記憶域の海面下、水中の満月に一番近い花園で、一人の老人が安楽椅子に静かに座っている。
その手には巨大な一つの憶泡が残されていた。
「時計屋」————ラグウォーク・シャール・ミハイル————彼はすでに果てなき長い夢に足を踏み入れた。もう、彼を呼び起こせる声はない。
列車のみんなの視線は眠りにつく彼がもう大きな泡に集中していた。
「やっぱり、『時計屋』が三人目のナナシビトだったんだ。なんとなくわかってはいたけど」
「なにしろ俺が中身を見ても、何も見つからなかったからな……おそらくなんらかの『開拓』の暗号なんだろ。まったく、俺より謎に包まれていやがる」
「見せてちょうだい」
穹は深呼吸して心を落ち着かせ、「時計屋」を見る。
彼が夢の泡に触れると、濃厚な憶質が集まり、指の腹を中心に四方へと伸びていった。
まるで緻密な鋼のように、憶質があなたの手のひらを支える。
指先から冷たい感覚が伝わり、この感触とともに錯綜した記憶の幻影が流れ込んでくるはずだが……今回は何も起きなかった。
「あれ?」
不思議に思い、もう一度精神を集中させて目を閉じる。
しかし、結局何もない。空っぽの夢の泡しか残っていない。
「どうしたんだ?」
「ふん、やっぱりそういうことか」
彼はいつもナナシビトに対してわけのわからない自信を持っており、その計画の中には常に「開拓」が組み込まれていたが、彼が生きている間に列車との連絡が成功したことはなかったらしい。
空っぽの夢の泡にはわけのわからない幻想とロマンチシズムに満ちているとギャラガーは呆れたように笑った。
「イタズラじじいめ……まあ、この人が何か手札を隠し持ってるなんて、俺も期待しちゃいなかったが」
「いいえ、ギャラガー。ミハイルはきっと、一番大切なものを私たちに残してくれてるわ」
「それは一体……」
「あなたの心です!」
「はいはい、そこふざけないで!」
なのに怒られてしまった。
「ミハイルが未来のナナシビトを信じたように、私たちも過去のナナシビトを無条件に信じてる。この夢の泡にはきっと何かが隠されている、ただ私たちがそれをまだ見つけれてないだけでね。ギャラガー、『時計屋』を信じることに関してはあんたも同じでしょう?」
「俺は『神秘』の運命を歩む人間……人生哲学は何も信じないことだ。だから俺にもわかる。『信じる』ことが『開拓』にとって何を意味しているのか……俺も彼が何を残したのか知りたい。すべては……あんたらの腕次第だ」
「……あんたの『ペット』を貸してもらえる?『黄金の刻』に戻って、夢境ショップで確かめたいことがあるの……ミハイルのために、そしてピノコニーの未来のために」
彼らがそうして夢の中を駆け巡っていた頃、現実では……
「さて、ベイビーども、どういう了見か説明してもらおうじゃねぇか」
「お、おい!やめろ!列車内での乱闘は禁止と説明したはずじゃろ!?」
銃を構えたカウボーイハットの男は列車内にてある人物たちに銃を構えていた。
それをパムがなんとか宥め、丹恒は引き金が引かれないように睨みを利かせている。
「誤解しないでほしい。これは私が頼んだことなんだ。訳あってピノコニーを追放されてしまって……このメモキーパーが一緒に来てくれたおかげで、密かにファミリーの支配から抜け出すことができた」
「実際には一緒に来たんじゃなくて、尾行していたのよね。まあ、そう思ってるのならそれでいいわ」
銃を向けられても彼女らは動じることなく、落ち着いた雰囲気を保っている。
その人物たちは黄泉とブラックスワン。
どういうわけか、彼らは列車にて丹恒、そしてとある男に会いに来ていた。
「銃を下せ、ブートヒル」
「正気かよ、兄弟!今、オレたちの目の前にいるのは"使令"だぞ!?」
「列車内での戦闘は御法度だと言ったはずだ。それに……少なくとも彼女たちには悪意がないように見える。話を聞くだけ聞いてみてもいいだろう」
そのカウボーイのような衣服を纏った改造人間は、信じられないようなものを見る目で丹恒に訴えるも、パムからの静止もあって渋々銃をホルダーに収めた。
