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大正元年十月十四日より同月二十二日に至る東京府北豊島郡掻塚村現地調査の記録より抜粋。筆者は同村の地誌および口碑採訪のため滞在せしものなり。
掻塚村の北方に広がる山林の一角には古くより「古き塚」と通称さるる小高き塚あり。
この地は中世以来の三昧すなわち葬地であり、行き倒れや刑死者、あるいは引き取り手なき無縁の骸を掃き寄せて投ずる掃き溜めの地なりきと伝えらる。
周辺の村々が死穢と名づけしものを残らずこの北の境へ押し付けたる歴史を有するためか、村内には土地そのものを忌避する空気が今なお濃厚に漂えり。
なかでも塚の周縁に残る生活上の禁忌は特異なり。
村の者は塚の近くに点在する岩の隙間や地表の裂け目を決して覗き込まず、また路傍の地面に落ちたる金銭や小物は「地に取られたる物」として決して拾い上げぬ習わしを厳格に守り続けてありき。
外来の者には単なる迷信あるいは小児の躾けと説明さるるも、古老たちの語り口には拭い難き暗き影が常に付きまとえり。
十月十七日、筆者は同村の旧家筋に連なる増田惣右衛門氏(八十四歳)の談取を行い、この特異なる禁忌の根底にある過去の凄惨なる出来事の輪郭を得たり。
増田氏が少年の頃に実祖父より直話として聞かされたる天保飢饉時の実話にして、その骨子は以下の如し。
天保八年丁酉の初冬、世にいう天保の大飢饉により掻塚村は極度の困窮に陥りたり。
連年の冷害にて蓄えの穀物は尽き果て、村人は草の根や松皮を齧り日ごとに餓死者を出す地獄の如き有様なりき。
飢えと寒さが極まりたる十一月のはじめ、隣郷の街道筋より一人の無宿人が村内へ迷い込み来たりぬ。
年恰好は四十ばかりの男にして着物は襤褸を極め、飢えと疫病のために骨と皮ばかりに痩せ衰えてありき。
男は道端の泥濘に倒れ伏し、通りかかる村人に弱々しく助けを乞えり。
しかし村には自らの家族を養う糧すらなく、何よりも他所より持ち込まるる疫病と死穢の蔓延を恐れたり。
村役人と数名の百姓らは評議の末、男の事切るるを待たず、まだ微かに息のあるうちに北の塚へ運んで始末せんことを決せり。
古き塚の北側斜面には、露出せる平石と土留めの切石との間に「無縁穴」と呼ばれる天然の岩隙が存在せり。
その隙間は高さわずか五寸(約十五センチ)足らず、大人の頭部が辛うじて潜り込める程度の暗き亀裂なりき。
昔時は無縁の遺骨を投げ入れたる場所とも伝えらるるも、当時は土砂の堆積して内部は極めて狭隘なる空間となれり。
百姓らは男をその場へ引き据え、冷たき岩の隙間へ向けて頭部より無理やり押し込みたり。
生きたるまま穴へ押し込める残酷なる所業なれど、彼らにとりては村を死穢より防衛するための已むを得ざる措置なりき。
頭部は石の奥深くへ押し込まれたるも、男はまだ絶命しおらず。
暗隙の冷気と激痛によりて正気を取り戻したる男は、隙間の奥より濁りたる呻き声を上げ、外に残されたる腰と両足を激しくもがき動かし始めたり。
泥を蹴り地を爪立てて、狭き岩の間より這い出でんと必死の抵抗を試みたるなり。
この光景を目の当たりにせる百姓らは激しき恐慌に陥れり。
一度穴へ納めたる穢れが再び村へ這い戻ることは、彼らにとりて何よりも恐るべき凶事なりき。
百姓らは男の這い出づるを阻止せんと、外に残されたる両足首を掴みて後方へ力任せに引き倒せり。
さらに近くに転がりおりたる樫の太木をもて、暴るる腰や大腿部を無我夢中に打ち据えたり。
頭部が狭隘なる岩角に楔の如く強く挟持されたる状態において、かかる乱暴なる牽引と打擲を加えたる結果は極めて無残なりき。
強き引張力と衝撃はすべて男の腰椎および股関節に集中せり。
間もなく鈍き破壊音とともに男の腰骨と大腿骨頭が脱臼折損し、下半身は皮膚の下にて骨格の砕け散りて異様なる形にねじ曲がれり。
