よく兄と比べられた。よく兄の話を聞かされた。
地元では英雄譚のように語られ、母校では兄の死を未だ悲しむ教師も居た。
生きていればきっと、素晴らしい人間になっただろうに、なんて。
だからあなたも、どうかそんな風に生きて欲しい、なんて。
『どうでもいいんですけど、そんなこと』
死んだ家族を想うことは悪いことではないし、好きにやればいい。
死んだ友人を語るのも、一度や二度なら構わないし、別にいい。
けれど、自分にその代わりを押し付けるつもりならば話は別だ。
善人を押し付けられて、便利な小間使いにされるのなんて死んでも嫌だった。
『私にそんなものを押し付けるな』
だから、それを否定し、自分の足で生き抜くのが強さだと信じてた。
誰かにこき使われていた兄とは違い、自分のために生き抜くんだって。
それが私にとっての意趣返しで、私にとっての正解で。
『うちの正彦は、とっても母親想いのいい子だったんです。誰よりも優しくて、誰よりも努力家で。私が今生きてるのも、あの子のおかげです。だから、どうか皆さん、仏になったあの子のことを忘れないであげてください』
だから、母親が嫌いだった。
ことある毎に私の兄の名前を出して、涙をハンカチで拭って。
最初は悲しくて泣いているんだと思ってたけど、何度も見れば嫌でも気づく。
母親は、本心から息子の死を悲しんで泣いているわけじゃなくて。
『母さんは。息子を出汁に使って、恥ずかしくないの?』
『あら、そう見えたの?随分と賢く育ったのね』
十三回忌が終わった日の夜、私はつい見かねて、母親にそう尋ねた。
思ってもいないことをペラペラしゃべって、お涙頂戴の言葉をつらつらと並べて。
同情させて気を引いて、自分は何も労せずに、子供想いの母親だなんて印象付けて。
そんな母親が、酷く惨めで、うざったいほど癪に障って。大嫌いだった。
『誤魔化さないの?』
『誤魔化さないわよ。ちゃんと自分で気づけたってことは、ある程度社会性を身に付けられたってことだもの。余計なことを周りに口走って、後先考えずに行動しない程度の分別は身に付けてるでしょ?もう中学生だものね、あなたも』
『なら、ちゃんと答えてよ。母さん、なんでそんな風に、死んだ人の名前を出すの?なんでそれで、他の人から同情を買って、よくしてもらうの?そんなみっともないことやめてよ。恥ずかしいし、惨めでしょ。詐欺師みたい』
『嘘は言ってないでしょ?正彦は出来の良い息子で、誰からも慕われていた。あの人達はそれをちゃんと覚えてただけよ。恩もあるし、情もある。あの子が残してくれたものを、私が使ってるだけ。何か問題でもあるの?』
『……なんでそこまでして、誰かに縋るような生き方するの』
母は少しの間きょとんとして、すぐに笑いだした。
まるで私が変なことを言ったみたいに、口元を抑えて、おかしそうに。
それがますます私をいらだたせて、思わず声を荒げてしまって。
『笑わないでよ!おかしいのは、母さんでしょ!?』
『アハッ、アハハ!ああ、ごめんね?そっか、あなたはそう言うのね。そっか、そっか。奏は立派に育ったわねぇ。そんな風に言えるくらい、胸を張って生きてたんだ。誇れるように生きたんだ。育て方を間違えなかったみたいで安心安心』
『……なにそれ』
クスクス、クスクスと。
上品に笑う母親を前にすると、私が間違っているように見えて、酷く屈辱的で。
この人はそういう雰囲気を作るのが上手かったし、私はそう言うのが下手だった。
だからせめて、飲まれないようにと、息を吸い込もうとして。
『縋ってるのは、あなたの方じゃない?』
『え?』
冷たい言葉だった。突き放すような言葉だった。
さっきまでの取り繕った風ではない、母親としてではない言葉だった。
怯んだ私を見て、母はにっこりと笑みを浮かべて。
