「ハァ、ハァ……!」
息が苦しくなるのも構わずに、必死に走って、川岸へと向かった。
数秒経っても、数十秒経っても、彼女は未だに水面から顔を出さなかった。
それなりに流れがあって、秋の空気で水は冷たく、足が付かないくらいの深い川。
最悪の可能性が頭を過って、みっともなく泣きそうになりながら、呼びかける。
「加奈さん!!」
「取ったどぉ!!」
声を上げると同時に、呆れるくらい元気な声が響いて、彼女が天高く腕を掲げた。
その手の中には、遠目で分かりづらいけど、私のキーホルダーと鍵が握られていた。
笑みをこぼす彼女はそのまま私の方を見て、嬉しそうに笑い。
安堵の息を吐いた私の元へと、泳いで向かおうとして。
「……あ、やば。足攣ったかも?」
「バッ……!?」
そしてすぐに、笑顔が苦笑いに変わって、泳ぐ速度がぎこちなくなった。
冷たい水に、碌なストレッチも無しに飛び込んだのだ、リスクも当然高くなる。
また水の中に沈んだ彼女を助けるために、周りに人がいないか探そうとして。
こんな夜中に、それもこんな人口の明かりが無い川辺に居る人なんてめったにいない、という当たり前の現実に辿り着く。
「ッ……なんなんですか、あなたは!!」
憤りを声に出しながら、服を脱いで、無我夢中で水の中に足を踏み入れる。
背筋が凍る程の冷たさに、思わず顔が青くなり、奥歯がガチガチと音を鳴らす。
なんであの人は、こんな寒い中で、あんなに笑顔になれるんだろう。
「え、ちょ、奏ちゃ──!?」
「手を!!」
慣れない泳ぎをしながら、彼女の手を必死に掴んだ。
幸い、岸まではそう遠くない。頑張ればすぐに着く。
あまり体育の成績はよろしくはないけれど、必死に泳げば、あんな場所くらい。
「待って、流れが……!」
流れの強さを見誤った。
行きは地面を蹴って加速出来たが、帰りは加速無しに泳がなければならない。
その上彼女の手を掴んで、引っ張っていこうとすれば当然、更に負荷は大きくなる。
どうにか手で、足で必死に水面を叩いても、岸は遠くなるばっかりで。
息が苦しくなって、どうにか頭を出して呼吸しようとするけど、その拍子に水が口に入って。
「(あ、これ、死──)」
「身体の力を抜いておいて。流れに逆らっても、体力使うだけだから」
ぐいっと、腕を引き寄せられながら、ぼやける視界で彼女の声を聴いた。
焦る様子なんて微塵も無く、自分の足先を手で幾度か揉み、伸ばして。
私の身体を背負って、大した水しぶきも上げないまま、ゆっくりと移動する。
そのまま、いともあっさりと、私ごと岸に上がって、何でもないように息を吐いて。
「ご、ごめんね!?奏ちゃんを心配させるようなこと言って……!」
すぐに、私の胸を押し出して、肺に入った水を無理やり吐き出させた。
手慣れている。きっと何度も、似たようなことをしたことがあるんだろう。
もしもこれが大人で、ライフセーバーとかなら、それにも納得できるだろうが。
彼女は私と年齢が変わらない、ただの高校生のはずだ。
「ゲホッ、ゲホッ!ハァ、ハァ……!」
「大丈夫!?水飲んじゃった!?ま、まだ苦しいなら、急いで救急車を──!?」
「何やってるんですか!!あなたは!!」
胸倉をつかんで、冷静さなんて欠片も持たずに、叫んだ。
「……あ、その、ごめんね?無駄に焦った感じ出しちゃって……!」
「そんなものは、どうでもいいんですよ。私が溺れたのは、私がヘマです。それを助けてくれたことには、感謝してます。けど、そもそもの話として!なんでいきなり川に飛び込んでるんですか、あなたは……!」
「か、奏ちゃん!?ちょっ、叫んじゃダメだよ!さっきまで、溺れてたんだからね!?」
叫んだせいで、幾度も咳き込み、彼女は心配そうに私の背中を軽く叩いた。
先ほどまでなら“優しい”と形容していたその善意すら、今は不気味に見える。
「答えてください。なんで、飛び込んだんですか……?」
「……えっと。落ちちゃった鍵を、拾うためだよ?あ、もし心配してるなら安心して!ちゃんと拾えたから!ほら、これ!……あ、このキーホルダーのキャラ、私が好きなアニメのキャラだ!フフフっ、まさかこんなところで同士に出会うとは──」
「この鍵は。失くしたとしても、学校側に申請すれば新しいものを作ってもらえます」
「……そうなんだ?」
全て、善意だ。私は助けてもらった。分かっている。
けれど、今ここで。それを成した彼女を決して認めてはいけないと。
私が兄に抱いた嫌悪感と、同じ色の感情が。私にそう叫んでいた。
「けど、反省文書かなきゃならないんでしょ?それは疲れるだろうし……」
「下手すれば、あなたは命を失ってたんですよ。あなたがどれだけ泳ぎが上手で、どれだけ体力が優れていたとしても。何の安全性の保障も、命綱も無しで、取り返しのつくものの為に。命を賭けて、あんな危険を冒す必要なんて、まったくなかった」
「……けど、私は無事だよ?」
「結果的にでしょう!!」
苛つく。苛つく。今の彼女を見ると、なんでこんなにも頭に来る?
