三番目に出来た子供だった。
初めて動いた子供だった。
初めて強く生まれてくれて、初めて息をしてくれた息子だった。
『おめでとうございます!元気な赤ちゃんですよ!』
誰か、別の親の子供と間違えているのではないかと思った。
最初に産まれた子も、二番目に産まれた子も、産声なんて上げなかったのに。
なのに、そんな、都合のいい奇跡なんてあるんだろうか?
『凄いですね、こんなに元気な赤ちゃん見たの初めてですよ。他の赤ちゃんの二倍くらい大きな産声で……きっと立派なお子さんに育ちますよ!』
産まれてから数日経っても、まだ半信半疑で、困惑して。
誰も見舞いになんて来ない病室の中で、看護師達はいつも、赤ん坊がどれだけ元気なのだとか、これならば心配ないだとかの話を散々してきて。
そのどれもが嘘臭く聞こえて、だんだんと呼吸が荒くなって。
『本当に驚きました。お母さん、この子は将来スポーツ選手にだってなれますよ。生まれてからまだ四か月しか経っていないのにもうハイハイが出来るような子は久しく見ます。身体の使い方が上手い上、発達が早い。羨ましいくらいです』
退院して、家で育てるようになっても、まだ違和感があった。
よく飲んで、よく食べて、私なんかとは真逆の生き方だった。
本当にこの子が自分の子供なのか疑うくらいに、私とは違う生き物だった。
軽々と木に登り、川で泳ぎ、徒競走ではいつも一番を取っていて。
『母さん、俺学校で一番速かったよ!褒めて褒めて!』
『母さん、しんどくない?俺がおんぶしてあげようか?大丈夫だよ、母さん軽いし!』
『母さん、料理作っといたよ。いつもしんどそうだから、今度からは俺に任せてよ!』
憎たらしいくらいに出来た息子だった。
真っすぐで、誠実で、そのせいで傷つきやすくて、それでも善意を捨てはせずに。
私とは真反対の、誰よりも強くて、誰よりもバカ正直で、誰よりも損しやすくて。
『俺さ。実のところ言うと、しんどいなって思うこと、何度もあったんだ』
だからあの日、一緒に病院に向かう途中で話したことに。
私は、頭がぐらりと揺れるくらいの衝撃を受けてしまって。
『そんなこと思っちゃダメだって分かってるけど。けどやっぱり、俺も他の人達みたいに遊んだり、楽したり、皆みたいに自分だけの時間も沢山ったらよかったのに、とかさ。今でも、あの時もっと遊びたかったな、って思うことはあるし』
『……ごめんね、正彦』
『けどさ、母さん。俺、頑張ってきてよかったよ』
少しだけ悪戯っぽく笑うその子の顔に、何処か、鏡で何度も見た自分の面影を重ねた。
毎朝笑顔の練習をする前に見る、自分の本来の笑い方と、その子の笑顔がどこか似ていて。
ずっと、実感が持てなかったその事実を、今更ながらに実感して。
『俺、妹が欲しかったからさ。母さんが再婚して、いい人を捕まえて。新しく妹が出来るって聞いて。報われた気持ちになっちゃったんだ。だって母さんがその人と知り合えたの、俺のおかげなんだろ?つまり俺の実績!』
『フフッ。けど、ちゃんと産まれるかどうかは、分からないわよ?あなたのお兄ちゃんも、お姉ちゃんも。私のお腹の中で眠っちゃったんだから。皆寝坊助で……ちゃんと起きてくれたのも、返事をしてくれたのも。正彦だけなんだから』
『大丈夫だよ。だって』
軽く私のお腹を軽く撫でて、その度にお腹の中の赤ん坊が腹を蹴って。
呆れたように笑う私に、正彦は『ほらな?』っと親指を立てて。
『早く出せ、って煩いくらいなんだから。元気に挨拶してくるよ、きっと。起きなかったなら、俺が何度も起こしに来るからさ。今なら俺の時より大分マシな環境で育てるぞぉ!って』
『少なくとも、母さんのお世話はしなくていいもんね』
『根に持ってる?』
『持ってるよ。そりゃそうでしょ』
そりゃそうか、なんて。
当たり前のことなのに、なんだか少しおかしくなって。
私ですら、随分と長い間、実の子に騙されていたようだ。
『ねぇ、正彦。あんたはやっぱり、私の息子ね』
『なんだよ今更。今までずっと疑ってたの?』
『ええ。だって、私と何もかもが真逆だったもの。似てるのは生き方だけ』
『それはちょっと、格好悪いから似たくはなかった……!』
『なんだとコラ』