『情けない、恥ずかしい、惨め。きっと私のやり方は、世間様からそう言われる類のものなんでしょうし。かっこよくて、強くて、誇りある。あなたみたいな価値観は、そう生きていければ気持ちがいいものなんでしょうね?』
けれど、と。
薄く閉じられた目を開いて、私と向き合って。
母は初めて、私を叱咤するように、笑顔を消した。
『じゃあ、あなたがそう生きれるようになったのは何故?』
『……何故って』
『奏は、色んなものを持って生まれたわね。健康的な身体も。食うには困らない家庭も。お小遣いをくれる親も。旅行に連れて行ってくれる家族も。あなたのお兄ちゃんには無かったものね?本当に、いい環境で育ててあげられた』
『……そんなの、今は関係──』
『だから誇れない物を切り捨てる』
ぴしゃりと。
私の言葉を遮るように放たれたその一言に。
私は何かを言い返そうとして、何も返すことが出来なかった。
そんなこと無いと、そう言いたかったはずなのに。
『ああ、勘違いしないようにね?それは何もおかしいことじゃない。むしろ感心しているし、頑張ってと応援したくなる。けどね?お母さん、それを受け入れるわけにはいかないの。お母さんがこれを出来なくなると、生きるための武器が無くなっちゃうからね』
『……なに、武器って』
『健康な身体。理解のある父親。やりたいことをやれる財力。そして自由な環境と、それによって培われた品のある人格。それが、あなたの武器。じゃあ、そのどれもを持たなかったお母さんの武器はなんでしょう?』
自分の胸に手を当てて、艶めかしく微笑んだ。
見たくもない。母親の女としての顔だった。
多分、私にとって尊敬すべき父親を、上手く落とした女の顔。
それを臆面もなく私に見せて。
『生まれつき脆弱で。両親からも見捨てられたこの身体はね。本来なら、ただのハンデだった。けど私、顔は整ってくれてたの。弱さが儚さに見えるような。青白い肌が、純白に見えるような。私を引き取ってくれた人が──思わず、手を伸ばしたくなるような』
その言葉の意味全てを理解できたのは、もう少し大人になってからだった。
けれど。理解できずとも、その人の言葉には、気圧されるような何かがあった。
思わず固唾を飲んでしまうような、不気味な魅力があった。
『不気味に見えた?ね、凄いでしょ?ただの不幸自慢でも、喋り方一つで、容姿一つで、こんなに変わっちゃうものなのよ。正彦もそう。あの子は私なんかよりもよっぽど上手だった。可哀想だけじゃ、簡単に人は動かないものね。あの子は、助けたい存在であり続けられた』
『……助けたい存在』
『ええ。誰かのために頑張れる子だって、皆そう思っていた。だからあの子が苦しんでいる時、皆励ましの言葉を投げてくれたし。助けの手を差し出した。ええ、立派な、自慢の息子だった。良い大学にも進学が決まった。そのおかげであなたのお父さんとも知り合えた』
初めて、母の顔が柔らかくなったように見えた。
それが本当の顔かどうか、私には見抜けなかったけれど。
『いい?奏。あなたの今の幸福は、あなたが嫌うような。情けなくて、恥ずかしくて、惨めなやり方の上に成り立ってる。私が生きてるのは、生き汚く足掻いたからだ。私があなたを産んだのは、正彦がいい子であり続けたからだ。その上で、あなたは同じことを言う?』
『────私、は』
謝ろうかと考えた。
頭を下げて、ごめんなさいって。
何も知らずにあんなこと言って、すいませんって。
けれど。母の。その人の目は。
『同じことを。言います』
『よろしい』
頭の上に、ポンと掌が載せられた。
初めて、母に頭を撫でられたんだと分かった。
……いや、多分違うのだろう。
初めて、私が。母にそうさせることを、許したんだろう。
『それじゃあもう。あなたの嫌うやり方をやめるわね』
『……え?いや、そんなあっさりと……』
『強く生きたいんでしょ?なら、親が足を引っ張るわけにもいかないじゃない』
訳が分からなくなって、少しの間固まった。
