「なぜここにいる。ここは僕が許可を下した者にのみ入れる英雄の休息地だぞ」
「ん?……ああ、そっか。前はアグライアに許可もらってたけど今違ぇんだった。すまん、失礼しましたー」
「僕の許可なく出ていいと言った覚えはないのだが?」
「えー……理不尽じゃん」
「ふん、カイザーだから当然だろう。むしろお前は王というくせにあまりにも覇気がなさすぎる」
だから王ではない、と何回言えばいいのか。
いや、わざわざ言ったところで訂正されるとは思えない為、彼は諦めた。
「しかしいいことを聞いたな。僕の後を継ぐのはやはり金織卿だったのか」
「立派な統治者だったよ。黄金裔の皆……いや一人を除いて、皆慕ってた」
悠仁の脳内にフハハハハハという高笑いが響く。
「ならばその者には
「そうだな……あ、そうだ。今の
「誰だ?」
「もしかしてまだ生まれてなかったりするのか。えーと、俺たちがいた頃は神悟の樹庭で教師と学者やってて、眼帯をつけて緑色の髪の……三度の飯より大地獣が好きなヤツ」
「少なくとも僕の配下の黄金裔にそんな名前の奴はいない」
「そうか……輪廻したら渡そうと思ってたんだけどな」
そう言って彼がポケットから取り出したのは小さな赤い結晶。
これは前回の輪廻でアナイクスから渡された呪力に関する彼の記録媒体だ。ここに悠仁から聞いた呪術の内容と、アナイクスがオンパロスで行った"呪い"に対する所感とその使用方法がまとめられている。
来世で会ったらすぐに渡せと言われたのだが、どうやら時期尚早だったらしい。アグライアがまだ半神になっていないことを考えれば納得である。
「ほう、なんだそれは」
「ああ、これは俺とゴラスンでまとめた"呪い"についての記録が残されてるんだってさ。俺、錬金術とか専門外だから使い方わかんねぇけど」
「それを僕の前で言うとはお前も随分肝が据わっている。いや、この場合考えなしと言った方がいいか」
「……これ言ったらまずかったやつ?」
「少なくとも交渉に長けた者は公になぞしないだろうな」
ケリュドラが知っている預言はあくまで「天外からの救世主、そしてその身に宿った呪いの王」と「タイタンを作った星外の神」と「天幕を超えて本物の星空へ旅立つ」ことぐらい。"呪い"そして"呪力"に関する知識は少なくとも存在していないらしい。
「その記録媒体を僕に手渡すのであれば、ここに不法侵入した罪を無かったことにしよう。それとも渡さずに罪を背負って処刑台に立つか?僕はどちらでもいい」
「実質一択しかないじゃん。……別に見られて困るわけじゃないからいいんだけどさ。ほい」
変に言い訳して処刑されたくはない。まあ、処刑されたところで死ぬような肉体ではないのだが。
これからの火を追う旅には他の黄金裔たちの協力が必要不可欠になることを考えれば、この時代の統治者である彼女のいうことはある程度は聞いておいた方がいい。
素直に渡したことにケリュドラは満足そうに頷いた。
「これは後で解析させる。ふむ……呪いか。悪くないな、これも僕が征服するべきものの一つに加えてやろう」
「そんなもん下手に関わらんほうがいいと思うけどな」
「その力でタイタンを越えるほどの強さを持つ貴様に言われても説得力に欠けるな。僕の右腕たる剣旗卿の剣を片手で容易く受け止めたのだ。むしろなぜそれほどの力がありながら他者へ誇示しようとしない?」
「そういうのはもう他の奴で間に合ってるんでな。俺は興味ない」
「つまらない男だな」
「カイザーのお眼鏡には敵わなかったか?」
「いや、構わん。僕の臣下になったのだ。有用な駒であれば十分だとも」
「そりゃどうも」
暴君ではあるが話が通じない人間ではないな、と悠仁は心の中で彼女に対する評価を改める。最初の頃の立ち振る舞いは己が快、不快にのみで動く最悪の王と同じものをうっすら感じ取っていたが、どうやら杞憂だったらしい。
そんな彼の心情も知ってかどうかはわからないが彼女は近くにある杖を使って、チェスの盤を作り上げる。
「チェスをさしたことはあるか?」
「見たことはあるけど、ルールはあんま」
「ほう……宴まで時間がある。喜べ、僕が手解きしてやろう」
「マジ?よろしくおなしゃす、師匠!」
「気安いな……だが"師"か、まあいい。対価としてお前たちのこれまでの旅を話すことを命ずる。包み隠さずな」
「押忍」