その男の名はブートヒル。
突如としてピノコニーに停車中の列車に乗り込んできたならず者であり、真の巡海レンジャーである。
彼は宴の星に訪れた巡海レンジャーを名乗る謎の人物を追うためにここまでやってきた。
その人物こそ、彼が銃を向けていた黄泉である。
丹恒はブートヒルの話から、ピノコニーにて列車の仲間たちが危機に陥っていることを感じ取り、彼と協力して夢の外で調査を進めていた。
その途中で接触を図ってきたブラックスワンと合流するために再び列車に戻り、このような状況になってしまったというわけだが……
「私は彼女にファミリーの目の届かない場所に連れて行くこと、そして信頼できる人へ連絡するように頼んだ。つまりあなたたちだ」
「信頼だと?おもしれぇこというな、ベイビー。アンタはオレをアホかマヌケだと思ってんのか?だとしても、アンタのどてっ腹に穴開けて何が入ってんのか確かめねぇと『信頼』について話すことなんぞできやしねぇぜ」
ブートヒルは敵意を隠すことなく、彼女を睨みつけた。
巡海レンジャーの肩書きを使い、ピノコニーへと赴いた黄泉を彼は快く思っていないらしく、おまけに存在しないはずの「虚無」の使令ということもありその警戒心は積もりに積もっていた。
「その必要はない。あなたが知りたいことはすべて教える。だが、今はこうするしかないんだ」
「『しかない』、だぁ?」
「こうすることでしか、私はあなたたちの安全を保障できない。頼む……星穹列車は今すぐ跳躍して、アスデナ星系を離れてほしい」
黄泉がピノコニーを訪れた理由はこの地で危機が迫っているからなどという理由ではなく、行方知れずの本物の巡海レンジャーと接触するためであった。
そう、すべては過去の約束を果たすために。
「彼」の遺品を元の持ち主に返すためでもあったから。
ホタルはドリームボーダーの端っこで星穹列車の一同の姿をようやく見つけた。
夜海に浮かぶ青い満月の下で彼らはギャラガーと話をしている。
物陰に隠れたホタルには彼らに話しかけようにも話しかける勇気がどうしても湧いてこなかった。
これならカンパニーのピアポイントで暴れる方がまだ気楽なレベルで彼女の体は強張っている。
「思ったよりも早かったな。成果は……いや、先にそちらのお客さんから話を聞いた方がいいか」
こちらの視線に気がついたギャラガーが、あえて空気を読まずに背後で隠れているホタルを名指しした。
彼が彼女を呼んだことで星穹列車の一同はようやくこちらの気配に気がつき振り向いた。
「ホタル……!戻ってきてたのか」
その視線には驚嘆や警戒、不安などが混じっている。
彼らの仲間を殺人鬼として糾弾したのだから当然の報いだと、ホタルは黙って受け止めた。
心苦しい視線が彼女を突き刺す中、冷たい憶質に満たされた空気を吸い覚悟を決めた彼女はゆっくりと躊躇いなく悠仁の方へと歩み寄っていき————
「————ごめんなさい」
深く、深く頭を下げた。
「君のことを"悪"だと決めつけて、列車の仲間に悪評を吹聴して酷い迷惑をかけてしまった……そうそう許してもらえるとは思ってないけど……本当にごめんなさい」
そう言って彼女は決して頭を上げようとはしなかった。
ただじっと悠仁の反応を待っている。
誰も口を開かない沈黙が下される最中で、彼はホタルに話しかける。
「……とりあえず、頭を上げてくれ」
「…………」
「あー、なんだ。ホタルが俺を悪く言ったことに関しちゃそんな気にしてない。あれは俺の弱さが引き起こした結果だからな。あんなものを見たら誰だって動揺するに決まってる」
「……でも」
「もしそれでも間違えたって思うなら、それでもいい。そう思えるだけで十分だ」
「けど……あなたにひどい迷惑をかけた」
「はっはっはっ、いいんだよ迷惑ぐらいかけても。オマエはまだ若いんだから、何度でも間違えていいんだ。その尻拭いは俺みたいな老人にでも任せてくれってこと」
悠仁は気にすることはない、と笑ってくれた。
