◆
年が明けて三日目の朝、掻塚のビジネスホテルの窓から見下ろす街並みはどこまでも穏やかだった。
正月休み特有の静けさに包まれた通りには近所の神社へ初詣に向かう家族連れの姿がちらほらと見え、コンビニの駐車場には配達のトラックが何事もなく横付けされている。かつてこの部屋のユニットバスを満たしていた湿った風も深夜のドアを不意に叩くノックの音も、いまや綺麗さっぱりといったところだ。怪異はすっかりと収まっている。
湯を沸かしたスティックコーヒーを一口すすり、遠国春彦は机の上に置いたスマートフォンを手に取った。画面に表示された着信履歴を確認し、指先で折り返しの発信ボタンを押す。
二度三度と乾いた呼び出し音が鳴ったのち、通話が繋がった。向こう側からは山あいの風の音か微かな衣擦れのような気配だけが伝わってくる。
「もしもし、遠国です。新年のご挨拶が遅れまして失礼いたしました」
遠国は椅子の背もたれに体を預け、落ち着いた声で口火を切った。
「ええ、街の様子をご報告しようと思いましてね。結論から申し上げますと──ええ、策は覿面でしたよ」
受話器の向こうの沈黙を確認し、遠国はわずかに口元を緩める。
「昨年末から仕掛けていた例の試みですがね。こちらの想像以上の成果を上げています」
遠国は窓の外、冬の陽光を反射する住宅街の屋根へ視線を投げた。やけにギラついているのはどこの家も屋根にソーラーパネルを設置しているからだ。風情もクソもないその光景に、遠国は口の
「そこへ加えて、彼が広めているあれやこれが後押しとなった形ですね。……ところで行政が動いたのは……ああ、やはり貴女の手筈でしたか」
遠国はコーヒーカップを持ち上げ、湯気を眺めながら小さく笑う。
「悪くない策でしたね。長年この土地に澱のように沈殿していた暗い気配は、いまや見る影もなく薄まっておりますよ」
得意げに言う遠国だったが、返ってきた反応は芳しくない。
遠国はコーヒーカップをソーサーに戻し、小さく肩をすくめる。
「手厳しいですね。伝統や格式を重んじるお立場からすれば、いささか下品で不謹慎なやり口に見えるかもしれませんがね」
受話器から返る沈黙を受け止めながら、遠国は淡々とした口調を崩さずに反論を続けた。
「ですがね、古式ゆかしい祭祀や厳しい禁忌で縛ろうとすれば人間側が余計に土地の澱を意識してしまう。畏怖や緊張こそが怪異にとって一番の栄養ですよ。真面目に向き合えば向き合うほど向こうの思う壺だ」
遠国は指先で窓枠の桟を軽く叩く。
「むしろ玩具にして笑い飛ばし、三流の安っぽいネタにまで貶めてしまうことこそが現代における最も安全な解体作業なのです。ええ、根本的な解決になっていないと仰りたいのでしょう。ですがそもそもこの規模の土地の因縁を根絶やしにするなど土台無理な相談でしょう。無害な笑い話として消費されやがて忘れ去られていく以上の着地点が他にあるとお思いですか?」
受話器の向こうから、冷ややかな息遣いとともに渋々と引き下がるような気配が伝わってきた。納得には程遠いが、これ以上言葉を重ねても詮無いと判断したのだろう。
遠国は口元に薄い笑みを浮かべ、受話器を持ち直す。
「ご心配いただき痛み入りますよ。ですがね、こう見えて私も一通りの祓いの作法や理屈は心得ているつもりです。それに私が街へ吹き込んだのは最初から根も葉もない出鱈目ばかりですからね。八尺様にしろメリーさんにしろ、どこかの誰かが拵えた実体のない作り話に過ぎません。……まあそこまで心配されるようでしたら、これ以上はかき混ぜないようにはします。他に手立てがないわけでもありませんから……」
通話を終えると、液晶画面が暗転して遠国の顔をぼんやりと映し出した。スマートフォンを机の上に放り出し、やれやれと首を左右に振る。
「……古い社家の人間というのは、いつの時代もこれだから敵わないな」
遠国は窓際に立ち、ぬるくなったコーヒーを喉へ流し込んだ。
神や祟りを恐れ敬うあまり、現代の合理的な思考についてこられない。怪異の輪郭を肥大化させているのはむしろあちら側の過剰な信仰心ではないか。
「ネットの与太話を真に受けるとは、彼女も焼きがまわったかな」
実体のない影法師に怯える連中の滑稽さに、遠国は小さく嗤った。街は現に静まり返り、自らの手腕は完璧に機能している。余計な心配などただの杞憂に過ぎないのだと遠国は確信していた。