。三昧とは亡骸を捨て焼き埋める場所のことだ。
墓とはまた意味合いが異なる。縁のない者や行き倒れ、刑場で死んだ者や引き取り手のない骸をひとつの穴にまとめて投げ込む。古文書のいう「無縁」「投込み」の地がそこであった。
草稿はその穴を扱った人々にも触れている。
死の穢れを始末すること、斃れた牛馬を片づけること、縁のない骸を埋めること。これらはいずれも当時、特定の身分の者に押しつけられた役であった。筆者はある近世の村方文書を引いて、そのまま書き写している。
──『北の塚守は村に非ず。穢多非人の類、これを掌る』
人が人を「穢れ」と呼んで線を引いた。線の外側へ、穢れと名づけたものを残らず掃き寄せていく。人の死も獣の死骸も誰のものでもない骸もそれを始末させられた人々さえも北の塚のあたりへ寄せられていった。
ありていに言えば、掃き溜めである。
『風土記稿』は塚の名の由来に二つの説を並べていた。表土が「掻きむしられた」ように荒れるから掻塚。人が「掻き消える」ことが多いから掻塚。草稿の筆者はそこに三つ目を書き足している。掃いて掻き寄せた末の塚だから掻塚なのだと。
どれが正しいのかはわからない。草稿が世に出なかった以上、その正しさを確かめたい者も確かめねばならぬ者もいなかった。
土地の古い人たちは子に「北へ行くな」と言い聞かせたという。
近代に入ると、塚は記録の表から薄れていく。明治の地租改正で土地は一筆ごとに番号を振られ持ち主を持つただの地面になった。塚を守る役も守るべき謂れも古い制度ごと消えてなくなった。
明治四十二年、郷土史家の木暮幾太郎がこの一帯を歩いて調べている。彼は塚を「人の消ゆる地」と書き残し、その四年後、北方の林で今度は自分が消えた。手帳の最後の頁には「土が動く」とだけあった。
戦後、空襲をまぬがれた当地は静かな郊外として復興を迎えた。
そして昭和三十年代の後半、東京の住宅難を背に掻塚を含む一帯で大がかりな区画整理と造成が始まった。塚のあった林は切り払われた。穴は埋め戻され、上から土がならされる。そこへ道が通り、やがて家が建っていった。
こうして掻塚町は何の変哲もないベッドタウンになった。新しく越してきた人たちは自分の家の下に何があったのかを知らされず、知ろうともしなかった。知るための手がかりはあの薄い記念誌の、誰もめくらない頁の奥にしか残っておらず、そんな事を知ろうとする者もいなかった。
『わたしたちの掻塚』は巻末をこんな一文で結んでいる。
「掻塚町はこれからもみんなにとって住みよいまちであり続けることでしょう」
北のはずれ、かつて塚のあったあたりにはいま小さな児童公園がある。砂場がひとつ、ブランコがふたつ、すべり台がひとつ。児童公園には沢山の桜の樹が植えられているが、春になるとびっくりするほど美しい桜が咲くという。