あなたはきっと、知らないだろうけど。
母さんはずっと、あなたのことが、羨ましいのと同じくら、可哀想だったの。
きっと私の息子として産まれてこなければ、あなたはもっと幸せだったのにって。
もっといい人の、お金を沢山持ってて、子供に何でもしてあげれる人の子ならって。
『けど。俺、母さんの息子でよかったよ』
『……ごめんね、正彦。ありがとうね』
『ごめんね、は余計だってば』
何気なく呟いたようなその言葉に。
私がどれだけ救われたかなんて、きっと知る由もないだろう。
私たちはようやく、新しい家族を加えて、幸せになるための階段を上れる。
誰かに助けてもらうことでしか生きれない、禄でもない女だったけれど。
『家族皆で。幸せになろうね』
『だな!』
私が唯一、閻魔様に褒められることがあったとするなら。
あなたを産んだことなんだろう。あなたを育てたことなんだろう。
誰にだって自慢できる、誰よりも大切な、私には勿体ないくらいの。
『これからはブルジョワジーな生活が待ってるね!』
『……別にあの人も大富豪ってわけではないから、期待はほどほどにね?』
『せっかく夢見てたのに現実突き付けんのやめてくれない!?』
だから。
だから、神様。
もう少し待ってくれたってよかったじゃないですか。
『母さん。ごめんね』
『大丈夫、大丈夫よ正彦。きっと助かるわ。だってあなたは、私なんかよりもよっぽど、強いんだもの。私なんかよりもずっと、誰かを助けてきたんだもの。だから、大丈夫。大丈夫だから、ねぇ。なんで、なんで今……!』
『妹に、ちゃんと起きろよって。言っておいて』
『なんで。どうして。せっかく、新しい家族ができるのに……!』
ちゃんと信号を守ったのに。
ちゃんと横断歩道を渡ったのに。
なんで、ちゃんとしてたのに、どうして。
『奥さん。お子さんに、脳死判定が出ました。このまま入院させていても、意識を取り戻す見込みは……』
せめて、あの子が望んだ妹が産まれるまでは、待ってあげてよ。
『正彦君は生前、ドナーカードに登録してくれていたようで。現在病院には、正彦君の臓器を必要としている患者さんが居るんです。どうか、正彦君の意思の為にも、ご決断を』
なんであの子を殺して、他人を生かさなきゃならないの?
『正彦君は。誰かを助けて死ぬことを、望んでいるんです』
お前らが、あの子のことを語るなよ。
『優しかった正彦君のために。どうか』
あの子は、私の息子なんだ。
◆◆◆
随分と久しぶりに、その町に足を踏み入れることになる。
前世で産まれ、生涯をそこで過ごし、そして死んだ我が第一の故郷。
以前に来た時は幼かった上、引き取られた家族と一緒だったので、どうしても行動を制限されてしまい、前世で好きだった中華料理店とかで食事をする機会も無かったのだが……!
「とうっちゃく!」
不肖、朝宮加奈!前世では加賀正彦!
ようやく自由の翼を手に入れ、再び舞い戻ってまいりました!
一回目もそうだけど、やっぱり懐かしいし、感慨深いなぁ、この街を訪れるのは!
「くっ、まだアイス食べ切れていない……!なんでこんな硬いんですかねこういうの!」
「簡単に溶けると食べづらいからじゃないかな?たしか、奏さんのお父さんが迎えに来てくれるんだっけ。もう来てくれてるのかな?」
「いえ、うちの父親はプライベートだと結構時間にルーズなので、大体十五分程遅れてきますね。本人はなんか色々言い訳してますけど、多分シンプルにずぼらなんだと思います。毎朝母に起こされて、眠たそうに仕事に行ってますし」
「へぇ~。ラブラブなんだね?」
「見てて面倒くさくなるくらいには。飲み会の時は毎回奥さん自慢をしてるそうですよ。私にはあんまり良さがよく分かりませんけどね。腹黒ですし」
まあそれは、うん、否定できないけども。
いやしかし、とりあえずは二人が仲良くしている、ってのを聞けて良かった。
俺が死んだ後、すぐ離婚した、なんて言われたらちょっと責任感じてたかもしれない。
「けど、尊敬はしてますよ。私がこうして一人暮らし出来ているのも、母が毎日コツコツと積み上げた人間関係と。あとはまあ、兄のおかげかもですし」
「お兄さんの?」
俺なんかしたっけ?