あれが、母の生き様だと思った。あれが、母の心の底からの主張なんだと思った。
それは決して間違いではないだろうし。私の答えが正解かどうかも分からない。
けれど、何故だか……母は、その答えを聞いて満足したようで。
『代わりに、一つだけ宿題を出すわね。気にいらないことが一つだけあったから』
『……気にいらないこと?』
『あなたが私の。私たちのやり方を嫌った理由』
きょとん、と。
今度は私が、母の言葉に首を傾げた。
『あれ、多分正確じゃないわよ?私も似たようなこと考えたことあるけれど。あなたと同じように間違えて、それでようやく答えに辿り着いたもの』
『……間違ったものって?』
『あの子に対する気持ちの答え。私はそれを、間違えた。あの子が事故にあって、死んじゃって。ようやく、本当の答えに辿り着いたけど。あなたにはまだまだ時間があるもの』
また笑顔を浮かべたけれど。
今度は少し、普段と違うような笑みだった。
悪戯っぽい、少女のような。
母が浮かべるには、少し違和感のある笑みだったけど。
『ヒントをあげるとするなら。親子の関係になんか縛られず、人間として考えること。期限は無制限だけど……それまでは、私を親として見ることは禁止ね』
『……お母さんって、素はかなり変人だよね』
『そうなの?初めて知ったかも』
母として見ない分には、可愛らしい笑顔だった。
『……じゃあ、まあ。考えてみます』
『ええ。頑張りなさい、奏』
私は、情けなくて、惨めで、恥ずかしい母が嫌いだ。
散々比べられて、無駄に人が良くて、母の自慢の息子だとか言う兄が嫌いだ。
けれど、じゃあその二人は、人間的に嫌いかって言うと……。
『……人間って、難しいなぁ……』
結局、その宿題を解くのに。
三年以上、かかってしまった。
◆◆◆
「というわけで。来週辺り、友達連れて実家帰りますね!」
『何がというわけでよ。いきなり電話してきて、まず言うことがそれ?』
「いいじゃないですか別に。長らく帰らなかった娘の顔、見たくないんですか~?」
『おいコラ。まだ禁止は解けてないわよ』
「おっと失礼。まああれですよ。かくかくしかじかで」
『ちゃんと話す』
「ひぃん」
兄の墓を見に行くということで、一応の電話を実家に送ることにした。
あの人は相変わらず苦笑しながら、私の頼みを引き受けた。
引き受けたったら引き受けた。拒否権など初めから用意していないのだ。
『……あんた、彼女持ちに告白するって。ロックなことしてるわねぇ』
「仕方ないじゃないですか。彼女さんが特に関係の無い人なら普通に諦めて終わりだったのに、何やら兄の死に関係ある人みたいなんですから。あなたの宿題の一助になると思って、恥をかくこと承知で突っ込んだんですからね?」
『思い切りがいいわねぇ、ほんと。まあいいわ。で?宿題、解けた?』
「……分かるもんなの?」
『あんた、私と似てるしね』
「悪質な誹謗中傷だ!」
『大概失礼ねあんたも』
まあ。正直なところを言うと、そうなんだろうとは思ってた。
私もきっと、同じ環境ならこの人と同じことをして、生きたんだろう。
そうならなかったのは、この人や、いろんな人が作り上げてくれた土台があるからで。
私が特別だとか。私が特別強いだとか。そういうわけではないのだ。
「私ね。初めて、家族以外を嫌いになったの」
『……そう』
「色々理由を付けて。色々抱えこんで。本当は特別な理由なんて無く、誰かのために身を投げうつような人が。何かに縛られるように、それを成す人が。なんでか酷く、嫌いになったんです」
『でしょうね』
「そのなんでも知ってますよアピールやめません?」
『なんでも知ってるからだけど?悔しかったら予想外の言葉をぶつけてみなさい』
「おたんこなす!」
『もう少し考えなさいよ』
おのれなんでも知ってる風に話して……!
実際、大体全部理解しているんだろうからたちが悪い!