凄まじき激痛と体幹への圧迫により男はその場隙間に頭を噛ませたるまま絶命せり。
百姓らは動かなくなりたる男の足の上に土と小石を被せ、何事もなかりしが如くその場を立ち去りたりという。
事後、村役人らはこの一件を厳重に秘匿せり。
息ある無宿人を無理やり岩隙に押し込み、あまつさえ足を砕きて撲殺せしめたる事実が公儀に知れなば、村方不行届きとして厳罰を免れざるが故なり。
役人らは男の死を単なる行き倒れの頓死として記録を偽り、村内には厳しき言論統制を布けり。
同時に役人らは再度の惨事を防ぎ村人らの胸に巣食いたる罪悪感と恐怖を鎮めんがため、新たな掟を定む。
塚の周縁の隙間を決して覗いてはならぬこと。隙間に頭を差し入るる者は地に足を砕かれて命を落とすこと。そして路傍に落ちたる物は地の底の死者に施したるものとして決して拾い上げてはならぬこと。これらなり。
哀しむべき私刑と事故の記憶は口外を禁じられたるまま年月の経過とともに風化せしも、戒めの骨子たる禁忌のみが独立して残り、後世に至るまで「落とし銭を拾うべからず」「隙間を覗くべからず」という強固なる因習として定着するに至れり。
増田氏の談は事実を順に追うのみにて、荒唐無稽なる怪異の要素を一切含まざる点において高き歴史的真実性を有するものと判断さる。
男の死因は怪異にあらずして、狭隘なる岩隙への物理的挟持と動転せる百姓らの過誤による骨折およびショック死なり。
背景には中世以来の葬地という掻塚の特殊なる地域性と、天保飢饉の極限状態が生み出したる共同体の防衛本能が存在せり。
人知れず闇に葬られたる悲惨なる出来事の記憶が、時間の経過とともに民俗的禁忌へと純化していきし好例といえよう。
なお本件の現場となりし古き塚の北側斜面は明治以降の開墾と土砂崩落により地形を変じ、往時の無縁穴の痕跡を留むるものは皆無なりき。
(大正元年十月十九日記)
【現代語訳】
大正元年(一九一二年)十月十四日から同月二十二日にかけての、東京府北豊島郡掻塚村における現地調査の記録より抜粋。筆者は同村の地誌および民俗口伝の聞き取りのために滞在したものである。
掻塚村の北方に広がる山林の一角には、昔から「古き塚」と呼ばれる小高い塚がある。
この地は中世以来の三昧すなわち葬地であり、行き倒れや刑死者、あるいは引き取り手のない無縁の遺骸を掃き寄せて投げ込む掃き溜めの地であったと伝えられる。
周辺の村々が死の穢れと名づけたものを残らずこの北の境界へ押し付けた歴史を持つためか、村内には土地そのものを忌み嫌う空気が今なお色濃く漂っていた。とりわけ塚の周りに残る生活上の禁忌は特異である。
村の者は塚の近くに点在する岩の隙間や地表の亀裂を決して覗き込まず、また道端の地面に落ちた金銭や小物は「地に取られた物」として決して拾い上げない習わしを厳格に守り続けていた。外から来た者には単なる迷信あるいは子供の躾けだと説明されるが、古老たちの語り口には拭い切れない暗い影が常に付きまとっていた。
十月十七日、筆者は同村の旧家筋に連なる増田惣右衛門氏(八十四歳)から聞き取りを行い、この奇妙な禁忌の根底にある過去の凄惨な出来事の輪郭を得ることができた。
増田氏が少年時代に実の祖父から直に聞かされた天保飢饉の頃の実話であり、そのあらましは以下の通りである。
天保八年(一八三七年)の初冬、世にいう天保の大飢饉によって掻塚村は極度の困窮に陥っていた。連年の冷害によって蓄えの穀物は底を突き、村人は草の根や松の樹皮を齧り、日ごとに餓死者を出す地獄のような有様であった。
そうして飢えと寒さが極まった十一月のはじめ、隣町の街道筋から一人の無宿人が村内へ迷い込んできた。歳の頃は四十ばかりの男で着物はぼろぼろであり、飢えと疫病のために骨と皮ばかりに痩せ衰えていた。
