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生まれは神奈川県の大磯なのだが、大学進学にあたって都内にアパートを借りて一人暮らしをしている。別に裕福な家庭というわけでもないので、家賃は安ければ安いほど良い。かといって、築ン十年の木造というような物件は流石に御免であるため、まあ諸々の収支を鑑みて色々悩んでいたところ、練馬区は掻塚に住居を定める事を決めたのだが。
そんな渡嘉敷だが、一人暮らしを始めて三日で引っ越してきたことを後悔した。
でるわでるわ──街を歩けば首が半分ちぎれかけた女が歩いていたり、ファミレスの隅にはずっと俯いているボロボロの服装の男がいたり(しかも店員は一切話しかけない)、バイト帰りにふと後ろを振り向くと電信柱がくねくねと踊るようにしてうねっていたり……。
自宅でも心は休まらない。
たとえば風呂だ。湯を張って浸かり、ふと脚を見ると、湯の表面に何か別の脚が浮いている。自分のものより細く、色が悪い。皮膚がすぅっと風呂桶の縁へ向かって伸びていて、まるで別の生き物が自分の脚の上に被さっているかのようだ。慌てて立ち上がると何もない。ただの湯面の揺らぎだったかと思うと、そうとも言い切れない。鏡に映った自分の首筋に、赤い指痕がついていることもあった。翌朝になれば消えているのだが。
とくに酷いのが夜中のキッチンである。冷蔵庫を開けると、必ずと言っていいほど棚の奥から誰かに見つめられている気がする。ある時など、卵パックの隙間から細い指が一本、ちょこっと出ていた。無言で冷蔵庫を閉めた渡嘉敷は、そのまま布団に戻ったものだった。
渡嘉敷は知っている。大事なのは慌てず騒がないこと。そして何より、「認識」しないことだ。視界に映ったそれを「在る」と認めてしまえば、向こうとの関係性が確定してしまう。いわば境界の向こう側へ自ら足を踏み入れるようなものだ。だから冷蔵庫の指も見なかったことにした。大磯の実家でも高校でも、見えないふりを通せばあちらも干渉してこない。それが彼の経験則だった。
ただ、それだって限度はあった。
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──くそ、
渡嘉敷は内心で舌打ちした。
窓際のA42卓にいつの間にか客が来ていた。例によって、他のバイトは気づいていない。
厭なのは──何よりも厭なのは視線だ。
視線というものは所詮、光が網膜に届くだけの物理現象のはずだ。それが皮膚を押してくることはない。だが今、渡嘉敷の左頬には確かに圧がかかっていた。水に沈んだときのような、ぬるりとした、それでいて逃げ場のない重み。A42卓の客は──あるいは客だったものは──まっすぐこちらを見ている。
渡嘉敷は拭き終わったトレイを積み上げながら、一度だけ素早く視線を流した。一瞬だ。コンビニの陳列棚を横目で掠めるくらいの速度で。
視界の端に捉える
ただ、それがこちらを向いていることだけは確かだった。
目があるのかどうかもわからないのに、こちらを見ている。顔があるのかどうかもわからないのに、こちらを見ている。
渡嘉敷は二枚目のトレイを手に取り、布で拭き始めた。力が入った。プラスチックが軋む音がした。
A42卓の客はまだそこにいる。渡嘉敷が見ていないことくらい、あちらも百も承知のはずだ。それでも視線は外れない。むしろ、渡嘉敷が必死に見ないふりをしていること自体を、愉しんでいるようにも思えた。
薄い唇の端を持ち上げて嗤っているのかもしれない。いや、そもそも唇があるのかどうか──。
「渡嘉敷くん、四番テーブルお願い」
店長の声で我に返った。渡嘉敷は「はい」と返事をして厨房に向けた歩を進めながら、背中にへばりついた粘ついた重みを感じていた。
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部屋に戻ってからも、渡嘉敷の気分は晴れなかった。
電気をつけるのも億劫で暗いままのワンルームに寝転がる。天井のシミが昨日より少し大きくなっている気がするのは、気のせいではないだろう。気のせいだと思いたいだけだ。
(……引っ越すか)
頭の隅で何度目かのその考えが浮かぶ。掻塚を離れれば少しは違うかもしれない。いや、離れたところでこの体質が変わるわけではない。大磯にいた頃から、それはずっとついて回っている。ただ掻塚という土地は──あまりに濃すぎた。まるでこの街全体が、あちら側とこちらの境目を曖昧にするように出来ている。練馬区掻塚。家賃の安さだけで選んだことを、渡嘉敷は三日目にして後悔し三週間目にして本気で悔いていた。