宴が始まるまでの間、王たちは英雄のピュエロスで思う存分に語り合った。
駒を配置し、苦しい顔で盤上を見続ける悠仁にケリュドラは鼻息を立てる。そして思い出したかのように駒を握り悠仁の耳元で囁いた。
「ああ、そうだ。一つだけ言い忘れていた」
「ん?」
「この後の宴、僕が何をしようとお前は絶対に動くな。そして何も喋るな」
その命令の意味を聞き返すことはしないまま、悠仁は黙って拾い上げたキングの駒を盤上に置いた。
宴の会場は輪廻の前では神悟の樹庭があった場所であった。
人の賑やかな声が聞こえる。宴会はまだ始まっていないが、人だかりは多く、まもなく始まるのだろう。
宴に入る前に彼らは持ち物のすべてを預けることになってしまった。酒や武器などを持ち込んではいけないのはわかるが、本や羽ペン、識刻アンカーまでも没収されてしまった。カイザーに目をつけられていることを考えれば、ここはいうことを聞いておくべきだと素直に渡しておく。
広場にいる黄金裔たちに挨拶し、主賓たるカイザーの来訪を待つ中で彼らはセイレンスに話しかけにいった。
「来たのか。もてなしに不備はなかったか?」
「全然そんなことないわ。でもカイザーの姿が見当たらないわね」
「焦ることはない、ピンクのウミウシ。……少し、付き合ってもらえるか?」
彼女が連れていったのは人の目のつかない物陰。
懐から取り出したのは黄金色に輝く美酒ともいえるファジェイナの神血の蜜露である。
甘美な口当たりだが、お子ちゃまの穹にはあまり合わなかった。お酒をあまり飲んでいないのでちょっと苦味もある。しっかりとその酒を飲んだことを確認したセイレンスは神妙な面持ちとなった。
「ゆっくりと振り向いてくれ。音を立てずに」
キュレネと顔を見合わせ、セイレンスが指し示す方向を向けば……広場の前にケリュドラとライコスが話し合っている姿があった。
「ライ——むぐ」
声を張り上げようとした穹の口を悠仁が瞬時に塞いだ。
セイレンスによれば、彼女の歌声によって賓客たちは催眠状態となっており、2人の姿を視認できなくなっているらしい。先ほど飲んだのはその催眠状態を打ち消すためのものだった。
「彼がオロニクスの神託と共に降臨し、星々の預言をオクヘイマに届けて以来、火を追う軍は変貌した。たとえその囁きに悪意が潜んでいようとも抗えないのだ。野心に溺れた者は次々とその罠に落ちていった」
セイレンスはライコスのことを疑っている。人々を惑わすその言動の裏に隠されているものを見つけ、ケリュドラに正しい道を示させてほしいそうだ。これは彼女個人の申し出であり、カイザーの剣として真の敵に刃を向けるためのものだ。
「それに今は銀色のシャチもいるのだろう?カイザーとすぐに打ち解けることができたキミの手腕なら説得もそれほど難しくはないはずだ。少なくともワタシが知る限りではあれほどカイザーに臆することなく話したのは見たことがない」
「……なんで俺はシャチなん?」
「最強だからじゃない?」
海の種族らしいセイレンスの独特な呼称は置いておくとして……彼女の目的は穹たちがここに来た目的と合致している。カイザーの信頼を得るためにもライコスの悪意を暴かなければいけない。
宴を楽しんでいるフリをしながら、彼らは二人の会話が聞こえる距離まで近づき、盗み聞きを開始した。
「前置きはいい。簡潔に、具体的に頼む。二度は言わない」
「失礼。旧き『法』に記されたオンパロス閉鎖の条約を修正し、暗黒の潮を再創世の潮流へと導きます。そうすれば『鉄墓』を消し去ろうとする天外の勢力に打撃を与えられ——あなたがこれより歩む果てなき征途に高らかな角笛を響かせることができるでしょう」
「だが星々には鉄墓に敵う者はいないと言っていただろう。誰がそれを消し去れるというのだ」
「仙舟同盟……天才クラブ……そして無法の流れ者たちが集う『星穹列車』。特に『呪いの王』たる虎杖悠仁殿は、完全たる鉄墓にも匹敵するほどの強さです。百折不撓、万象を越えうる可能性を持つ彼がいる限り、あなたの『壊滅』の帝国が築き上げられることは未来永劫存在し得ません」
「排斥したいという割には随分とまあ、奴を買っている様子だな」
「尊敬しているからこそです。それゆえにこの場でいち早く対処しなければ、あなたの征服への道行きは閉ざされてしまいます」
