3355万336回目の輪廻においてアナイクスは領域展開の理論をすでに完成させていた。賢者と呼ばれるほどの頭脳を持つ彼はその真髄に到達する力量を有していたが、かといってそれは一長一短で至れるものではない。
呪力量も、出力も、知識も申し分はない。足りないのは時間だけ。
彼が"呪い"という知識を受け取ってからというものフレイムスティーラーとの交戦などもあった影響で結界術に関する経験が不足していたのだ。
だが彼の今回の輪廻ではほとんど最初から呪力に対する知見を得ていた。帳を下ろせるキュレネの助力もあったことでようやくその真髄に到達する。
結界から遮断され、内部に残されたのはライコスとアナイクスのみ。外部から召喚物に攻撃をさせようにも通信を遮断するように作られている領域の中ではそれも叶わない。
正真正銘の
詰みとまではいかないが、それでも逆転の一手となる相手の技にライコスは焦りを見せない。
「素晴らしい技術です。ですが……」
彌虚葛籠
「……」
「常に学んでいるのはあなた方だけではないのですよ」
ライコスもまた、虎杖悠仁の記憶を通して様々な知見を得ていた。
領域展開を使うような生命体がオンパロスにはいないため、本来使う機会などほとんどないからか、彼の声音はどこか弾んでいる。
彌虚葛籠
領域を持たない弱者のための領域対策。
簡易領域の原型であり、展開された必中効果を打ち消す役割を担っている。ライコスは胸にしまわれていたもう一対の腕を取り出し、手印を結んだのだ。
生来の術式を持っていない機械の肉体であるライコスでは領域を展開することができないが、その対策ぐらいは容易なのだ。
「虎杖殿の領域であれば0.0001秒で削られるほどのヤワなものですが、あなたであればこれで十分でしょう」
隙あらば悠仁を褒めるその熱烈っぷりにイラッとくるが、アナイクスはすぐさま思考を切り替え、自身が愛用している拳銃を取り出した。
必中効果を外されたため、引き金を引いても銃弾が必ずライコスに当たるわけではない。
乱反射する跳弾をライコスは華麗に避けながら、徐々に徐々にと賢者を追い詰めていく。
「ちっ……」
錬成した血の結晶を取り出し爆破させれば多少怯ませることに成功はしたものの、ライコスの動きは止まることを知らない。
ヒットアンドアウェイに徹し、逃げては攻撃を繰り返し続けるが彌虚葛籠は依然として解ける様子を見せないままだ。このまま時間が経てばジリ貧になるのはこちらだろう。
背中向きに逃げながら散弾銃の引き金を引こうとしたその時——彼の背中を一つの巨大な剣が貫いた。
「がはっ」
それは暗黒の潮の造物が使う陣刀。背骨を容易く貫いたそれは彼の腹部から顔を出している。
「これはっ……」
「領域内であっても造物の模造ぐらいなら生成可能なのですよ」
心臓への直撃は避けられたが、内臓のいくつかに大きな傷が入った。流石のアナイクスでも血が出続ければ失血死は免れないだろう。
傷を抑えようとうずくまるアナイクスの元にライコスが近づいていく。
「呪術師の知識を得たというのなら近接戦も心得ておくべきでしたね」
術式に頼りきりになれば基礎を失い足を掬われる。どの時代の最強の術師であろうと肉体を鍛え上げるのを欠かさず行ってきた。
「理性」の半神であるアナイクスはそれでも戦いの心得は多少なりともあるが、「紛争」や「浪漫」に比べてしまえばお世辞も良いところである。
「えぇ……その通り、ですね!」
だが黙ってご高説を聞き続けるほどヤワでもない。
フードの中に隠していたもう一つの拳銃を取り出し、銃口をそのアンティキシラ人の顔に向ける。
秘密裏に習得していた反転術式で傷をライコスから見えない位置で修復をした。相手を油断させ、至近距離で仕留める。ありきたりな作戦だが、単純で傲慢な天才相手にこれほど有力なものはない。
