※本作品はフィクションであり、作中にて登場する大会記録等は全て架空のものです。
1番じゃなきゃ駄目なんだ。ただ1着でゴールするだけじゃなくて、自分が100メートルを誰よりも速く走れるということを証明しないと、オレはこの世界に生まれた意味がない_
2011年8月4日。全国高等学校陸上競技対校選手権大会。男子100M走決勝。
『第1レーン、
決勝進出者8人がそれぞれのナンバーブロックの前に揃うのを合図に、1レーンの選手の名前を淡々と告げるコールが微かなざわめきを伴う競技場に響き渡り、続けてこの場所まで勝ち抜いた1人1人へ拍手が向けられる。
『第2レーン_』
何度経験しても未だに重さを感じる、内側のレーンから順番に自分の名前が呼ばれるまでの圧に似た独特な空気。それに釣られて約1分後に迫るスタートに向かって身体の真ん中から暴れ出さんと沸き上がっていくアドレナリンと緊張を、手足を軽く慣らし適度に分散させる。
大丈夫だ。いつもと同じ感覚のままでいれば何の問題もない。そう自信を持って言えるくらいにはこの身体と
『第3レーン、
あっという間に、俺がいま立っているレーンと名前がコールされる。名前を告げられた刹那、ここから数十メートル先で俺と2つ隣のレーンに立つチームメイトの応援に来た仲間たちの声援がざわめきと拍手に混ざって耳の中に届いて小さく響く。
「…ふっ」
瞬間に湧き出てふっと深呼吸をして落ち着かせた、理性を超えた鳥肌が立つほどの高揚感。もうこの景色は小学生のときから何度も見てきたはずなのに、スタートラインがインターハイの決勝になっただけで、どうしてこんなにも心が躍るのだろう。
『第4レーン_』
右隣に立つ選手の名前がコールされた直後、支部大会からここまでを勝ち抜いた8人が立つトラックへと向けられたざわめきが、さざ波が引くかのように静まり返る。まるで嵐の前の静けさを絵に描いたような不気味な静寂が容赦なくトラックを支配し、平常を保ちたいこの心を揺さぶる。
道啓……オレやるよ_
自分を含めて周りが異様な空気に飲まれないように自我をコントロールすることで精一杯の中、ただ一人5レーンに立つ
『第5レーン、
5レーンのチームメイトの名前が告げられた瞬間、静寂に包まれていた観客席が堰を切って沸き立つ。インターハイはおろか日本選手権の決勝でも経験することのないほどのスタンドの盛り上がりが、スプリンターとしては小柄な170cmの身体に凄まじい勢いで圧し掛かる。
(ほんとにさ、なんで
容赦なく襲い掛かる期待と重圧を前に、風馬はゴールを見据えたまま両手でフレームの形を作って100メートル先にある景色を捉え、フレームを解くと再び100メートル先のゴールへ視線と意識を集中させてあっという間に自分だけの世界へと入っていく。自分の名前がコールされるたびに必ず行うルーティンと、直後に沸き立つ視界に入れることさえ躊躇うほどの殺気に合わせて、スタンドの歓声は最高潮にまで上がった直後に風馬がゾーンへ入っていくのと比例してサッと静まりただのざわめきへと変わる。
『第6レーン_』
ただレーンに立つだけで競技場全体の空気を支配し、過剰なまでに突き付けられる注目という名の重圧さえも味方に付けるカリスマ性と、常軌を逸しているとしか思えないまでに1着でゴールすることよりも己の速さへ執着する狂気的な生き様。
矢沢風馬というスプリンターは、何から何まで
『続いてはスポーツです。先ずは今日行われた陸上の日本選手権で、あの“スーパー高校生”が陸上界の歴史を動かしました』
6月に行われた日本選手権の男子100M走決勝で、高校生が日本記録タイにしてU20世界記録となる10秒00(±0.0)で優勝を成し遂げ、高校生として初となる世界選手権の代表内定を勝ち取った。日本の陸上界において前人未到となるこの偉業は海を越えて海外のメディアからも取り上げられ、中学時代から“日本の陸上界を大きく変えうる逸材”と言われてきた風馬はこの日を境に世界からも注目される期待の新星になった。
「オレん中にある全部を出し切って1位にもなれたのに、何でこんなに悔しいんだろうな?」
スタブロを蹴り出すリアクションからゴールラインを通過するまで傍から見れば会心という言葉以外が思いつかないほど完璧な走りをして、自分自身も全てを出し切れたと言い切れるほどの走りが出来たという確かな手応えを感じていたにも関わらず、レースを終えたあとの風馬の
「いまのお前に
