むむむの伊佐朗   作:埴輪庭

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【安養院縁起 享保十八年】

 ◆◆◆

 

 武蔵国豊嶋郡篠垣村安養院に伝わる縁起 文政七年什物改めの節に住持の書写せしものという

 

 当院は往古草庵にてありしを寛永の頃に中興開山周慶和尚これを再興し、以来浄土の法灯を継ぐ。本尊阿弥陀如来立像一躯。境内東西二十間南北二十七間。近郷十七箇村の檀那場を預かる。掻塚村もその一なり。

 

 一、享保十八年癸丑の秋

 

 この頃掻塚村にて人の失することしばしばあり。村の者にはあらず。物売りまた旅の者、道を借りて通るばかりの者どもなり。村に入りしを見し者はあれど出でしを見し者なし。村にては野犬か追剥のしわざならんと言いて、さのみ怪しまざりき。

 

 同じ年の九月に行脚の僧一人、当院に一夜の宿を請う。名を良宥という。いずれの寺の者とも言わず、ただ諸国を巡るとのみ答う。年の頃は五十ばかりなり。

 

 住持、掻塚村より参られしかと問う。良宥、然りと答う。しばらくありて言うよう、あの村には縁なき者の多く集まりおると。住持、何ゆえ集まるかと問う。良宥言う、集まるは行くべき所を知らざる故なりと。それより外は何をも言わず、その夜は早く臥しぬ。

 

 翌朝になりても良宥発たず。住持、掻塚村の年寄どもを呼びて寄り合う。その席にて良宥の言いしことは伝わらず。ただ所を作るべしとのみ言いしという。

 

 良宥、村の内を歩みて所々に立ち止まる。指を折りて数えつつ此処、此処と指しゆく。年寄の一人が何ゆえ此処かと問いしに、答えずして次の所へ歩みぬ。

 

 その所々に塚を築く。土を盛り石を据え、経を書写して埋む。村中して人足を出し七日にて成る。供養は良宥ひとりにて修す。夜を徹して声のありしという。何の経を誦せしか、後に村の者に問うとも覚えたる者なし。これより後、掻塚村に人の失することやみたり。

 

 村の者ども良宥を留めて当村に住まわせんと言う。良宥辞して言うよう、われは留まるべき者にあらずと。翌日発ちて行方を知らず。

 

 村にては年に一度、彼の塚を巡りて手を合わす習いとなりぬ。巡る順は定まりおれば必ず同じ順に巡りて、村境にて引き返すという。

 

 爾来村中安穏にして人みな居着き他所へ出ずる者なし。他村より入り来る者は年々に多く村高も増したり。これひとえに良宥上人の法力なるべし。

 

 什物の事

 

 一、鰐口一口 銘に享保十八年掻塚村中とあり

 一、経机一脚 同村寄進

 一、開山周慶和尚頂相一幅

 一、什器の類は別帳にこれあり

 

【現代語訳】

 

 武蔵国豊嶋郡篠垣村の安養院に伝わる縁起。文政七年の什物改めの際に住持が書写したものという。

 

 当院は昔は草庵であったものを寛永の頃に中興開山の周慶和尚が再興し、以来浄土の法灯を継いでいる。本尊は阿弥陀如来立像一躯。境内は東西二十間(およそ三十六メートル)、南北二十七間(およそ四十九メートル)。近郷十七箇村の檀那場を預かる。掻塚村もそのひとつである。

 

 一、享保十八年癸丑の秋

 

 この頃掻塚村では人が失せることがたびたびあった。村の者ではない。物売りまた旅の者、道を借りて通るだけの者たちである。村に入るのを見た者はあるが出るのを見た者はない。村では野犬か追剥のしわざであろうと言って、それほど怪しまなかった。

 

 同じ年の九月に行脚の僧が一人、当院に一夜の宿を請うた。名を良宥という。どこの寺の者とも言わず、ただ諸国を巡っているとだけ答えた。年の頃は五十ばかりである。

 

 住持が、掻塚村から来られたのかと問うた。良宥は、そうだと答えた。しばらくあって言うには、あの村には縁のない者が多く集まっている、と。住持が、なぜ集まるのかと問うた。良宥は言う。集まるのは行くべき所を知らないからである、と。それより外は何も言わず、その夜は早く臥した。

 

 翌朝になっても良宥は発たなかった。住持は掻塚村の年寄たちを呼んで寄り合った。その席で良宥が言ったことは伝わっていない。ただ所を作るべし、とだけ言ったという。

 