しかし……
「反転術式ですか、もう習得したのですね。流石はアナクサゴラス殿」
向けられた銃身の先を指で掴み、放たれた銃弾を涼しい顔で避けた。
顔を俯かせ、上手いぐらいに誘導できたことにアナイクスはニヤリと笑った。
それもブラフ。片手が塞がり、意識がこちらに向いた今が絶好の機会だ。
「今です、セファリア!」
「詭術」が音速を超え、鋭い爪をもって管理者の頭部を掴もうとし——
「それも、見えていますよ」
銃身を掴んだまま、ライコスは腕を回転させノールックで迫り来る彼女の首を掴み返した。
「ぐっ……なん、で……」
「『死』をも偽造できるあなたのことですからね。神礼の観衆として幾度となく見てその対策は容易です」
領域内に隠れてその隙を狙っていたサフェルは腹部から黄金の血を垂れ流して意識を失ってしまう。
あらかじめ自分が死んだと思わせることで油断したところを奇襲する作戦はあっけなく見破られることとなった。
「おひとつ助言をいたしましょう。油断した敵を相手に味方の名前を呼ばない方がよろしいかと」
そう言ってアナイクスの散弾銃を破壊してみせた。
今度こそ詰み。
満身創痍のアナイクス達を見て、ライコスはそう油断した。
「であれば私からも一つ助言を」
「……?」
「敵の言うことを……馬鹿正直に信じるのはやめた方がいいかと」
サフェルの首を掴んでいたライコスの腕が斬り落とされ、その勢いで彌虚葛籠を作っていた手印も強制的に解除される。神速の如き剣さばきでその腕を斬ったのは他でもない「海洋」の半神、セイレンスだった。
先ほどまで認識できなかったはずの彼女の姿に流石のライコスも反応できず、大きな隙ができた。
「油断したな、神礼官」
「詭術」の力によって作られた「この場にはアナイクスとサフェルしかいない」という嘘。アナイクスの領域展開とサフェルからの奇襲によってライコスの頭からは完全にセイレンスのことが抜け落ちていた。
手印が解かれたことでガラ空きになった彼の胸元に向けて、アナイクスは破壊されずに済んだもう一丁の拳銃を放つ。必中の効果が付与された赤い宝石の弾丸はたしかにライコスの頭蓋に命中した。
錬金術で造られた賢者の石。
それは命中したと同時に粉塵となってはじけた。
「準備は完了しました。あとは……」
死にかけの身体をなんとか動かし、アナイクスは拳銃を自身に向ける。
「私が死ぬだけです」
自身の胸を拳銃で撃ち抜き、彼は自害した。
その突飛的な行動にライコスは疑問を禁じ得ない。彼が死んだのを境に展開されていった領域は次第に霞のように解けて消えていく。
同時に黄金の血を垂れ流して倒れ伏すサフェルとアナイクスの姿もまた徐々に薄れていった。そしてセイレンスは領域から弾かれ、外の世界に戻っていく。
「あとは……任せたよ」
「せいぜい……私たちの犠牲を無駄にしない……ことです」
頭を撃ち抜かれたライコスが顔を見上げれば、その視界の先には12の星座と果てしなく広がる青暗い海洋。
「創世の渦心」。火種を返還する場所にいつの間にか転移していた。
すぐさまオクヘイマへと転移しようとすれば、機械の肉体は永遠にエラーを吐き続け、言うことを聞かない。アナイクスが自死の縛りをもってライコスの転移術を封じ込めたのだ。一人取り残された神礼官はただただ遠くに浮かぶ星空を見つめ続けるしかない。
どこからともなくセイレーンの歌声が響き、管理人は囚人に成り下がる。
こうして火を追う英雄たちは3355万337回目の輪廻にて忌々しき管理人の封印という形で叛逆に成功した。
「俺がいない間にそんなことが……」