心配させるようなことを言った?無駄に焦った感じを出してしまった?
何も、大袈裟なことなどあるか。
「足を攣って、そのまま溺れていたらどうしたんですか?いいえ、それ以前に。上手く着水できず、身体を痛めて溺れていた可能性もあったし!もし流れが今より強ければ、貴女でも岸に戻れず死んでた可能性も十分あった!」
「……そうかもしれないけどさ。けど、奏ちゃんも助けに来てくれたじゃん?」
「ッ……!自分のせいで親しい人が死にかけてたら、普通助けようとするでしょう!あなたは鍵を拾うのに命を賭けることと、親しい人を助けるために命を賭けることを、同列に扱うんですか!?」
「うん」
彼女は、ほんの僅かな時間も、悩む素振りすら無しに。
当たり前のことのように、そう言い切って、濡れたシャツを絞る。
唖然とする私の前で、彼女はさも当然のように言い切った。
「どっちも。いいことでしょ?」
「いいこと、って」
「その、ごめんね?奏ちゃんがどうして怒ってるのか、私いまいち分かってないんだ。危険なのは分かったし、そりゃあ下手したら死んじゃってたかもしれないけど。それでも、私は生きてるし。鍵もちゃんと拾えた」
「……結果論でしょう。終わりよければ全て良しなんて、そんなこと」
「違うよ。私は結果よりもずっと、過程のが大事だと思ってるよ?だって、ほら。店から盗んでパンを手に入れるのと、店主さんを助けてあげてパンをプレゼントしてもらうのは。お金を使わずに手に入れたって結果は同じでも、過程は全然違うでしょ?」
「……そりゃ、そうでしょうね。それが、今何の関係が」
「同じだよ。今日こうやって、奏ちゃんの為に鍵を拾ってあげればね?いつかそれが回りまわって、私の幸せのための何かになるの。学校で聞かなかった?情けは人の為ならず。あれ、人を助けるとその人が成長しないからやめなさい、ってのは誤用って知ってた?本当は、いずれ巡り巡って自分に恩恵が返ってくるのだから、誰にでも親切にせよ、って意味なんだって」
一体彼女は、何を言っているんだろうか?