「そう焦るな。どのような者であれ、カイザーを讃えればそれでいい。だが、もう少し貴様の話を聞いておくことにしよう」
今の会話を聞いたところ、どうやらケリュドラは「壊滅」の結末に興味を示しているようだ。
すぐにでもあのライコスとかいう上から目線のオンボロイドをぶち壊したい気分だが、セイレンスが作ってくれた千載一遇の好機を逃すわけにはいかない。ここはおとなしく彼の企みを暴くために、その言動を一言一句聞き漏らさないでおくべきだ。
「もしすべてがうまく行ったとき、僕は『救世主』たちをどう処理すべきだ?」
「…………どうか私にお任せください。彼の身体に埋まった災いのを取り除きカイザーの輝きが失われないことを約束いたしましょう」
「ふむ……お前の提案は考えておく。神礼官、オクヘイマに戻るといい。お前もあの者たちと顔を合わせたくはないだろう?」
「ええ。ここを去る前に、せめて心の盃を掲げて敬意を表しましょう」
これで奴の企みも明らかになった。
あとはカイザーの出征前の挨拶の時に彼女を説得できるかどうかにかかっている。少なくとも、彼女の腹心たるセイレンスがこちらに味方してくれているのだ。決して不可能というわけではない。
だがそんな彼らの希望はこの後、カイザー自らの手で気泡に返される。
「今日の宴は士気を高めるためのものではない。同盟の真の盟友を選抜するため。そして裏切り者の首を斬り落とし、諸君らへの盃としよう!」
周囲の配下たちがざわつき始める。よくない雰囲気だ。ケリュドラの有無を言わさぬ気迫がその場を沈め、その発言の真意を語り出す。
「『剣旗卿』セイレンス……かの者はセイレーンの歌で人々を惑わし、共犯者の姿を誰の目にも映らないようにしていた。さらに天外の者と結託し機密を盗み聞き、火種を強奪、そしてこのカイザーを殺めようとしたのだ!」
喧騒はやがて殺気と怒気に移り変わり、ケリュドラの兵士たちが彼らを囲う。
急いで「鉄墓」の危険性とライコスの思惑は決してケリュドラのためにはならないと説得する。「開拓」の志は探索、理解、構築、連係にあり、銀河にある無数の世界と繋がるための架け橋なのだと穹は言ってみせた。しかし、ケリュドラは彼の意見に賛同する素振りすら見せない。
「もういい……門の刻が来る前にその者どもに反逆者に相応しい結末を与えるとしよう」
そう言って周囲の配下たちに捕縛を命じ……意外にもそれを止めたのは予想外の人物だった。
「茶番は結構ですよ、カイザー。やはりあなたは誰よりも野心を重んじているようで」
「まだいたのか」
「ええ、神礼の観衆として、ナナシビトの末路を見届けないわけにはいきませんので」
現れたのはオクヘイマへ帰っていたはずのライコスの姿だった。彼がこちら側へと歩いていくにつれ、周囲の人間は泡のように消えていく。
ケリュドラへと近づこうとするライコスをセイレンスは懐から抜いた剣で牽制する。
「むしろあなたが答えを持っているのかもしれませんね。カイザーのような強引な方が、わざわざ一芝居を打って……『押送』という稚拙な言い訳を使ってまで『救世主』の身を守ろうとしたのか……」
「お前はどうなんだ、リュクルゴス。大いなる力を持っておきながら凡人のふりをして僕にへりくだるとは」
どうやらケリュドラは元々彼らを捕まえるつもりはなかったらしい。いや、あえて罪人として捕まえ、護送という名目で守ろうとしたのだろう。
宴の前に悠仁に何もするなと命令していた理由はこういうことだったのか。強引なやり方だが、仲間の身を守ろうとしてくれたことを考えれば文句も言えない。どちらかといえば守るというよりかは、自分の手駒にしようとした、の方が適切かもしれないが。
どちらにしろ、真摯な姿勢を貫き通したこちらの勝ち、ということだ。
「誤解しないでください。私は実験を自主的かつ綿密に、そして完璧に進めるために余計な問題を避けようとしているだけ……部外者からの干渉は非効率で醜悪な結果を招いてしまいますから。約束を破られた以上、管理者として、それを見過ごすわけにはいきません。義務を果たして、制御不能になった要素を排除しなければ」
そう言ってライコスは視線をこちらへ向けた。
「たとえば、あなた————そして彼のような存在をね」
「させるか!」
応戦するためバットを取り出し……彼の肉体がまるで時が止められたかのように動かなくなる。