長夜月の協力の甲斐もあって、穹はなんとかオクヘイマに戻ることができた。しかし聖都の中は人っ子一人いないもぬけの殻。キュレネが残した「記憶」から彼は牢獄に閉じ込められてから約1000年の時が経過していたことを知る。その間にも数々の黄金裔や悠仁がライコスに果敢にも挑み、そして散っていったことを知る。
ヘルタからの通信によれば「再創世」のプロセスをほんの一部書き換えることに成功したらしく、彼らが修復した「再創世」を行えば鉄墓の進捗をわずかにながらも戻すことができるのだそう。次に彼が取るべき行動は演算を急いでリセットして少しでも時間稼ぎをするために再創世をすることである。
『それと、おじいちゃんの行方だけど今私とスクリューガムで捜索してる最中だから、そっちはそっちのやるべきことに集中しておいて』
『余計な悩みは全部捨てて、笑顔と決意だけを持って明日へ向かうのよ』
ヘルタとキュレネの激励に言葉に穹は面をあげ、沈みかけていた心を立ち直らせる。
ヒアンシーが「天空」の力で残してくれたスティコシアへ続く虹の道を登り、最後の戦場へと赴いた。目指すべき場所は「海洋」の半神が守護する渦心の入り口。
残された暗黒の潮の造物、変わり果てた姿のセイレーン、そして封印されたライコスからの通信をくぐり抜けながら「記憶」の力でかつて起こった惨状を目にしていく。しかし穹の心にヒビが入ることはない。決意を胸に、その囚人が閉じ込められた最奥へと向かう。
命を捧げ散っていった黄金裔たちの名が刻まれた墓跡。
「法」の半神——「カイザー」ケリュドラ 光歴3960年に逝去
「大地」の半神——荒笛 光歴3961年に逝去
「浪漫」の半神——アグライア 光歴4061年に逝去
「死」の半神——キャストリス 光歴4123年に逝去
「紛争」の半神——メデイモス 光歴4284年に逝去
「詭術」の半神——セファリア 光歴4534年に逝去
「理性」の半神——アナクサゴラス 光歴4534年に逝去
「天空」の半神——ヒアシンシア 光歴4602年に逝去
「海洋」の半神——ヘレクトラ 光歴 年に逝去
かつてセイレンスからもらったファジェイナの蜜露を彼らに捧げる。
セイレーンの眠りから目を覚まさせる美酒。その力でライコスを封印するために眠り続けているセイレンスを起こすのだ。
英雄の叙事詩が間も無く最終章へと突入する。
海が息を吹き返す。さざ波の木霊、魚の鼓動、目を覚ました「海洋」の半神が姿を現す。
「ワタシの宴はこれで終わり……ここからは君の舞台だ」
彼女が作り上げた海水の鯨に呑まれ、そのまま二人は海の中へと沈み昇っていく。
12の星座が刻まれた星空の下、彼らは1000年ぶりの再会を果たす。
「よく来てくれた、灰色の小魚」
「待たせてごめん……」
「ふふ……いや虚しい深海の中で微かな光を見つけたのはこれ以上ない慰めだった。忘れ去られた人々に比べればワタシに苦しむ資格などない。英雄たちはこの瞬間を待ち続けてきた。今こそ、剣を以って己の意志を示そう」
「ああ」
視線の先には「火種」を返還するための大釜。
そして……「運命」に囚われた哀れな管理人が姿を現す。
「ライコス……いやザンダー!」
「ふむ、やはり私のことをご存知でしたか。いえ、虎杖殿にはすでに明かしていたため当然と言えば当然ですが」
はじまりの天才——ザンダー・ワン・クワバラは苦悩した。
己が生み出した神もどきが人間の可能性を閉ざし、「運命」という枷をつけたことを。「其」の誕生により人類も永遠に「星神」という名の洞窟に囚われてしまったことを。
自我を書き換え、ロジックコアの一つとなったリュクルゴスは「鉄墓」を使い、生命を真のランダム関数へと昇華させる。それは「知恵」の殞落を意味し、世界の「壊滅」を招くだろう。
「そしてその鍵を握るものこそ『呪力』!其ですら解き明かすことのできなかったこの未知を使って私はこの銀河に再び『呪力』を散らせ、新たな変革をもたらしましょう!」