だが、引っ越すにも金が要る。
新しい部屋の敷金礼金、引っ越し業者場合によっては違約金。どれもこれも、今の渡嘉敷には到底出せる額ではない。実家に頼むか──そう思いかけて、すぐに打ち消した。父親は昨年から給料が下がっている。母親もパートを増やしたと聞いた。渡嘉敷の学費だって、決して楽ではないはずだ。それなのに「部屋が幽霊だらけで」などと言えるわけがない。第一、言ったところで信じるはずもない。大磯の家にいた頃から、渡嘉敷はこの手の話を一切しなかった。母は信心深い方だったから、余計な心配をかけるだけだ。
「……はあ」
今日何度目かわからないため息をついて渡嘉敷はスマホを手に取った。枕元に転がしていたそれを、仰向けのまま顔の上に掲げる。画面の明かりが暗い部屋にぼうと広がった。
開いたのは動画配信アプリだった。特に見たいものがあるわけではない。ただ、テレビのように誰かが喋っている声が今は欲しかった。静かだと、冷蔵庫のモーター音や壁の向こうの気配や、隣室の物音──いや隣人はいないはずだ。このアパートの隣は確か空き室だった。ならばあの微かな音は何だ。考えないようにする。指で画面を適当にスクロールして、渡嘉敷は見慣れたサムネイルの前で指を止めた。
『イサチャンネル』
ゆるい手描きの文字でそう書いてある。登録者数は多くない。数千人程度だ。派手な編集もなければ、煽るようなタイトルもない。ただ白い背景に黒い文字で、今日の配信タイトルが書かれている。
『夜の雑談。お悩み、聞きます』
配信はもう始まっていた。渡嘉敷はイヤホンを片耳に突っ込んで、寝転がったまま再生を押した。
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『──というわけで、今日もお便り読んでいきますね……と、その前に!』
やや掠れた声の、(多分)若い男は一瞬暫時声を張り上げた。
『この前教えたおまじない、皆結構やってくれてるんだねえ、感心感心。で、DM見てるとさ、何人かから「塩撒いたら隣の部屋から文句言われた」って報告来てんだけどお前ら廊下共有のとこに撒ってんだろ! 玄関の内側って言ったろ! 内側!』
ぴよ助:wwwww
ドブ川きよし:馬鹿すぎる
くるみのすけ:集合住宅の廊下に塩撒く奴おるか
『あと「線香アレルギーの家族がいるんですが」って人、無理すんな。枕の向きだけでいいよ。あと「東枕にしたら朝早く起きすぎて困る」っていうのは知らん。日出と共に起きるって健康そのものじゃん』
もちごめ:健康的すぎる
夜勤明けのK:農民かよ
『で「盛り塩と撒き塩と線香全部やっていいんですか」って質問来てるけど全部やっていいよ、好きにしな』
こけもも汁姫:伊佐朗さんのおまじない我が家で定着しました
とりの:うちの母親にも教えた
mog:実家の母が「内側に撒く」に驚いてた。やっぱり地方によって違うんだな
『まあそんなわけだから! ちゃんと効くはずだから、もうオカルト系の相談はやめてくれよな!』
こけもも汁姫:はぁい
ドブ川きよし:(;_:)
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暗い部屋の天井を見つめたまま、渡嘉敷はぼんやりとその声を聞いていた。
「おまじないねえ……」
独り言が漏れた。冷笑的な響きが自分の声に混じっているのは分かっていた。所詮気休めだ。塩を撒いたところで冷蔵庫の奥からこちらを見ているあの視線が消えるわけでもない。線香を一本立てたところで天井のシミが広がるの止まるわけでもない。それは渡嘉敷が一番よく知っている。
なのに。
配信のアーカイブを遡って、伊佐朗の過去配信を見終わったあと、渡嘉敷はスマホを胸の上に置いて天井を見つめたまま考えた。
──試してみようか。
と。
バカバカしい。分かっている。そんなもので何かが変わるはずがないことも、百円の塩が
それなのに──なぜか「あの人が言うんだし」という気がしてならない。
推してるわけでもない。登録者数千人の、しょぼい配信者だ。そして、あの言動の軽さたるや! 渡嘉敷の見ているものをこの人は何一つ見ていないはずだ。
それでも聞いていると、なんとなく──大丈夫な気がするのだ。
不思議だった。