さっきまでは、少しおかしなことを言うだけで、優しい人として見れたのに。
今はその優しさが、異質な何かに見えるのは、何故だろうか。
「そのために。反省文書けばそれで済むような問題を解決するために、川に飛び込んだんですか?本当に、ただ未来にいずれ自分に回ってくるって信じて?」
「うん。だから、鍵のために命を賭けたわけじゃないの。未来の自分の為に、命を賭けたのだ!……いやー、これちょっとキザかなぁ?もう少しこう、良い感じの表現を思いつきたかったけど、生憎と国語の成績は必ずしも国語力には変換しないということでして……!」
「バカじゃないですか」
「辛辣!?」
立派な考えだ。それをただ聞いただけならば、私だって賞賛した。
だってそんなもの、ただのお題目だ。そう生きたい、ってだけの看板だ。
例えどれだけ立派な理想を掲げようと、普通の人間にはブレーキがある。
これ以上は自分の命すらも失ってしまうかも、という、本能的なブレーキが。
当たり前に持っていなければならない、人間にとっての安全装置が。
「そんなもの。常識的な範疇で実行すればいいだけの話でしょう。何を馬鹿正直に、そんなうっすら信じておけばいいだけの考えのために、自分の命を賭けるんですか!それであなたが死んだらどうするんですか!?」
「死なないよ。大丈夫。死んだとしても、まあ多分大丈夫だよ」
「ハァ!?」
「死んだとしても、こうなんか色々あって。最終的に回ってくると思うから」
思わず、本気で怒鳴ろうとして。
「そんなわけ──!」
「だって、ほら」
「
ただその一言だけで、私の言葉は続きを失った。
意味が分からない、何の理由にもなっていないはずのその言葉に。
私には理解できないような、あまりにも強い確信があったように思えて。
「神様はきっと、良いことをした人を見てるんだよ。じゃなきゃ、俺が此処にいることに説明がつかないでしょ?ずっと、ずっと疑ってたんだ。本当に、そうなのかなって。本当に、幸せになれるのかなって。けど、確信したんだ!いいことをした人はきっと、幸せになれるって」
何かが壊れたように、彼女は笑みをうかべながら言葉をまくし立てていた。
その様子に。どうしようも無く、怖気が走る。彼女が怖いから、じゃない。
……その言葉の端々が。あの人の言葉と、重なるように聞こえたから。
「……あなたは、いったい」
「一人で頑張っても、誰も、誰も助けてくれなかったじゃないか。ただ惨めなだけじゃ、声すらかけてくれなかったじゃないか。助けてって叫んでも、鬱陶しそうに手を払うだけだったじゃないか。ただ助けを求めるだけじゃ、ダメだったんだよ」
声が震えて、瞳が揺れて、びしゃぬれの顔から水滴が地面に落ちた。
どす黒く濁った、誰かに対する恨みが、彼女の口から次々と流れ出る。
その言葉から、彼女の瞳から、私は釘付けになってしまう。
決して聞き逃してはならないのだと、何かが叫んでいるように。
「必死に助けて、ようやくこっちを向いてくれたじゃん。『頑張ったね』なんて言葉も、『大丈夫』だなんて言葉も、その時ようやく聞けたんだよ?家族でもない他人を助けて、誰かの役に立って、それでようやく助けてもらえる立場になって」
その言葉に、どんな意味があるかは分からない。
その言葉だけで、彼女がどんな人生を歩んできたかなんて、知る由もない。
それでもそれは、確かに彼女が歩んできた道なのだと、確信できた。
「良い人でいたから。誰かに手を伸ばしたから。私は今、幸せなんだ。だって、全部私の幸せに回ってきてくれてるじゃん。優斗君は私が助けてあげたから、私を好きになってくれたんだよ?碧海の両親は、私が碧海を助けたから私を拾ってくれたんだよ?」
「……」
「そうでなきゃ、私のことなんて目もくれなかった。あの子も、彼も、彼女も先輩も後輩も先生も、皆がみんな!私から手を差し伸べて、手を握り返してくれた。何もせずに隅で縮こまったって、誰にも見られない場所で頑張ってたって、何の意味も無かったんだよ」
きっと、それは決して、間違ってはいないんだろう。
誰だって、誰かを助けるために手を差し伸べることはある。
けれど、誰もが誰にだって手を差し伸べられるわけではない。
助けるならば、せめて、助けたくなるほどに良い人を。
「それを続ければ、きっと。いい人であり続ければ、きっと。何度失敗したって、何度死んだって、何度苦しみ抜いたって。最後には、幸せになれるんだ」
成功体験。本来であれば、それは積めば積む程益になるが。
時として、過剰なまでの成功は、その人をその成功に縛る鎖となる。