それでもホタルの表情は曇ったままであり、簡単に受け入れられることではないらしい。
二人の様子を黙ってじっと見つめていたなのかと穹が間に入ってきた。
「そうそう、そんなこと言ったらウチらだって迷惑かけっぱなしだしね!この子なんか、この前列車の部屋をゴミまみれにしたし、丹恒は掃除しようとして龍尊の力で水浸しにしちゃうし!」
「なのは言わずもがなだもんね」
「あんたたちはもう少し自重してちょうだい」
姫子はコーヒーで乗客の胃を破壊しているし、ヴェルトはしょっちゅう自分がかけている眼鏡を無くし、みんなでそれを探す。
結局、誰にだって迷惑をかけてしまうことはある。
それは悠仁だって例外ではない。
「間違えたって思うんなら大丈夫だって。もし、それでもっていうなら今度は俺たちのことを手伝ってくれ」
悠仁はそう言ってそっと手を差し伸べる。
おずおずと彼の手を握り、彼女はようやくその眼差しをしっかりと彼に向け————
「……うん、ありがとう」
彼女は覚悟を決めたようにその右手をそっと握り返した。
「話は終わったか?」
無事に和解が済んだ様子をみて、傍観者に徹していたギャラガーがようやく話に入ってきた。
「うん、もう大丈夫。時間を取らせてくれてありがとう」
「何、言いたいことがあるのなら相手がいるうちに言っておいた方がいい。俺にはそれができなかったからな。……さて、あの人の遺志が列車に届いたのなら、俺の任務もこれで完了だな」
ミハイルが残した道は決して生易しいものではない。
そうでなければ、彼が孤独の中で眠りつき、未来のナナシビトにすべてを託す必要はなかったのだから。
ピノコニーは相手のホーム。
列車が使えるカードは少なく、ヴェルトの交渉がうまくいけるとは確信できない。
ファミリーを相手に座して待つより、こちらから仕掛けにいったほうがいい。
「私たちは星核の特性をよく知っている。星核によって美しい夢が安定しているのなら、ファミリーにとっても重要ということ。そこをつけば彼らも慌てて反撃してくるわ」
「うん、星核に直接影響を与えるようなことをすれば、交渉でも先頭でも有利に立つチャンスがあるかもしれない」
問題は調和セレモニーを間近に控えた今、どうやってあの大劇場に近づくかだ。
ファミリーは守りを固めているに違いなく、強行突破にはリスクが高すぎる。
「ハイハイ!じゃあ、ウチに提案があります!」
「まだ使える奇兵がいたとは……」
「景元みたいな言い方するじゃん」
なのかが聞いた話によると、セレモニーを盛り上げるためにオーディションが開かれるらしい。
会場は「熱砂の刻」。
その名はスラーダセレモニーオーディション。
「それで優勝すると、『スター・オブ・ザ・フェスティバル』の称号がもらえて、ロビンさんと直接会えるんだって。でも重要なのはそこじゃなくて……ウチらが普通の観客よりも先に大劇場に入れるってこと!」
「どうすればその『セレモニーオーディション』に出場できるの?」
「えへへ、実はロビンさんのファン限定グループっで何枚か特別招待券をゲットしたんだ!」
なんと彼女はこのオーディションのために準備していたらしい。
どうやら当初はミハイルが人目を引くために始めたおふざけのようなものだったのだが、試してみる価値はある。
「三月ちゃんの言う通りにしてみましょう。ギャラガー、あんたは私たちと一緒に行く?」
「……いや、おそらく俺にその時間はない。『虚構の人物』として俺は最後の任務を終えた。ピノコニーが夢から覚めることができるかどうかは、あんたら次第だ」
「もしまた会えたら、ぜひ列車に遊びにきてね」
「わかった。その時は、列車のアーカイブにもう少し情報を追加してやろう」
正体を暴露する"神秘"のタブーを破ってしまった彼はただ最後の刻を待つのみ。
であれば、その時が訪れるまで自身の故郷でゆっくりと休ませるのが最善であろう。
「それと……ホタル。大きな脅威を前にした今、星穹列車と星核ハンターという間柄とはいえ、目的が一緒ならあんたの力も借りたいわ」