「私が通ってる高校、それなりには名門なんですが。母が家庭教師として、兄の友達だったって言う、一流大学を卒業したお偉いさんを呼んでくれたんですよね。随分と兄が好きなようで、忙しい中わざわざ時間を縫って、私に勉強を教えに来てくれました」
「へぇ。君のお兄さんが死んだのはもう何年も前だろうに、未だに関係が続いているのか。関係を続けたお母さんも、そんなに好かれたお兄さんも、どっちも大したものだね」
「認めたくはないですが、まあそうですね。人に甘えるのも、人の懐に取り入るのも上手い人でしたから、母は。ただまあ、家族に対しては結構ノンデリでした。というか、若干過干渉で少しだけうざかったです」
「え、マジ?」
お母さん、奏ちゃんに対してそんな構ってるの?
お金に余裕があるから、その分だけやってあげたいことでも増えたのだろうか?
俺の時は基本的に何かしてもらった記憶があんまり無いので、少し羨ましい気もする。
「マジですけど……なんでそんな驚いてるんですか?」
「い、いやほら。奏ちゃん、自立してるっていうか。一人でも生きてけそうなくらい強い子だからさ、そんな風に育てられたのが意外って言うか……」
「なるほど。そう言われて、悪い気はしませんね……!」
「あ、あはは」
以前からちょっと思ってたけど、もしかして奏ちゃんって割とちょろい……?
まあそもそもの話、俺が前世を覚えている挙句、それがあなたの兄でした、なんて言われても信じる奴がいるわけないし、そもそも言うつもりがないからバレる可能性は限りなく無いのだが。
どこぞのナルシスト中年に関しては知らん、マジで何をとっかかりにしたんだ?
「まあ、今となっては。自分や兄が苦労したことを、娘に体験させたくなかった、っていう親心を理解出来るようになったので、苦手意識は多少克服しましたけど。それにかこつけて、何度も兄のことを持ちだすし、周りもそれに倣うしで、いい気はしませんでしたね」
「……まあ、うちの父親も、少し前までは恋愛関係の話に度々口を出してきたし、気持ちは分かるかな。親ってのは、自分の失敗を子供にはさせたくないらしい。おかげで加奈を喜ばせられたことが幾つもあるから、感謝はしているけど」
「そもそもあの人が浮気された、ってのが正直信じられないんだけどな。お金持ちだし、今でも分かりやすいくらいイケメンだし、欠点なんて、やたらとズカズカ相手の心に踏み込むことくらいしか……あの、二人ともなんでそんな眼を?」
「いえ。まあ、その。私の場合は、同じく人のことは言えないのですが」
「それを加奈が言うのかぁ、と思って」
「え、もしかして俺、あの人と同じようなことしてんの?過去に?」
「はい」「うん」
「人生で一番ショックを受けたかもしれない」
いやいやいや俺はちゃんと節操があるはずだけど!?
ちゃんと相手のことを慮って、重い話題は避けようとする気遣いの精神はあるよ!?
そんなまさか、あのナルシスト中年みたく人の心に土足で踏み込むような真似は!
「とりあえず弟さんに謝った方がいいと思います、切実に」
「いや碧海に謝ることなんて……プロレス技を度々仕掛けたくらいしか……!」
「念のため聞いておくけど、過度に身体が密着する技は仕掛けてないよね?」
「ん?そりゃまあ、寝技は床が綺麗じゃなきゃ出来ないし。家でくらいしかやらないよ?」
「家でもやめておきましょう。ほんとにやめておきましょう。碧海君をどうしたいんですかあなたは。若干あの子のことが不憫になってきてますよ私」
え、姉弟のじゃれ合いのつもりだったけど、やめといた方がいい?
いやけどそうか、家族だからと言って暴力はやめた方がいいよな、うん。
これからは痛い技は控えよう……!
「絶対この人根本的な原因が分かっていませんね。鏡見た事無いんでしょうか?」
「朝見る以外なら、いつも可愛いお顔が写ってるけど?」
「なんでこの自意識の高さで原因が分からない……!?」
「……まあ、その。いつか彼にも、彼女が出来るといいね」
「……そうですね。彼を救ってくれる女性が現れることを祈りましょう」
「なんでそんな話に……?」
俺またなんかやっちゃいました?