外野が勝手に目標だと思い込んでいた領域に当事者の手が触れる瞬間をこの眼で目撃したとき、風馬にとって10秒の壁を超えるというものは目標ではなく単なる通過点でしかなかったことを、俺は本当の意味で理解してしまった。
「…分かっているなら、そんな寂しそうな顔なんて出来ないよな」
『オンユアマークス』
コールが終わり“位置につけ”の合図がトラックへ響き渡ると、ざわついていたスタンドが一気に静まり返り、スタート地点に立つ8人のスプリンターは合図と沈黙を共にナンバーブロックからスターティングブロックへと各自のペースで足を進める。
「……」
軽く1回ジャンプをして脚を慣らしスタブロに両足、地面に両手を付けてその
……俺は勝つ……
視線をタータンへ落として、外側から押し寄せるありとあらゆる不安と油断を意識から排除して、ただひたすらに己へと言い聞かせる。これから同じ直線を駆け抜ける相手が誰であろうと、俺は本気で勝つためにこの場所に立っている。この中で自分が100メートルの直線を1着で走り抜けられると信じることが出来ない奴に、勝利は絶対にない。
……俺が勝つ……
眼に映る意識から余計な情景が消えていき、3レーンの一本道だけが見え始める。
走路を照らすは穏やかな快晴。
身体を撫ぜるは微かな追い風。
目の前に広がるこの道を駆け抜けるのに、これ以上に最高のコンディションはない。
『セット』
五感が極限まで研ぎ澄まされた耳元に、最後の声が届く。自分の心臓の音さえも聞こえる沈黙の中、極限状態の集中を保ったまま後脚を上げ、号砲を待つ。後はもう、ここまで走り続けたこの身体と
オレは信じてるよ……
パンッ
号砲が午後の空に鳴り響く一瞬と共に、前脚を蹴り出して飛び出す。一時的にアドレナリンが凄まじい早さで身体を巡ったせいで前へ前へと焦らそうと暴れ出す本能を、ハイになる一歩手前で留まり続ける理性で抑えて前傾姿勢のまま蹴り出した勢いを乗せた両脚でトップスピードまで加速させていく。練習を含めればもう数えきれない数だけスタートを重ねてきたが、序盤の手応えは今までで一番だ。
「…っ!」
20メートル過ぎ。
後はこのまま、勢いを保つだけ。
すぐさま言い聞かせ、ただ80メートルをピークに合わせながら前に進むことだけに意識を研ぐ。欲望のまま一度走り出したこの身体を更に加速させるために力むのは、短距離を最速で駆けるスプリンターにとってはご法度の自殺行為。ここで焦って勝手に失速していった奴をこれまでに俺はこの眼で何人も見てきた。
そして俺もそういった失敗を経て、このレーンをいま走っている。幾度の失敗と敗北を経たからこそ、自我を飲み込むほどの強欲に屈することなく俺は走り続けられている。
俺がここまで来れているのは、紛れもなく……
(…なんで
誰もいなかった視界の斜め前に、同じユニフォームを着た少し小さな背中が映る。ゴールへ向かって一歩ずつ脚を動かす度に、軽やかで力強い流麗なフォームで5レーンを駆ける背中は3レーンを走るこの身体をスッと突き放していく。高校でチームメイトになってからの3年間、心底嫌になるほど見てきた景色。歪な横一線から1人抜け出して、影すら踏ませず俺を突き放していくライバルの背中。
(知ってたさ。俺はまだ、お前を脅かすライバルにはなれていないってことぐらいは…)
本当は戦う前から分かっていた。ただ一人だけ別の
それが俺にとってトラックを走り続けられるモチベーションであって、走ることが好きなままで居続けられた理由だった。
(…落ちてきたな)
2着で100メートルを走り切れさえすれば、それで十分……なんて実質1位を受け入れる妥協した結果で終わらせる気は端から無く、一定のリズムで一歩を刻むごとに遠のいていく風馬の背中と影にどうにか縋り付こうとする気持ちに反して、終盤の20メートルに差し掛かりじわじわとこの身体のスピードが落ち始め、背中が遠ざかっていく。とはいえこのままのペースで走り抜ければ、ほぼ間違いなく自己ベストは出せるだろう。もう頭の中では、全てを出し切れた記録があと数秒後には出ているという確信が流れ始めている。
(これ以上ないってくらい速く走れているのに……なんで俺は1位じゃないんだろうな…)
アドレナリンに混ざって僅かに感情を刺激した束の間の喜びは、次の一歩で受け入れ難い無慈悲の現実へすり替わる。もう奇跡など起きようのない、絶望的な距離。
また俺は影さえも踏めずに負けるのか?