「本当にいいの……?」
「悠仁本人が許したと言ってるのだし、そもそもの原因も誤解だったんでしょう?なら私たちがこれ以上何か言う筋合いもないわ」
「ありがとう、姫子さん。最後にあなたたちとタッグを組めるなんて、嬉しいな……これはあたしたちがたどり着ける最高の結末だよ」
「これこそ、『開拓』の旅の意味ね。それじゃあみんな、出発しましょう」
目指す場所は『熱砂の刻』
いよいよファミリーとの最終決戦が始まろうとしていた。
熱砂の刻に辿り着いた彼らは早速オーディションを受けることになり、時短のために二手に分かれることとなった一同。
演技をする舞台では穹の素晴らしい卓越した演技力で審査員を全員泣かせ、続くブラザーハヌによる銃の試練ではホタルがハンターとしての技量をもってあっという間に制圧していった。
最後のステージでは現在チャンピオンと戦うことになり、チャンピオンである通りすがりの赤髪の純美の騎士と悠仁がタイマンで戦うことになり、呪力も術式も使えない悠仁は持ち前のタフネスでなんとか勝利を手にすることができた。
その後、二人の間に友情が芽生えたとかだが、先を急いでいるのでこのことはまたいつか語るとしよう。
こうして彼らはなんとか優勝者としての称号————スター・オブ・ザ・フェスティバルになり、ピノコニー大劇場へ続くスターロードに辿り着くことができた。
巨大な会場につながる最後の回廊で再びなのかと姫子と合流し、インタビューを受ける大広間のような場所へと足を踏み入れる。
「今回の調和セレモニーでスター・オブ・ザ・フェスティバルになったようですね、おめでとうございます。大劇場に入る前に……」
そしてその場所に現れたのは————
「主催者を代表して、アナタに心からお祝い申し上げます。星神の光の下で、アナタが喜びを享受できますように」
オーク家現当主のサンデーであった。
ヴェルト、ロビンと共に夢の主に会いにいったはずの彼がどうしてこの場にいるのか。
「お祝い?星玉は?」
「確かに、アナタたちの努力はもっと多くの報酬に値するものですね。そのためにワタシも相応の報酬を用意いたしました。それは……互いに誠実を曝け出す機会です。以前約束したように、ワタシ、ロビン、そしてヴェルトさんは夢の主と話し合い、ピノコにーと星核の真実について共通の認識に達しました————ワタシとオーク家一同は、皆さんの要求には応えられません」
予想していた中で最も最悪な可能性に当たってしまった。
「やっぱりな……」
「ピノコニーには改革が必要というみなさんの意見には賛同しますが、アナタたちの求める方法は執ることはできません。この宴の星を弱肉強食の夢追い地にするわけにはいきませんから。弱者は容赦なく淘汰され、平等は存在しない。人々が明日も見えない苦しい日々の中を生き抜く中で最終的に成功するのはアナタたちのような『英雄』だけなのです」
それはミハイルが実際に経験してきた時代の縮図だ。
今でこそ彼は英雄視されているが、その途方もない苦難の中には多くの犠牲があっただろう。
秩序もなく、平和もない混迷に満ちた乱世の時代。
「聞かせてください、穹さん——もしアナタが星核から特別な身分を与えられていない、ただの脆弱な一般人の一人に過ぎなかったとしたら……どちらのピノコニーの方がいいと思いますか?適者生存の荒野、それとも誰もが幸せに暮らせる美しい夢の楽園?」
「……それを聞いてどうするんだ?」
「サンデーさん、オーク家の人たちが星核に関しての措置に同意できないというのはわかったけど、今はピノコニーの過去や未来について話している場合じゃない。星核の問題は全ての人の生死に関わるの。もしそちらにもっといい提案があるのなら、私たちは喜んで聞くわ。だからヴェルトとロビンさんに一体何が起きたのか教えてちょうだい」
ここにサンデーしかいない、ということはロビンとヴェルトは騙されてどこかに幽閉されている可能性が高い。