「……まあ。その理由が、ようやく。自分の中で整理がつきまして」
『そ。言ってみなさい?』
兄のことを知った。兄が出せなかった悲鳴を想像した。
誰にも言わず、誰にも言えず。母にすら伸ばせず消えた手があった。
知れば知るほど、私の兄が、どれだけ自分を騙しているかを知っていって。
兄の人生が、どれだけ幸せから遠ざかり、救いの無かった物かを知った。
「私。お兄ちゃんのこと」
だから。
ずっと。
「悔しかったんです。手を、差し伸べられないのが」
酷く傲慢で、酷く無意味な怒りだなんてことは分かってる。
それでも、知ってしまった以上はどうしようも無くなって。
私のために命を張った兄に、今の私は何も返せないことが、悔しかった。
だから、やり場のない小さな悔しさを、怒りにして叫ぶのだ。
「なんで生きててくれなかったんだよ、このやろー!って」
『……ップ、あはは!あんたは、ほんとに』
「似てますよ。お母さんの娘ですもん、私。だから、私があの人に色々構って、ギャーギャー喚くのは。ただの自己満足だ。手を差し伸べられなかった兄と、あの人が重なったから。ただそれだけの理由で、自分勝手に暴走して。まったく、誰に似たんだかですね!」
『それ、普通親が言うもんだからね?ふてぶてしくなったわねぇ、ほんと』
「うへへ。けど、お母さんも人のこと言えないでしょ」
お母さんが私のことを手に取るようにわかるように。
私も、お母さんのことがなんとなく分かるようになってきた。
だからきっと、お母さんが抱えるものも、同じなんだろう。
「悔しかったから。意味を残そうとしてたんでしょう?ずっと」
『あんな死に方に意味なんて残ってないっての。まあ、物理的な意味なら一つだけ残ったけれど。それ以外は、私がでっちあげたものでしかない』
「意味を作った、の方がいいかもね。結局のところ、お母さんもお兄ちゃんのことが大好きだったわけだ。……もう少し親として分かりやすい方がいいんじゃないですか?私ですら、あなたのことを全然理解せずに育っちゃったんですけど」
『詐欺師の言葉を誰が信用するって?』
「あーはいはい。そうですよね、自分で辿り着かなきゃ信用するもんもしないですよね。不器用が過ぎるというか、なんというか」
ろくでもない親だと思う。間違いなくいい親ではないと思う。
美談にするには悪辣だし、打算的だし、気づくのが遅すぎるし。
けれど。それでもまあ、母親としてではなく、人間として見れば。
変な期待を掛けさえしなければ。こんなもんじゃないだろうか?
「それじゃ!お母さん、お泊りの準備よろしくお願いしますね!」
『はいはい。急に甘えてくるあたり、現金よねあんたも……』
「お母さんの子供ですので」
『なーんにも言えないや。お寿司くらいは用意して待っててあげるわね』
「わーい!」
ケチな母にしては珍しく、豪勢だ!
『今すっごく失礼なこと考えた気がするわね?』
「申し訳ございませんでした」
訂正、お母様はとても気前の良い方です!
『ったく。で?好きな人のことは譲ってあげるの?』
「は?そんなわけないじゃん」
『でしょうね』
それとこれとは話は別。
惚れたんなら全力で、掠め取るつもりで突っ込もう。
私が本気にならなきゃあの人動かないだろうし、それに何より。
「わざと負けるなんて。情けなくて、恥ずかしくて、惨めでしょ?」
『……強くて強情な子に育ったわね、奏は』
呆れるような声に、けらけら笑って返事を返す。
あとは他愛もない世間話を続けて、通話を切るだけ。
そう思っていたのだが。
『ところで。その加奈って子、正彦を轢いた人の娘なのよね?』
「そうだけど……やっぱり思うところあるの?」
『無いとは言えないけど。……そっか。その子が、正彦に似てるのか』
「顔とかは全然似てないよ?ただ、」
お母さんは、少しだけ考え込むように押し黙った後。
愉快そうな声で言った。
『ねぇ、奏。あなた、生まれ変わりって信じる?』
「……何、急に?」
『フフッ、こっちの話。その子とも、少しだけ話をしてみようかしら。きっと、面白いことを聞けるでしょうから』
お母さんは、相変わらず。
楽しそうに。されど何処か、懐かしそうに笑った。