ふざけるな。そんなの冗談じゃない。
これは俺と風馬にとって最後のインターハイだぞ。
チームメイトとして同じ距離を走れるのも、この大会で最後かもしれないんだぞ。
だったらせめて最後くらいは、風馬の気持ちに応えたい。
次の一歩で脚がぶっ壊れようと、俺は応えないといけない。
なのに、もうこれ以上の差を縮めることができないことが、死にたくなるくらいもどかしい。
(100メートルって、どうしてこんなに短いんだろうな…)
ゴール手前でいつも突き付けられるのは、俺と風馬の間に立ち塞がる
道啓。100メートルは楽しいか?_
風馬……俺は楽しかったぞ。お前の背中を無我夢中で追いかけてる、この瞬間が……
「っ…!」
結果はもう分かっている。それでもせめて悔いは残さないように、最後の一歩に合わせて
そんなお前が隣にいたから、俺もここまで強くなれた。
「「ウワァァァァァ!!」」
赤いタータンに敷かれた白のゴールラインを走り抜け、ゾーンが解けた意識に地鳴りのようなどよめき混じりの歓声と拍手が響き渡る。言うまでもなくこの歓声は、俺へ向けられたものではない。
「…たはっ」
転ばないように全速力で駆け抜ける両脚にかかる力をゆっくりと抜いてペースを落としながら電光掲示板へ視線を投げた瞬間、この眼に飛び込んできた数字を見て思わず俺は笑ってしまった。
(本当にやりやがったよ……)
10秒22の自己ベストの真上に表示されていた、9秒93というタイム。インターハイの舞台でも滅多に聞くことのないほどの歓声が耳に届いた時点でとんでもない記録が生まれたことはタイムを見なくとも分かっていたが、今まで日本人が誰も超えられなかった10秒の壁をいきなり0.07も超えてきた外れ値としか言いようがないタイムを見た瞬間、自己ベストを出せた喜びも1着で駆け抜けられなかった悔しさも全て吹き飛んでしまった。
代わりに感情を埋め尽くしたのは、ここにいる8人の中でただ一人だけ10秒の先を見据えて走り続けてきた怪物が示した、
「風馬」
やや乱れた息を整えながら、1着で100メートルを駆け抜けたチームメイトの名前を呼ぶ。喉から手が出るほど欲していた日本新記録、そして自ら持っていたU20世界記録も更新したというのに、第1コーナーのカーブに立つ風馬はその喜びを雄叫びや拳で解放することもなく、外野からの声を遮断して自分の世界に耽るように競技場のインフィールドを見つめていた。
「……やっとだよ」
声をかけて数秒。日本新記録の熱狂と余韻が冷めないスタンドのざわめきに飲まれるほど小さな呟きと一緒に、インフィールドへ向かっていた視線がこっちへと移る。
その横顔には位置についたときの殺気はひとかけらもなく、真上に広がる青空を写したような爽やかな
「これでやっと、オレはスタートラインに立てた」
10秒の壁を越えた先にあるという“スタートライン”に立った風馬は、ここまでの道のりを振り返るようにインフィールドでも晴れ渡る空でもない遠い場所を見つめ、静かに笑った。
それは俺が今まで見てきた風馬の表情の中で、一番穏やかな笑顔だった。
「風馬。100メートルは楽しいか?」
2011年。全国高等学校陸上競技対校選手権大会にて、松耀高校(東京)の矢沢風馬は9秒93(+1.3)という日本記録及びU20世界記録を叩き出した男子100M走に続き、4×100Mリレー、そして20秒31(+0.8)の高校生記録で男子200M走を制しインターハイ三冠を達成した。
「
風馬が死んだのは、インターハイが終わってから僅か2日後のことだった。
【人物紹介】
矢沢風馬(やざわふうま)・・・故人。男子100M走日本記録及び2011年当時のU20世界記録保持者で“日本の陸上界を大きく変えうる逸材”として国内のみならず世界からも注目されるほどスプリンターとして将来を渇望されていたが、高校3年次のインターハイで100M走、200M走、4×100Mリレーの三冠を達成した2日後に急死した。享年17歳。
1994年1月1日生まれ。身長170cm。専門種目:100M走(PB:9.93)/200M走(PB:20.31)