「ご安心ください、姫子さん。彼らには少し休んでもらっているだけですよ」
「やはりお前も『秩序』の残党なんだな。その様子を見るに、ロビンは無関係ってことか」
「…………彼女には真実を知ってほしくはありませんでしたが、ここまでくれば手段は選べません」
「もしあんたたちがヴェルトとロビンさんを監禁して、それをダシに私たちを従わせようとしてるのなら話し合いの必要なんてないと思うけど」
「誤解です。ファミリーが約束しているように、夢境の中では誰も傷つくことはありません。『秩序』の美しい新世界に属しているのなら、なおのことです」
ピノコニー、そしてこの宇宙は多くの無辜の血を流してきた。
自然淘汰の法則に従い、全人類の幸福を弱者の屍の上に築きあげ、結局その不条理を変えることができるのはほんのわずかな運命の行人。そして……星神のみ
「あんたたち、死んだ星神を蘇らせるつもり?」
「アナタ方が興味を持ってくださったなら、こちらも隠さず話さなければなりませんね。ワタシはかねてより、人々は平和的な方法で互いを理解することができていると考えてきました。これよりワタシの経験を包み隠さずお見せしましょう」
それゆえ彼は「秩序」の行人としてその志をありのまま伝えるつもりでいた。
彼は「調律」をはじめ、その場にいた者たちの意識を自身の心の中へと入り込ませる。
部屋に置かれた大画面にサンデーがこれまで経験してきた選択の一部が映し出されていく。
小さく幼く、羽も生えていない小さな雛鳥。
ロビンと共に世話をし、大切に育て上げていった小さな命を野生や自然から守り抜くため、彼らは鳥カゴを創り上げた。
カゴの中で雛鳥が元気になるのを待ち、自力で空を飛べるようになった時が訪れ……雛を空へと返した。
しかし雛は飛び立っても地面に落ち、再び飛び立ち、再び落ちるを繰り返し——そして137回目の試行の末、最後に空を飛んだ雛の末路は、折れた翼の痛みに苦しみもがきながら息絶える哀れなものであった。
彼らの献身的な世話も、愛情も希望も、雛を葬り去る後押しへと変わってしまったのだ。
次に映し出されたのは、彼が夢境の住民の戸惑いや耳を傾け、当主として彼らの憂いを晴そうとした時に出会ったとある夢追い人の話。
その男は密航者であり、素晴らしい生活をピノコニーで送るために家、土地、そして二人の子供を売った。男は財を成した後子供達を買い戻し、美しい夢の中を共に楽しむという計画を立てていたが、ハウンド家に嗅ぎつけられてしまった。
サンデーはそこでハウンド家に追跡の調査を求め、男に安心的な暮らしを与えた。
しかし、彼はその後大きな成功を収め、上流階級の仲間入りを果たすことができた。現実世界で最後に彼に会ったのは、彼はルーサン家の地位を奪おうとした謀反のために永久追放されそうになった時であった。
その時男はサンデーにこう言った。
——子供?なんのことだ?
調和の教えに倣ったサンデーの善行は、意味のない悪行となり、一人の悲しい抑圧者を生み出してしまったのだ。
そして最後は……彼がオーク家当主に就任した日のこと。
ある星での戦争に赴き、『調和』を広めてその星の命を救おうとしたロビンから手紙が届いた。
手紙の内容には日常的な挨拶やさまざまな世界での体験などが書かれており、そこに……彼女が流れ弾に当たり大怪我を負ったことは書かれていなかった。
歌声を持って人々の苦痛を和らげ、カンパニーの救援物資の輸送の手伝いの際にくらってしまったものらしく、幸い、その銃弾は彼女の命脈を傷つけることはなかったが、首周りに複雑な飾りをつけ隠さなければいけなくなったのだ。
「このことを話したのは皆さんに『調和』の限界と苦境を理解していただきたかったからです。『強きを以って弱きを助ける』というビジョンが素晴らしいものであっても、一方的な願望に過ぎません」
最後に彼は皆に問うた。
ただの空想であり、彼を何度も悩ませてきたか悪夢のような選択——
ロビンが踏み出した「調和」の旅を応援しますか?