「さあ、審判の時です。あなたのために檻を用意しておきました。『知恵』の名のもとに案内いたしましょう。——私と同じように、どうぞ牢獄へお入りください」
「「俺/僕の許可なく動くな」」
ケリュドラが合図を出し、セイレンスが剣を振るうもその刃先は2本の指でいとも容易く受け止められる。
契闊によってデータによる束縛を断ち切った悠仁が隙のできたライコスに向けて「御厨子」を放とうとし……集められた呪力が途中で霧散した。
「……チッ、またか」
以前、オンパロスに訪れた時に起きた術式の「忘却」。それが再発した。
「記憶」の力でキュレネに頼ろうにも、どういうわけか彼女の姿も見つからない。
「臣下の運命を裁けるのは君主だけだ」
「いいえ、カイザー。運命を裁けるのは君主ではなく……」
セイレンスの剣を弾けば彼女の体も大きく後ろへ飛ばされる。
「神——なのです」
包み込むように手を前に出し、穹の肉体をこの世からシャットアウトさせた。
その場に救世主の姿は消え、後に残されたのはセイレンスとケリュドラ。そして……
『何?』
身体が透け、幽霊のように半透明な姿になった悠仁の姿だった。
「あなたを牢獄に入れたところで『御厨子』で斬り破られるのがオチでしょう。ですので……
『穹をどこにやった』
「落ち着いてください。彼はもちろん無事です。ですが……戻ってくるのはすべてが終わった後になるでしょう」
「おい。僕を無視するな。お前は今、私刑を行使した。このような『法』に背く行為は万死に値するぞ」
「あなたも見たでしょう。私は手のひらを合わせただけでこの世界から命を排除できる。まだご自分の立場を理解していらっしゃらないようなので、改めて申し上げますが……あなたに与えられた選択肢は2つ。協力するか、滅亡するかのどちらかです」
「ハッタリだな。そんなことができるなら、さっさと僕を殺せばいい。しかし、お前にはできない。そうだろう?」
「
それではお互いに対抗手段がないように思われるが、ケリュドラの考えは違う。
「天秤の均衡を崩したければ……外の力を借りればいい」
彼女が懐から取り出したのは、宴の前に回収された識刻アンカーだった。
起動すると同時に現れたのはヘルタとスクリューガムのホログラム。過去の天才と現在の天才が神の一瞥が交わるこの地で邂逅を果たす。
『やっと先輩に会えた』
『貴方がこれまで成し遂げた数々の偉業には、心から敬意を表します。ですが……今の立場については、非常に残念に思います』
「お前たちがヤツの言っていた頼れる天外の盟友か。ならばその実力を以って、僕に『運命』の力を見せてくれ。苦労してこの天外の品を手に入れたのはまさにこの瞬間のためなのだから」
現在の
しかし、そのライコス本人に焦りは微塵もなかった。最初に選ばれた天才がこのような状況を想定していないわけがない。
「想像してみてください。もし私がオクヘイマを無惨に踏み躙り、住民を灰にしてしまったら、あなたたち英雄は私に立ち向かうために、再び半神に縋るのではありませんか?……鉄墓は必ず誕生します。この身が枷に縛られていようと、『壊滅』を降臨させる方法はいくらでもある。先ほど述べたのは一例に過ぎません」
そう言ってライコスは跡形もなくその場を立ち去ることになった。
『それで……俺の今の体はどうなってんの?』
『簡潔に言えば幽霊ってのが正しいかな。オンパロス人みたいなデータと『記憶』の憶質で構成されてるけど存在規定がすっごく曖昧。記憶域ミームみたいな仮想の肉体すら持ってない』
オクヘイマに戻った彼らは今後の方針についてどうするべきかを話し合っている。救世主である穹はどこかへ消えてしまった。キュレネは戻ってきたが消えていた理由を覚えていない。そして悠仁は自身の肉体を失い、半霊のような状態になっている。
器であった穹が消えてしまった影響で呪力を失っている。かつてピノコニーでダリアに連れ去られた状況に似ているが、あの頃とは違いデータの肉体すら持っていないため物理的に触れることすらままならない。
『だいぶ厳しいな、こりゃ……』
何もできずただ見ているだけというのは少し精神的にキツイものがある。だがそんな憂鬱をカイザーは歯牙にもかけなかった。
「ふん、みっともない弱音を吐くな。僕はあのような男に首を垂らすつもりはない」
『俺だってない。ただどうすっかなって。このままじゃ俺役立たずじゃん』