つっても、碧海なら心配せずとも美人な彼女さんを見つけられるだろう。
何せ私の弟で、あの二人の息子で、何よりもいい奴なんだから。
いい奴だからってモテるとは限らないけど、碧海の友達たちに聞いた話だと、学校じゃかなりモテてるとは聞いてるし、まあ多分問題はないだろう!
「……ところで。迎えの車って、あれじゃない?」
そうしていると、視界の端に、前世から慣れ親しんだ懐かしい車が見えた。
一年程度ではあるが、何度も載せて貰ったことがあるグレー色の自家用車。
控えめで目立たない色だけれど、何度も乗るうちに愛着が湧いたあの人の車。
「へ?あ、ほんとだ。よく気づきましたね。迎えの車だって」
「ほら、奏ちゃんに手を振ってるでしょ?俺、眼はいいんだよ。昔っからずっと両目ともに2.0」
「うわすっご。私ずっと1.5ですよ」
「割と夜更かしとかもしてるはずなんだけどね、加奈も。正直少しだけ羨ましいなぁ。僕、この前の健康診断で少しだけ視力が落ちてるって言われちゃったし。1.2になっちゃった」
「眼鏡をかけたら似合うかもよ?モテる眼鏡男子デビュー!」
「出来るなら伊達で済ませたいね。目に効くトレーニングとか調べてみるかな……」
ちなみに眼の良さは前世からずっと共通していたりする。
あと動体視力の良さもよく褒められてる上、それも前世から引き継ぎ済みだ。
女になった都合上身体能力は若干落ちてるが、手先の器用さなんかは前世以上。
医者から『この子は将来スポーツ選手になれますね』とか言われたり、体育教師から『お前が部活動やれば日本代表だって目指せるのにな』などとおだてられた才能は伊達ではないぜ……!
「やあ、お帰り奏。それに、奏のお友達たちも。
「ありがとうございます、昭さん。僕は……」
「十六夜優斗君と、朝宮加奈ちゃんだろう?聞いてた通りの伊達男と別嬪さんだ」
「変に難しい、古い言葉使わないでっていつも言ってるじゃん。ほら、行くよ父さん」
おお、奏ちゃんがこうやってラフに話すのは珍しい。
七尾昭、前世における母親の再婚相手である、関係上は義父に当たる人物だ。
うちの今世の父親とは違い、顔に自信が現れている威風堂々のイケおじと言った具合。
前世では無かった顎髭なども相まって、前世の頃よりも貫禄が増した気がする。
「奏はあっちでも上手くやっていけてるかい?ある日突然、家を出て遠くの高校に進学する、なんて言い出したから、私も母さんも驚いたものだよ。とはいえ、しっかりと将来は見据えているみたいだから、あまり口出しはしなかったけれど」
「すっごくしっかりしてますもんね~。私にとっても、自慢の友人です!」
ちなみに現在は外行き用のノリと口調でお送りしております。
いやまあ態度とかに煩い人ではないけど、流石に娘の友達が個性的過ぎたら心配するだろうし。
あと何より、前世の俺を知っている以上、下手なこと言うと何かに勘付かれそうで怖い。
あのナルシスト中年よりはマシだが、この人もこの人でエリート人間だったはずだし。
「父さん、やめてよそういう話するの……。めっちゃくちゃ恥ずかしいんですけど」
「少しくらい気分が上がっちゃうのは許してくれよ。何せ、あっちに行ったっきり正月にも帰ってこなかった奏が、ようやく里帰りしてくれたんだ。それも、友達まで連れて。多分、彼ら二人の存在が、奏の心変わりの要因なんだろう?」
「……まあ、否定はしませんけど」
「なら、奏にとってその二人は、私達家族と同じくらいか。あるいは、それ以上に大きな存在になってくれたってことだ。友達は沢山居ても、自分の腹の内を遠慮なく晒せる子は、今まで居なかったからね。本当に、二人には感謝しているよ」
よかった、あんまり心配はしていなかったけれど、友達は沢山いるんだな。
母さんに似て、変にこじれた考え方で人付き合いをしているような様子でも無し。
本当に、俺の妹とは思えないくらいに、立派に育ってくれたんだな。
……それはそうと、そこまで大袈裟に褒められてると照れてしまうけれど。
「い、いえいえ。そんな大袈裟な!むしろ私達の方がお世話になってるくらいで……!」
「なに、そう謙遜せず。それに、女友達なら何人も居たのだけれど、奏に男友達が出来るとはね。あまり異性を友達と言うタイプでもないし、男が来ると聞いた時は彼氏を連れてくるのかと思ってしまったけれど……」
「だから、友達ですって。二人とも大事な友人ですよ」
「それは残念だなぁ」
……そういえばさっきから、もう一人のご友人の反応が無いな?