 良宥は村の内を歩いて所々で立ち止まる。指を折って数えながらここ、ここと指していく。年寄の一人がなぜここなのかと問うたが、答えずに次の所へ歩いていった。

 

 その所々に塚を築いた。土を盛り石を据え、経を書写して埋めた。村中で人足を出し七日で完成した。供養は良宥がひとりで修した。夜を徹して声がしたという。何の経を誦したのか、後に村の者に問うても覚えている者はない。これより後、掻塚村で人が失せることは止んだ。

 

 村の者たちは良宥を留めてこの村に住まわせようと言った。良宥は辞退して言うには、自分は留まるべき者ではない、と。翌日発って行方を知らない。

 

 村では年に一度、その塚を巡って手を合わせる習わしとなった。巡る順は定まっていて必ず同じ順に巡り、村境で引き返すという。

 

 以来村中は安穏で人はみな居着き他所へ出る者がない。他村から入って来る者は年々多く村高も増した。これはひとえに良宥上人の法力であろう。

 

 什物の事

 

 一、鰐口一口 銘に享保十八年掻塚村中とある

 一、経机一脚 同村の寄進

 一、開山周慶和尚の頂相一幅

 一、什器の類は別帳にこれあり

 

 ・

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【古蹟取調書上 明治十三年】

 

 武蔵国豊嶋郡掻塚村より郡役所へ差し出せし書上一通 末尾に朱書あり

 

 古蹟取調ノ儀ニ付書上

 

 本年五月十日付御達ニ依リ村内古蹟取調候処左ノ通ニ御座候

 

 一、供養塚 七基

 右ハ享保年間僧良宥ナル者ノ建立ト申伝候得共現今存スルモノ一基モ無之候

 内一基ハ開墾ノ節取崩シ畑地ト相成候

 内一基ハ道敷ニ相成候

 内一基ハ明治四年取払候 村用ニ付取払候由申伝候得共書付類一切無之候

 残四基ハ其所在ヲ知ル者無之候

 

 但シ村内古老ノ内一名塚ハ都合九基有之候由申立候得共外ニ左様申ス者無之候 右ハ記憶ノ違ト存候

 

 一、右塚ヲ年々一度巡拝致候習ハシ有之候得共近年ハ相止ミ候

 何時ヨリ相止ミ候哉又何故相止ミ候哉村中相尋候得共存知タル者一人モ無之候

 

 一、右良宥ナル者ノ来歴並ニ其後ノ行方ハ相分リ不申候 村内ニ位牌モ無之候

 

 一、其外村内ニ古蹟ト相認ムベキ物件無之候

 

 右之通及書上候也

 

 明治十三年五月二十七日

 武蔵国豊嶋郡掻塚村戸長 青柳藤兵衛

 

 東京府北豊島郡役所御中

 

 (朱書)

 書面古蹟ノ部ニ加フベキ物件無之

 僧良宥ノ儀ハ附会ノ説ト認ム

 塚跡地目ノ儀ハ地引帳ニ照シ各筆現況ノ通取扱可致事

 六月四日

 

【現代語訳】

 

 古蹟の取り調べについての書上

 

 本年五月十日付のご通達により村内の古蹟を取り調べたところ、左の通りである。

 

 一、供養塚 七基

 右は享保年間に僧良宥という者が建立したものと言い伝えられているが、現在存在するものは一基もない。

 うち一基は開墾の際に取り崩して畑地となった。

 うち一基は道敷となった。

 うち一基は明治四年に取り払った。村の用のために取り払ったと言い伝えられているが、書付の類は一切ない。

 残る四基はその所在を知る者がない。

 

 ただし村内の古老のうち一名が、塚は合わせて九基あったと申し立てているが、他にそのように言う者はない。これは記憶違いと存じる。

 

 一、右の塚を年に一度巡拝する習わしがあったが、近年は止んでいる。

 いつから止んだのか、また何故止んだのかを村中に尋ねたが、存じている者は一人もない。

 

 一、右の良宥という者の来歴およびその後の行方は分からない。村内に位牌もない。

 

 一、その外に村内で古蹟と認めるべき物件はない。

 

 右の通り書き上げ申し上げる。

 

 明治十三年五月二十七日

 武蔵国豊嶋郡掻塚村戸長 青柳藤兵衛

 

 東京府北豊島郡役所御中

 

 (朱書き)

 書面、古蹟の部に加えるべき物件はない。

 僧良宥の件は附会の説と認める。

 塚跡の地目については地引帳に照らし、各筆現況の通りに取り扱うべきこと。

 六月四日

 

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