「……応援する」
「なるほど。……ワタシがこれらのことを明かしたかったのはピノコニーの苦境を解決できるのは『調和』では不可能であり、美しい夢を築き上げるのは強者が弱者を制する『秩序』だけということです」
人の苦しみ、道を失った時の戸惑い、願いが叶わなかった時の落胆。
この絶望を彼はこの地で幾度となく見てきた。ゆえに、弱者に幸せに暮らしてもらう方法を考えなければならないのだ。
「その暮らしは上流階級の貴族たちが口にするような洗練されたものではなく、絶対的な意味で人間が生存するためのものです」
「あなたにとって……幸せな暮らしってどういうものなの?」
「いい質問ですね。人間の意識とは本質的に一種の幻想であり、自己価値という名の牢屋のようなもの。人々はその幻想に導かれ、過ちを犯しますが、その結果は自分以外の人が背負うことになるのです」
過ちが一つ、また一つと満ちていけばいずれつくられるのは適者生存という名の監獄。
自然は常に略奪と犠牲を伴い、秩序はそれに相反する存在。
彼が行おうとしているのは、全ての生物をたった一つの「秩序」のもとに置くこと。
それを行えば、人間の弱さに向き合うことも、苦渋の選択をする必要もなくなる楽園が築かれるのだ。
「少し抽象的過ぎましたね。簡単な例を挙げれば、いくつかの世界には連休、という社会制度があります。その貴重な休日に人々は生活の重圧から解放され、魂の平穏を取り戻すことができるしかし、その時間は長い人生に比べるとあまりにも短い。……ワタシとしては社会の理想的な制度は「週休7日」であるべきだと考えています」
永遠に続く日曜部。
それこそ新世界の姿であり、永遠に平和な日々の理想的な姿だと彼は言う。
もう現実世界の苦しみを背負う必要はない。
こうすることで、人間は最も高潔な姿で運命に定められた結末に向き合い、尊厳に満ちた一生を送ることができるのだ、と。
「ホタルさん——ロストエントロピー症候群を患うアナタなら、これが何を意味するのかわかるのではありませんか?」
「……それで、その代償はなんなの?」
「代償は取るに足らないものです。ただの、ワタシと言う個人の永遠の犠牲。この楽園を維持するためにはこの宇宙が終わるまで、誰かが永遠に覚醒者として残らなければなりません」
つまりサンデーは自身の身を以って楽園を築き上げる覚悟でいるのだろう。
家族も友人もいないたった一人の現実空間でその生涯を終わらせる気でいるのだ。
「それってつまり、楽園も夢の中ってことだよね。なら楽園に足を踏み入れることは現実世界を捨てることを意味してるんじゃないの?」
「捨てるのではなく、超越するのですよ。弱い肉体を捨て、精神的苦痛の根源となる物質を捨てなければワタシたちは打ち勝つことができない」
「……でもそういう幸せの中で人々が苦痛に打ち勝つことも、その機会を得ることもなくなれば、それは『逃避』になる」
「そう思われても構いませんが、逃避は恥ではないでしょう。むしろ、誰の心にも逃避はある。アナタは『生命体はなぜ眠るのか』という疑問の答えは、『夢から覚めるのが怖いから』と思っているではありませんか」
しかしそれは偉業とは矛盾しない。
それを認めなければ、人間の弱さを理解して、受け入れることもできなくなる。
「あたしはサンデーさんが理想的な指導者であることは認める。でも、あたしはあなたと違って『自分自身』のために生きてるの。だからあたしは……人間が自分のために選択するのは当然で、生まれつき持っている権利だと思う」
彼女の瞳はまっすぐサンデーを捉えている。
逃避は弱者の本能。
しかし、誰が弱者なのかは、他人が決めるべきことではない。