ふとチラリと横を見てみると、ものすっごく気まずそうな優斗君の姿があった。
まるで借りてきた猫のようである。
「あれ、優斗さんどうしましたか?体調でも悪いんですか?」
「ああ、いや、うん。大丈夫だよ、体調は」
「そうですか?それならいいんですけど、無理はしないでくださいね」
ニコリと笑う奏ちゃんの姿を見て、そういえばと思い出す。
優斗君にとってはこれ、振った女の子の自宅に招かれる形になってるわ。
しかも目の前のお父さん、思いっきり娘を溺愛している様子ですわ。
今更ながら気まずいなこれ、ケロッとしてる奏ちゃんのメンタルどうなってんだろう。
とりあえず俺は、背中を軽く叩いてあげながら、小声で応援してあげることにした。
「……あー。その、頑張れ?」
「気まず過ぎて吐きそう」
「断ったらよかったのに……」
「……ここで断ったら、僕は多分、この先一生後悔することになるから」
「……真剣な顔で言ってるところ悪いけど、口抑えながらだと恰好付かないぞ~?」
こういう弱みを俺に隠さなくなったのは、少しだけ嬉しいが。
それはそれとして、後で少し話相手になってあげようと思った。
そうこうしている間に、車はドンドンと懐かしい景色を過ぎ去っていき。
「あ」
「ん?どうしました?」
「……何でも無いよ!」
かつて、我が家だった土地の前を通り過ぎる。
俺が今世で訪れた時と同じ表札を張り付けて、新しい立派な家が聳え立つ。
俺が懐かしむことが出来るものは、そこにはもう残って無くて。
「ああ。今通り過ぎた家、昔家族で住んでた土地ですね。私が八歳くらいの頃に売り払って、新築の家に引っ越すことになりましたけど」
「ハハハ、懐かしいな。たしか、奏が大きくなるにつれて、三人暮らしをするには少し小さく感じるようになったのが切っ掛けだっけか。老築化も進んでいたし、奏が通っていた学校にも近かったから、ちょうどよかったのさ」
なるほど。道理で、いなかったわけだ。
俺が家族旅行という体でここに来たのは、俺がちょうど十二歳だった頃。
奏ちゃんとは一歳違いだから、そりゃとっくに居なくなっているわけだ。
……なんでご近所さんが、俺の質問に答えられなかったのかも、今なら分かる。
『轢き逃げ犯の娘に、話すわけも無い』
心の中で呟いて、めぐり合わせの悪さに運命というものを勘繰ってしまう。
元の家から、十五分程の時間をかけて移動した先で、目的地が見えてきた。
優斗君のお屋敷のせいで、でかい家には慣れているが……。
「立派な家……!」
「高い買い物だったけれどね。人に自慢できる家だと思ってるよ、私は」
「はいはい。アホなこと言ってないで、さっさと行きましょうよ。お母さんがご飯作って待ってるんでしょ?」
「え。つく……って、くれてるんだね?」
「なんですか今の間」
いやだって、俺が生きてた頃は、お母さんが料理作ってたとこあんまり見た事無いし、あったとしてもおやつとか、そういうのを作ってくれてた時だけだったから……!
母の手料理というものを、俺は前世であまり味わった事は無かったんだけど。
……いや、けどまあよく考えれば、金があれば病院に行く機会も、栄養ある食事を摂る機会も増える以上、そりゃあ体調が治るのも納得か……?
「ようこそ。よく、来てくれました」
「──」
……耳をすり抜けて、脳に直接入ってくるような透明な声に、思わず思考を止めた。
前世で一番よく聴いた声の主は、覚悟していたよりも早く、俺の前に姿を現して。
玄関前で、恭しく俺達に頭を下げるその女の姿は、なんともまあ、儚げに見えて。
「ようこそ、七尾家に」
表札には、今の夫の苗字が張られていた。
今世で初めて見る前世の母親は、前世とさして変わらぬ容姿で。
「歓迎します、奏のご友人方」
「……はい!よろしくお願いします、奏ちゃんのお母さん!」
友達の母親に。
俺は、いつも通りに、挨拶を送った。
勢いのまま書くことの重要性と、ちゃんとチェックすることの重要性を学びつつある作者です。