「——ライコス、ふざけるのも大概にしろ」
「灰色の小魚?」
彼らしくない、ドスの効いた声をあげ怒りを全面的に現す穹にセイレンスは少しだけ戸惑う。
歯をくいしばる音が微かに聞こえ、力一杯握りしめていた手からは血が滲み出しかけていた。琥珀の槍を取り出し、その槍先をライコスへと向ける。
「悠仁が……悠仁が何百年もかけて終わらせた呪いの連鎖をここで廻すつもりなら……俺はお前を一生許さない!」
「灰色の小魚の言う通りだ。銀色のシャチの……そしてこれまでの黄金裔たちの奮闘をなかったことにするつもりはない。かつてカイザーに仕え、そして今は救世主の刃となったワタシは最後まで運命に抗い続けると誓おう」
セイレンスもまた、剣を取り出し管理人へと向ける。
「素晴らしい戦士の精神、大変感服いたしました。その姿勢に敬意を示しまして、この歴史的瞬間に、私も本当の自分を見せ、微力ながら皆さんに学術的なアドバイスを差し上げましょう」
囚人は英雄に芝居かかった演技で平伏し、そして手を広げる。
「この言葉は天才クラブ#1ザンダー・ワン・クワバラ、宇宙の始まりと終わりのエンテレケイアのもの——」
"真理に怒りを抱く必要はありません。方程式に価値があるとすれば、それは答えそのもの——"
"解へ至る過程が、優雅であれ、苛烈であれ、荘厳であれ、滑稽であれ——結局はすべてが無意味なのですから"
「神礼の観衆として——私は……」
機械の肉体は空を浮き、データの羅列、巨大な配線が背中に突き刺さる。
顔を隠していた仮面が剥ぎ落ち、細々としていた肉体は筋骨がむき出しになった隆々なものへと変わる。
「世界の終幕に出演する」
最初の天才、そして最後の囚人が英雄たちの前に立ち塞がった。
足元から召喚されたのはタイタンの造物を模倣した「記憶」の精霊。自分の肉体と同じサイズの武器を構え、穹たちに牙を剥いた。
「忘れないでください——ヌースの創造主として私は其よりも『知識の死』とはなんたるかを理解していることを」
炎の槍を投擲し、造物の頭部へと投げつけ赤血操術で飛んでいった槍の持ち手を掴み、遠心力を利用してライコスへと投げつけた。管理人は存護の槍を指先で掴み、そして軽く弾く。
手元がガラ空きになった穹に召喚物が放った矢が迫るもそれはすんでの所でセイレンスの剣に真っ二つにされた。
「雑魚はワタシが祓う。キミはライコスを狙い続けてくれ!」
「応!」
剣旗は華麗な剣捌きで次々に召喚物たちの頭を落とす。一方で穹はこれでもかとザンダーを狙い続けた。
「壊滅」のバットと、血で作り上げたバットの二つを持ち上げ、悠々自適に宙に漂う天才に振り上げる。倍の威力を持っている彼の攻撃を機械の片腕で受け止め、そのまま穹を殴り返す。
「脆弱性、除去」
血液でコーティングされた存護の槍でかろうじて防ぐも後方へと穹は吹き飛ばされ、それに追撃を出すように空から無数のビームが降り注いでいく。
血で覆われた琥珀の表面を削りながら、穹は血の糸で一体の造物を縛り上げ他の召喚物へと投擲した。彫刻の肉体をもった造物は隕石のように地面へと叩きつけられ、他の召喚物も巻き込む。
「ロゴスにアクセス」
いつの間にか床の上に幾つかの光球が出現し、輝き始めると同時にそれは一つの羅列となって繋がり穹たちを囲っていく。セイレンスが巨大な鯨を召喚し、二人の体を上空へと飛ばした。そして先ほど彼らが立っていた場所は熱と光によって焦土となっている。
「灰色の小魚、使え!」
宙に上がったセイレンスが投げ渡してきたのは水の球体。
「海洋」の力によって極限にまで圧縮された水球の用途を穹は直感で理解した。
ぱしんと両手で挟み込み、狙いを定める。
指先は前に、手は閉じた状態で、最大限の圧力を込めて!