男は道端の泥水の中に倒れ伏し、通りかかる村人に弱々しく助けを求めた。しかし村には自らの家族を養う食料すらなく、何よりも外から持ち込まれる疫病と死穢の蔓延を恐れた。村役人と数名の百姓たちは相談の末、男が息を引き取るのを待たず、まだ微かに息のあるうちに北の塚へ運んで始末することを決めた。
古き塚の北側斜面には、露出した平石と土留めの石垣との間に「無縁穴」と呼ばれる天然の岩の隙間が存在していた。その隙間は高さわずか五寸(およそ十五センチ)足らずで、大人の頭部が辛うじて潜り込めるほどの暗い裂け目であった。昔は無縁仏の遺骨を投げ入れた場所とも伝えられるが、当時は土砂が積もって内部は極めて狭い空間になっていた。百姓たちは男をその場へ連れて行き、冷たい岩の隙間へ向けて頭から無理やり押し込んだ。
生きたまま穴へ押し込めるという残酷な行為ではあったが、彼らにとっては村を死穢から守るためのやむを得ない処置であった。
頭部は石の奥深くへ押し込まれたが、男はまだ死んではいなかった。岩の隙間の冷気と激痛によって意識を取り戻した男は、隙間の奥から濁った呻き声を上げ、外に残された腰と両足を激しくもがき動かし始めた。
泥を蹴り地を爪立てて、狭い岩の間から這い出ようと必死の抵抗を試みたのである。この光景を目の当たりにした百姓たちは激しいパニックに陥った。一度穴へ納めた穢れが再び村へ這い戻ることは、彼らにとって何よりも恐ろしい災厄であった。
百姓たちは男が這い出るのを阻止しようと、外に残された両足首を掴んで後方へ力任せに引き倒した。
さらに近くに転がっていた太い樫の木を手に取り、暴れる腰や太ももを無我夢中で打ち据えた。頭部が狭い岩の角に楔のように強く挟まれた状態において、このような乱暴な牽引と打撃を加えた結果は極めて無残であった。
強い引っ張りの力と衝撃はすべて男の腰椎および股関節に集中した。やがて鈍い破壊音とともに男の腰骨と大腿骨頭が外れて折れ、下半身は皮膚の下で骨が砕け散って異様な形にねじ曲がった。凄まじい激痛と体への圧迫によって男はその場隙間に頭を挟まれたまま息絶えた。百姓たちは動かなくなった男の足の上に土と小石を被せ、何事もなかったかのようにその場を立ち去ったという。
事件の後、村役人たちはこの一件を厳重に隠蔽した。
息のある無宿人を無理やり岩の隙間に押し込み、あまつさえ足を砕いて殺害した事実が幕府領主に知られれば、村の監督不行き届きとして厳罰を免れないからである。役人たちは男の死を単なる行き倒れの突然死として記録を偽り、村内には厳しい口止めを命じた。
同時に役人たちは再び同じような惨事が起きるのを防ぎ、村人たちの胸に巣食った罪悪感と恐怖を鎮めるために、新たな掟を定めた。
塚の周りの隙間を決して覗いてはならないこと。隙間に頭を差し入れる者は地に足を砕かれて命を落とすこと。そして道端に落ちた物は地の底の死者に施したものとして決して拾い上げてはならないこと。これらである。
悲惨な私刑と過失事故の記憶は口外を禁じられたまま年月の経過とともに風化していったが、戒めの骨子である禁忌だけが独立して残り、後世に至るまで「落とし銭を拾うな」「隙間を覗くな」という強固な因習として定着するに至った。
増田氏の語りは事実を順に追うのみで、荒唐無稽な怪異の要素を一切含まない点において高い歴史的真実性を持つものと判断される。男の死因は怪異によるものではなく、狭い岩の隙間への物理的な挟まりと、動転した百姓たちの過ちによる骨折およびショック死である。
背景には中世以来の葬地という掻塚の特殊な地域性と、天保飢饉の極限状態が生み出した共同体の防衛本能が存在していた。人知れず闇に葬られた悲惨な出来事の記憶が、時間の経過とともに民俗的な禁忌へと純化していった好例といえよう。
なお本件の現場となった古き塚の北側斜面は、明治以降の開墾や土砂崩落によって地形が変わり、当時の無縁穴の痕跡を留めるものは何一つ残っていなかった。