「なら全てを僕に捧げろ。お前が持つ知識も記憶もすべてをこのカイザーにな。今の貴様にできるのはそれだけだろう」
『天外のことは全部話したろ』
「そうだな。お前は馬鹿正直に包み隠さず天外での旅路を話した。だが……お前自身のことはまだ何も聞いていない。どのようにして数億年も眠りについた?なぜその力を手に入れるに至った?すべてを話すまで僕から逃れられるとでも思うな」
『そんな聞かせるようなもんじゃねぇって』
「お前の事情なぞ僕は知らん」
『理不尽ー……』
相変わらずの暴君っぷりにドン引きどころか乾いた笑いすら出てくる。
せっかくの可愛らしい顔が台無しだ。だがその傲慢さが彼女をカイザーにまで押し上げたのだろう。
「勝つぞ——
「——応!」
光歴3960年、オクヘイマにライコスが襲撃を開始する。
——闇より出て闇より黒く、その穢れを禊ぎ祓え
「これは……」
ライコスがオクヘイマにたどり着いたとき、彼の目の前にあったのは聖都を覆い隠す巨大な黒い球体だった。それに触れても黒い結界はうんともすんとも言わず、ただ波紋を広げていくだけ。
『帷だ。知ってるだろ?』
声をかけたのは他でもない虎杖悠仁だった。肉体は透け今にも消えてしまいそうな儚さがある。
「帳!ええ、あなたの記憶で知っています。簡易的な結界術であり一般人の侵入を防ぐもの、と。実際こうして目に見るとやはり素晴らしい……」
『俺のものじゃねぇけどな。誰かさんのせいで呪力が使えないから』
「ではカイザー?それともキュレネ殿ですか?……なるほど、アナクサゴラス殿の記録ですね。他者にも口伝できるよう記していたのはさすが教えを説いていただけはある」
もう一度、触れてみるがやはり中に侵入できる様子はない。
ライコスもまた、オンパロスでの無数の実験を経て呪力を扱うことができるようになっていた。だからこそ、その帳が自分自身を弾くものだと理解する。
「私の侵入を防ぐ代わりにそれ以外の者の出入りを許す"縛り"ですか。それに加え、あなたを外部に出しておくことでさらに強固としている。上手くできていますね」
『一目で見抜かれたか。ま、そういうことだ。火種が欲しかったんだろうが入れないだろうし、さっさと帰れ。しっしっ』
「ふふ、確かに。あなたの言うとおり、この結界は私ではどうにも破れないようです。ですが……」
彼がその機械の肉体の指を鳴らし、その背中からタイタンの眷属と暗黒の潮の造物たちが出現する。
セプターの管理者たるライコスにのみ許された召喚物。かつてオンパロスに蔓延っていたモノと正確には違うものの、その力は本体に相違ない力を持つ。
「私自身が回収する必要はないのですよ」
彼の背後の現れた召喚物の軍隊は千を簡単に超えるほどの数があった。あれが聖都に攻め込めば、間違いなく争いが発生し多くの市民や戦士たちが巻き込まれるだろう。
「あなたはきっと時間稼ぎをしに来たのでしょう。流石ですね、その素晴らしい心意気は賞賛に値します。ですが申し訳ありません…………あなたのそれは徒労に過ぎませんよ。たとえ呪力の無い肉体のみであれどあなたは十分脅威でしたが、魂のみになったあなたには会話しかできませんから」
『……』
ライコスのその発言は的を得ていた。
虎杖悠仁であればたとえ呪力のない肉体のみであれ幾年に鍛え上げられた研鑽によってタイタンの強さにも並びうる。
今の虎杖悠仁には他者に呪力の使い方や結界術の方法を教えることしかできない。
誰もがそう思っていた。
『存護の槍』
暗黒の潮と眷属たちに琥珀色の槍が流星のように降り落ちる。
不意をつかれたその槍雨は分別もなく敵の胴体や頭を撃ち抜き、データで構成された体を粉々にしていった。
「これは……」
天才と呼ばれたザンダーも目の前で起きた現象を理解するのに時間を要する。
召喚物たちを次々と破壊していった琥珀の槍は開拓者が持っていたクリフォトの槍と酷似している。だが、地面に突き刺さった後、その槍は氷の結晶となって粉々に砕けていった。
「『記憶』の力ですか」
『穹よりは少し雑だけどな』
確かに今の虎杖悠仁には呪力も術式も使えない。
だが彼にとってはそれで十分事足りる。
『一瞥をもらったのは穹だけじゃねぇぞ』
半透明になった手のひらには「記憶」の力が込められた本と羽ペンが残されていた。