盗みや暴力、詐欺が最も効率よく金を稼げる手段だと気づいた人間は。
その成功に酔いしれて、まともな方法で、まともな人生を生きられない。
「きっと。そうなる、はずなんだよ」
「……そうですか」
彼女はきっと、その逆だ。
いいことをした。いい人であった。誰かに褒められ、誰かに心配された。
そしてその末に、その成功体験を決定づけるような、何かがあった。
だから彼女は……己の身すらも犠牲にして、“良い人”であろうとする。
その全てがいずれ自分に回ってくるのだと、そう信じて。
「だから。ねぇ、奏ちゃん。私、奏ちゃんにも、幸せになってほしいんだよ。泣いて好きな人を諦める姿なんて、見たくないんだよ。私ならきっと、もっといい人にしていれば、幸せになれるからさ。誰かに与えた幸せの分だけ、いつかきっと、返ってくるはずだから」
「……ああ。そっか」
私が、あの人を嫌っていた理由。
それが今になってようやく、ストン、と自分の中で腑に落ちた。
「ごめんね、先に恋人になって。ごめんね、奏ちゃんが手に入れるはずだった幸せを奪って。ごめんね、奏ちゃんを怒らせて。けど、大丈夫だよ。私、全部、奏ちゃんに返してあげる。今が苦しくてもきっと、全部、いつか、幸せは返ってくるはずだから」
「……」
「そうすれば、奏ちゃんとも、優斗君とも、皆と、幸せに生きられるはずだから。今度こそは、きっと、誰もが幸せで、楽しくて──」
「加奈さんのこと。少しだけ、理解出来た気がします」
「え?」
ゆっくりと、彼女の両肩に手を置いた。
彼女は少し驚いた顔をした後、私の笑顔を見て、何を勘違いしたのか。
いつも通りの笑みを浮かべようとして、ぐちゃぐちゃになった顔を直そうとして。
「ふんっ!!」
「へぁ?」
思い切り。彼女の額に、自分の額をぶつけた。
何をしたか?簡単だ、人間ならば誰しもが可能な非合理的攻撃手段。
ヘッドバッド、もしくは頭突きである──!
「いったああああああああ!?え、何!?なんで!?」
「なんでじゃないですよこのクソボケ勘違い女が」
「クソボケ勘違い女!?」
額を抑えて驚愕する彼女を、今は少しだけ笑って見れる。
何がなんだか分からずに、困惑する姿に、あの人の面影なんて少しも無かった。
多分私が彼女を気に入ったところは、こういう所なんだろう。
感情的で、クスッと笑えて、ついでにいじると他の人よりも良い音がする。
我ながら最悪だが──少なくとも私は、“良い人”な彼女を好きになったわけじゃない。
「今しがた。私はあなたを嫌いになりました」
「えっ」
「私、あなたみたいなタイプの考えが嫌いです。反吐が出る程嫌いです。何が良い人ですかしょーもない、んなもんよりも今のあなたのがよっぽど面白いですよバーカバーカ!」
「多分今の奏ちゃんのが相当面白い口調してるよ!?」
ほら、こういうところ。
自分から仕掛けておいて、まあ随分な言いぐさだとは思っているが。
それはそれとして。私はこういう人が大嫌いだ。
「私は、“良い人”なあなたが嫌いです。だから、勝負しましょう」
「……勝負?」
「知っての通り。私、優斗さんが好きなんです」
「う、うん。知ってるよ。だから──」
「だから。奪うことにします」
「へ?」
まったく、自分でも何を言っているのかと、溜息を吐きそうになる。
けれど、回り出した口は止まらない。圧されたまま終わると思ったか?
良い人であれば幸せになれるはず?幸せはきっと返ってくるはず?
「優斗さんを寝取るって言ってるんですよ。あらゆる手段を使ってあげます。色仕掛けでも策略でも、何でもかんでも。そう簡単に落とせぬ牙城とは知ってますけれど、あなたは私に譲ってくれるんですよね?ならきっと、不可能ではないと思うんです」
「……えっと、その」
「あなたが良い人であろうとするなら。あなたが自分の幸せを、他者に投げ渡すようなバカのままなら。自分の大事な物すら守り抜けないような女なら。私があなたの幸せ全部、ぶんどってあげましょう。私はとっても悪い人なので」
別に彼を諦めていたわけじゃない。芽があるならば奪いに行く。
私は決して良い人じゃない。そうなるのが嫌だから家を出たのだから。
私は良い人じゃない。だから、自分勝手に宣言しよう。
「加奈さん。私はあなたが嫌いです。だから──」
そう、だから。
とびっきりの悪い笑顔で、言ってやるのだ。
あなたが、そのくだらない鎖を自分で打ち砕けるように。
あなたが良い人でなくとも。愛してくれる人がいるんだって。
そう証明できるように。
「全力で。あなたを好きになれるようにしてやりましょう」