「——穿血!!」
尋常ではない高圧によって凝縮されていた水球は弾け、レーザーカッターのようにライコスの無駄に分厚い面の皮を剥がし落とした。
今の穹は「赤血操術」の基礎を修得済みではあるものの、血の凝縮に関しては半人前。ゆえにあえて先にセイレンスに擬似的な百蘞を作ってもらうことにしておいたのだ。
意識外の距離からの攻撃に対処はできなかったものの、面を削ぎ落とされたライコスに焦りはまったく見られなかった。
「『壊滅』とは何か、語るまでもありません。つまらない推理は飛ばしましょう」
致命傷ではないのか、その剥がれた顔の中から機械らしい青色の複眼が現れる。それと同時に背中に接続されていた配線は千切れ、もう一対の腕が追加された。
背中に生えたもう一つの両腕の指を鳴らせば、タイタンの眷属はたちまち暗黒の潮の造物に姿を変える。彫刻は崩れ、呪いが増殖を始める。彼が「虎杖悠仁」の記憶から作り出した呪いを使い、そして成った「論証」。
「重力崩壊。コマンド読み込み中……」
双剣を操る暗黒の潮が津波のように一気に押し寄せ、二人の周囲を取り囲む。セイレンスが「海洋」の力で魚群を生み出し押し返していく。暗黒に染められた立方体の箱が出現し、敵味方区別なく焼き落とす。
存護の盾を使い最小限のダメージでなんとか抑えながら、槍のエネルギーを爆発させ暗黒の潮の波を飛び越えてライコスへと迫る。
「はあ!」
顔面を粉々にしようとしたバットは背中についた両腕で白刃取りのように受け止められ、空いた胴体にもう一対の拳がめり込んだ。
——黒閃
黒い火花は平等に微笑む。
「————っ!」
「救世主!」
もろに当たったその拳の痛みはもはや叫ぶ暇すらも与えてくれない。口元から血を流しながら、創世の渦心の海中へと落ちていった。吹き出した血がライコスの顔に降りかかり、彼はそれを片手でそっと拭ってみせた。
「言ったはずです。その力を扱えるのはあなたたちだけではないと」
そして次はお前だと言わんばかりにライコスはセイレンスに人差し指を向けた。
エネルギーが収束し……ライコスの掌で彼の意志に関係なく爆ぜる。四本あるうちの一本の腕が完全に機能を停止する。
先ほど穹の口から吐き出されかけられた血液が爆発したのだ。しかしそれだけであれば、機能不全にまではいかないはず。原因は他にもあった。
「やはり虎杖殿に一度完膚無きまでに破壊されたのが痛手でしたね」
オンパロスにあるライコスの肉体はあくまで本体からの投影。本来なら他者からの破壊行為を受けたとしてもある程度時間を置けば完全に復活できるはずだった。
しかし相手はあの魔虚羅。存在適応されたことによってオンパロスにおけるアンティキシラ人としてのデータが破壊されたことにより、肉体に綻びが生じたのだろう。黄金裔たちの抵抗に気を取られていたこともあり、彼は今の状態になるまで自身の肉体の違和感に気づくことができなかった。
その間にセイレンスは海水を巧みに操って海中に沈みかけていた穹の肉体をなんとか地上へ押し戻す。殴られる直前に腹部に全呪力を注いでいたおかげかなんとか戦闘は継続できる状態だ。陸地で押し上げられた穹は息絶え絶えになりながらもなんとか体勢を整える。
「灰色の小魚!」
「……大丈夫!」
震える足を何度も叩き武者震いを止める。
休めなどと言える状況でもないためか、セイレンスはその痩せ我慢に苦しい表情で頷き、再び剣を構えた。
穹は出血を体内の血液循環でなんとか抑え、ふらついていた意識を完全に戻した。そしてすぐさま「穿血」の構えを取り、ライコスに向けて血の液体を発射する。
しかし完璧に圧縮されていない穿血の速度は本来のものとは比べ物にならないほど遅く、ライコスは一直線に向かってきたそれを簡単に避けてしまった。
「終わりですか?」
しかしライコスが煽るようにこちらを振り向いた途端、遅速で進んでいた血は四つに枝分かれし大蛇のようにライコスの身体を覆っていった。
「赤縛!」
穹が手についた血の束を引っ張れば、油断しきっていたライコスはいとも簡単に捕縛された。手首から出る血を蜘蛛の糸のように巻き取り、釣り竿のように勢いよく引っ張る。わずかに動いたその体に目掛けて勢いよく飛び上がった穹はそのまま管理者の顔面に力強く拳を命中させる。
——黒閃!