「あなたの目には……あたしも弱者に見えてるの?————あたしは、自分が弱者だとは思わない」
ホタルは確かに生まれもっての「呪い」を背負い、幾度となく苦痛の旅を歩んできた。
だが、それが間違いだなんては思っていない。
「そうですか…………であれば虎杖さん。アナタはどうでしょうか」
「……なんだ、今度は俺の番か」
「アナタの偉業はすでに聞き及んでいます。世界を幾度となく救い、それほどの力を持ちえながら弱き者たちのために戦うアナタには尊敬の念しかありません」
サンデーの瞳には嘘偽りはなかった。
彼は絶滅大君ですら滅ぼせるであろう強大な力を持ちながら善行を成し続ける悠仁のことを心の底から尊敬している様子であった。
「ですがアナタも生まれた時から強者ではないでしょう?それほどの研鑽を積んでいく中でアナタも見たはずです。何も成せないまま殺されていった弱者たちを……己の力を悪辣に使い人々を穢す残酷な強者を!」
「……」
いくつもの記憶が走馬灯のように溢れ出す。
嘲け、嗤う鬼畜の声が反芻されては消えていく。
——母さんも僕も人の心に呪われたって言うのか
——あとは頼みます
——オマエがいるから!人が死ぬんだよ!
——虎杖。オマエは俺だ
「…………ああ、いたよ」
「であればアナタには理解していただけているはず。その理想の楽園には決して『呪い』など発生しない。ワタシはそのような悪鬼羅刹にはならず、力で貪る権力者にもならないと……『秩序』の下に誓いましょう」
彼は本気だ。
この男は本気で弱い者たちを己の手だけで救済する覚悟でこの場にいる。
その思想は悠仁にとってはたしかに共感できるものであり、とてつもなく理想的なものでもあった。
「たしかにオマエは誠実だし真面目だからその心配はないだろうな。正直、俺にとってそれはアリだ」
「悠仁…………」
「であれば」
きっと彼なら理想の楽園を作り上げることができる。
あの善良で人を助けることを厭わないロビンが心の底から慕っているほどなのだから。
しかし……いやだからこそ彼の計画には一つ、たった一つだけ悠仁にとっては決して納得できないものがある。
「オマエはさっき楽園の代償としてオマエが一人で取り残されるって言ったよな。つまり、夢の中にはオマエはいないってことか?」
「ええ、その通りです。ワタシはこの身で現実世界に残りますから、ワタシ自身が皆さんと同じ夢を見ることはないでしょう」
「じゃあ……ロビンはどうする」
端正で生真面目さを貼り付けたようなサンデーの表情がほんのわずかに揺らいで見えた。
「どうして彼女の名が今出てくるのかはいささか分かりかねますが、問題ありません。ロビンは多くの人に慕われ、友人も多い。たとえワタシが居なくとも彼女は楽園の中で理想の歌を奏で続けられるでしょう」
「そうか……そうか。わかった、じゃあやっぱりナシだ」
「……何故でしょうか。少なくともアナタにとって不都合はないはずです」
「俺にとってはな。……ま、そもそも一人の力だけで成り立つ平和なんてたかが知れてる。そういうのはオマエが思ってる以上に脆く弱いんだよ。人生の先輩からの言葉だ、聞いておく価値は多少あると思うぞ」
悠仁はそれを知っている。
たった一人の最強。
彼に頼り、その結果として瓦解してしまった時に起きた混迷を。
「二人とも自分の意見を述べた。星穹列車も答えを出しましょう。あんたに任せるわね、穹。ミハイルさんが言ってたように彼に私たちの選択を教えてあげて」
姫子の言葉に穹は頷き、懐からとある遺物を取り出した。
それは先人のあるナナシビトから受け継いだ開拓の意志を紡ぐ一つの帽子であった。
熱砂の刻パートは尺の都合上泣く泣くカットしました。