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少し前の話になる。
山の朝は遅い。尾根を覆う杉の梢がようやく白み始めても石段の下から湧き上がる霧が境内を低く這い回り、社務所の北側にある台所には昼前まで薄暗がりが居座り続けるのだ。
貴世江は蛍光灯を点けた調理台の前に立ち、みかん箱ほどの大きさの段ボールを広げていた。底板の合わせ目に茶色い布ガムテープを貼って手のひらで強く押さえつける。
箱の脇には昨夜のうちに棚から出しておいた乾物の袋がいくつも並んでいた。地元で採れた肉厚の干し椎茸に切り干し大根の大袋。高野豆腐の箱が二つと乾燥わかめに芽ひじき、それから日持ちのする棒ラーメンの束。レトルトのカレーや缶詰ばかりでは健康に障るだろうと考えた貴世江は、こうして伊佐朗に毎月なにかしら食料を送っている。
そうこうしているとm廊下の奥から乾いた足音が近づいてきた。台所の暖簾がわずかに揺れ、朝拝を終えたばかりの眞原京子が顔を出す。京子は白い小袖に緋色の袴を着けた装束のままで、手には祓串の箱を抱えていた。
「おはようございます。朝のお勤め、終わりました」
「ああ、京子ちゃん。ご苦労さま、今お茶を淹れるからお座敷で待っていてちょうだい」
貴世江が急須に熱い湯を注いで湯呑みを二つ盆に載せ、六畳の座敷へ入ると京子はすでに座布団の手前で背筋を伸ばして正座していた。卓袱台に湯呑みを置き、自分も向かい側に腰を下ろす。湯気の立つ番茶を一口すすってから膝の上で手を重ねる。
「大変な事を頼んじゃってごめんなさいね」
貴世江が頭を下げると、京子は緋袴の膝をわずかに揺らして静かに首を振った。
「いえ、良いんです。私も彼のそばに居たいとおもっていますし」
「そう言ってくれると嬉しいけれど。でも家同士の事で、京子ちゃんには迷惑をかけていると思うのよね……。それに伊佐朗もいつまでたってもふらふらとしてて……」
眞原の家は代々この社に巫女を出してきた古い家筋である。麓の集落でも子供の数が減り古いしきたりなど誰も顧みなくなった今の時代にあって、京子は高校を出た年から当然のように毎朝の神事と境内の掃除を欠かしたことがなかった。巫女の鑑というやつだ。
一方で社の跡取りであるはずの伊佐朗は、上京したきり盆にも正月にもろくに顔を見せない。
「伊佐朗くんはああいう気質ですから仕方がありませんし、巫女として傍に侍る事に苦はありませんから……」
京子は湯呑みに指を添えたまま少しだけ目を細めて微笑んだ。
貴世江は苦笑を返す。これほどまでに立派な婚約者がいるというのに、配信者になるというのはそれよりも魅力的な事なのだろうか? ──そんな疑問が頭をよぎる。
「あの子もねえ、もう少し自覚があればいいのだけれど。でも見ざる、聞かざる、言わざるじゃないけれど、そういう鈍感さが必要なのかもしれないわね。余りカンがよすぎると
「掻塚町についての来歴はある程度調べてあります。あるいは力を借りる事になるかもしれませんが……」
「ええ、そうね。その時はお金も人も出すから遠慮なく言ってちょうだい」
京子が深く頭を下げる。
ああそうそう、と貴世江は「あの子には私が頼んだって言わないでね」とつけたした。
京子はわずかに唇の端を緩める。
「言っても、あの人は気にしませんよ」
「……それもそうね」
貴世江は苦笑し、残っていた冷めた番茶を飲み干した。
それから三十分ほどして京子は社務所の奥の部屋で巫女装束を脱ぎ、仕立てのよい黒一色のワンピースに着替えて出てきた。白い小袖を脱ぎ捨てると先ほどまでの神職めいた静けさが一変し、都会の雑踏へ紛れ込んでもかえって目を引くような妖しい落ち着きが立ち昇る。足元には小さなボストンバッグが一つ置かれていた。