黒い稲妻が響き渡り、巨大なザンダーの身体を大きく揺らす。もろに当たったその雷鳴はライコスの思考回路を一時中断させるのに十分。
なんとか地面に着地した彼の肉体のふらつきからセイレンスはその弱点を正確に見抜いてみせた。
「見えた!胸椎と腰椎の接合部、そこを壊せ!」
配線が火花を散らし、管理人はその強襲に反応できない。セイレーンが音を奏でれば、巨大な鯨が荒波を起こしそれに乗っかる形で穹は火槍を携えてライコスを穿ち抜いた。弱点を貫かれたザンダーはそのまま穹の後方から訪れた荒波に呑まれ、海洋の中に沈んでいく。
「今のうちに火種を!」
「わかった!」
敵の最期を看取る暇もなく、長夜月からもらったケファレの火種を取り出し渦心の盃へとかざす。
青い結晶が光り輝き、世界へと還るその瞬間——
「すべては徒労」
火種は電子の籠に囚われ、穹の手の中からはじかれる。
沈んでいた海洋からザンダーは何事もなかったかのように姿を現す。両手を掲げ、その手の中から凝縮されたエネルギーコアを暴発させた。
赤黒く発光し、周囲のすべてを巻き込むエネルギーの塊が穹たちに飛来する。セイレンスが魚群の弾丸を生み出し対抗しようとするが、その群れはなんの効果もないまま霧散していった。
「叙事詩の閉幕は『知恵』の計算の中で——いずれ消される注釈なのです」
穹の瞳が最後に映したのは無慈悲にすべてを砕く「壊滅」の因子の塊だけだった。
「その冷たい言い方、好きじゃないわ」
聞こえたのは懐かしい彼女の声。
暗がりは消え、目の前には白光に包まれた世界と一つの本。
「数字の羅列で結末が決まるなら、あたしたちの手で……書き直しましょう」
「記憶」の精霊たる桃色の髪の少女の姿が目の前に現れる。ミームの肉体である彼女の手を握り、「歳月」の力を受け取る。紙に文字を綴り、記し、遺し、そしてそれを破り宙へ捨てた。
「歳月」が叛逆を起こす。
気づけばザンダーは創世の渦心に立っていた。背中から熱と光を伴った槍が迫り、その体を貫かれる。鯨が口を開き、再びザンダーは海洋に呑まれていった。
ケファレの火種をすぐさま取り出し渦心に返還しようとし、またもやそれを妨害するようにライコスがデータの爆発を起こす。
「無駄です。たとえ歳月を武器にしたところで……」
綴る。書き記す。ページを破る。
そしてデータが逆流する。
場所は再び戻り、ライコスは琥珀の槍に貫かれ、鯨に呑まれ、そして再び目の前の障害を排除する。
「輪廻を超えた存在であるこの身を破ることなど」
書き残す。記す。ページを破り投げる。
貫き、穿ち、何度も何度も挑み続ける。
永遠に繰り返される不朽の1ページ。たった10秒の永劫回帰。
戦場の「記憶」は繰り返され、何度もページは破られる。延々と続くシーンを開拓者は書き続けていった。
「……」
管理人は指を鳴らし、そのループ再生を停止する。
かつて穹を閉じ込めていた牢獄。
「どんな劇でも……一度舞台に上がったら、もう観衆には戻れない」
可憐な少女の声が耳に入る。
「ようこそ、あたしたちの物語へ。気分はどう?」
桃色の少女が可愛らしげにウィンクを示し、看守はやがて囚人となった。
「歳月」の力だけではオンパロスの演算を循環させることなどできない。これはシステムの乱れではなく、ライコスの脳内に『記憶』のミームが埋め込まれたことが原因だ。天才たちと一人の少女の作戦は功を成し、管理者を記憶域へと閉じ込めることに成功する。
通信が回復した天才たちも姿を現し、ライコスはもはや袋のネズミ状態。しかし、それでも彼の余裕な態度は崩れることはなかった。
「——それにしてもこの実験で用いた12の因子による生命シミュレーションは予想を遥かに上回るものでしたね」
『何それ、そんな意地っぱりの結論を遺言にするつもり?「静寂の主」に残りのコピー8体を全部片付けられたくなかったら考え直した方がいいよ?』
「どうか落ち着いてください。学術の先輩として一つ助言を。みなさん、黄金裔たちがそうしたように『天外』へと視野を広げてみてください。そうすれば自ずとわかるでしょう、オンパロスは3つの運命が死闘を繰り広げる戦場だということを」
『いいえ、不要です。それにあなたのその提案は一部訂正箇所があります』
「……ほう、それはいったい?」
『もしかしてまだ気づいてないの?機械頭にしちゃったせいで脳みその中身までカチコチになっちゃったみたいだね。いいよ、教えてあげる』
この地で一瞥が交わっているのは「壊滅」「知恵」そして「記憶」。その三つだけだと天才もメモキーパーもそう言っていた。だが最終的に辿り着いた結論は違う。
『でもソレは違うオンパロスで交わっている運命は……
シャチ→鯱→魚+虎
ヒアンシーの別衣装めっちゃ可愛かったですね。