「向こうの部屋は、もう手配が済んでいるの? お金は足りたかしら」
「はい。彼の住んでいる町からは少し離れたところに借りました。同じ部屋に住む──というのは彼がきっと嫌がりますし。お金はありがとうございます、やっぱり都内のお部屋はどこも高いですね」
「気にしないで頂戴。生活費も仕送りするからね。ご両親からも送られると思うけれど、やっぱりこちらの家としても何かさせてほしいから。あと──あの子の気質だけれど、やっぱり生来の気質でしょうねえ。どんなものに対しても距離を取ろうとするのよ。あの子自身のモノというよりは、あの子を選んだ御柱様の気質なのだろうけれど」
御柱様か、と京子は内心やや複雑な想いを抱いた。
眞原京子としてではなく、京子一個人としては思う所が色々とあるのだ。まつろわぬ神に選ばれた事は名誉な事かも知れないが、それは果たして人として幸せなのだろうかと思わなくもない。神の悪戯に巻き込まれて不幸な末路を迎えた者など古来から腐るほどいる。
ただ、と京子は思った。
──伊佐朗君は昔からあんな感じなのよね。
そう、恐山伊佐朗という青年は適当でちょっとだらしなく、しかし誠実な部分もあり──何というか危機感が薄い。それはある日突然そういう気質に変容したわけではなく、京子が知る限り幼いころからずっとそうだった。
善きモノにせよ悪しきモノにせよ、憑いたとなれば只人の精神が無事で済む事はまずない。京子もこれまで狐だの狸だの狗だの、時には人だのが憑いた依頼人を祓う事があったが、いずれも精神に変調を
ならば伊佐朗には実は何も降りてはいないのではないか──そんな事を考えなくもないが、京子とて巫女である。分かるのだ、伊佐朗が普通ではない事が。伊佐朗が神聖で荘厳な空気──陳腐な言い方をすれば神気のようなものを纏っていることが肌感覚として理解できる。その気配の主がまさしく自身が奉るべき神に他ならないと京子はおもっているが、実際の所はいまいち確信がもてない。
──まあでも、変なのが寄ってきても困るから。
神なる存在といえども──いや、そういった高次の存在だからこそ周囲の環境には極めて影響されやすい。
神というものは本来人間のような自我を持たない無色透明の霊威に近い。だからこそ神社は幾重もの鳥居や玉垣で境内を区切り、注連縄を張って俗世の死や血の穢れを厳しく遠ざける。純度が高ければ高いほど周囲の淀みに直接触れれば清水に墨を一滴垂らしたようにたちまち変質してしまうからだ。古来より穏やかな和魂がわずかな触穢や不浄をきっかけに猛々しい荒魂へと転じ、土地ごと焼き払うような祟り神と化した例は枚挙にいとまがない。神とは置かれた場の気や意味づけをそのまま吸い上げてしまうスポンジのような存在なのである。
ましてや清浄な奥山の社殿を離れて生身の青年の肉体を依代とし、俗世の真ん中に身を置いているとなればなおさらだ。これから彼が暮らす掻塚という町は調べれば調べるほど中世以来の死穢と無縁の亡骸が幾重にも掃き寄せられた吹き溜まりの土地であった。いかにまつろわぬ御柱様であろうとそのような泥濘のただ中に無防備で居続ければ土地の瘴気に当てられて神気が濁るか、あるいは周囲の怪異を過剰に刺戟してとんでもない形で跳ね返りかねない。
だからこそ器である彼の身の回りに最低限の清浄な境界を保ち、余計な不浄が触れぬよう外側から祓い整える巫女の要があるのだと京子は理解していた。彼女が上京するのはそういった理由である、が。
まあそれはそれとして──
──伊佐朗くんに変な
そんな年頃の思いも、ないではなかった。