ブロックを蹴った勢いをきっかけに、この身体は凄まじい加速で一直線に伸びていくコースのど真ん中を駆け出す。横一列に並び走る同じような出で立ちの人たちを最初の7歩で突き放して、風の如く軽やかに赤色の地面を蹴りながら身体は加速し続ける。
タッタッタッタッ_
息をつく間もないうちに左右から聞こえる靴音は後ろへと遠ざかり、視界に入るのは自分が走るど真ん中の直線だけになり、世界から自分以外がいなくなる。そんなことなど気にも留めずに身体はスピードを緩めることなく直線を駆け抜けて、誰よりも速く100メートル先で待ち構える
ウワァァァァァ!!_
自分が走るコースしか視えていなかった視界が一気に広がると、割れんばかりの歓声がコースの外側から聞こえてきた。その歓声に促されるように、視界は競技場の電光掲示板へと流れていく。
1 10 矢沢 風馬 松耀・東京 9.93 NGR
電光掲示板の一番上に映し出されたタイムは、9秒93の日本新記録。
これが、生まれたときからずっとこの頭の中で残り続けている記憶の
「
何とも形容し難い心地良さの中を浸っていたら、聞き覚えのある声が遠くのほうで聞こえてきた。俺はその声がしたほうへと徐に手を伸ばしてみる。
「……んぁ?」
手を伸ばした瞬間、深層心理に堕ちていた意識が眠気を伴いながらゆっくりと現実の世界へと戻って行く。次に半開き以下のぼやけた視界の先で、誰かが俺のことを見下ろしているのが見え始める。夢現の不鮮明な視界でも分かる、耳にかかる程度の長さのショートカットの黒髪から覗く“美人”と呼ばれているくらいには整った中性的でクールな顔が、俺を見下ろして心配半分な表情で笑っている。
「今日入学式だけど起きなくていいの?」
少しずつ夢現から脱したタイミングを図るように、俺を見下ろす無駄に美人な2コ上の姉がもう一度声を掛け……
ん?ちょっと待て。いま
「
「6時47分。朝ご飯はできてるよ」
「うっわあぶなっ」
「珍しいね。蒼が寝坊するって」
寝坊した俺を起こしに来た姉がやれやれと言いたそうな表情で微笑むのを尻目に、入学式というワードで一瞬にして眠気が全飛びしたことで軽くゾーンに入ったまま枕元のスマホの画面を見る。嫌な予感が的中。6時ジャストにセットしたはずのアラームがセットされていなかった。
「…最悪だアラームセットすんの忘れてた」
「ぷははっ、そら起きれんわ」
ちゃっかり通っている高校のウインドブレーカーに着替え、アラームを忘れて案の定寝坊した俺を微笑ましく笑うのは、2コ上の姉にして陸上選手の
「笑いごとじゃねえっての」
ちなみにこれは余談だが、明良は二刀流の活躍をスポーツ雑誌やメディアで取り上げられたときに“美人女子高生アスリート”と話題になった程度には整った顔立ちをしている。弟という立場であるが故の恥ずかしさもあり直接言ったことはないが、俺的には女優を目指してもいいくらいだと思っている。ただしそれを言ったらさすがに軽く引かれる予感しかないから、この気持ちを伝える予定は全くない。
「顔だけ洗ったらリビング行くわ」
「はいよー」
そんな入学初日に寝坊をかました俺を起こしに来た美人な姉に一瞥だけ目を合わせながら告げて、俺は部屋着のまま1階に下りて洗面所で顔を洗い、トーストとサラダの匂いがほのかにするリビングへと足を運ぶ。
せっかく高等部に進んだ明良とは
「うーす」
「おはよう。今日は随分と起きるのが遅かったな」
「アラームセットし忘れた」
「これが大会当日じゃなくて良かったな」
「ホントだわ」
若干の自己嫌悪を引き連れながら朝食の並ぶリビングに顔を出すと、既に朝食をほぼ食べ終えていた父から皮肉を交えて寝坊したことについて軽く注意された。言うまでもなく、アラームをセットし忘れるという時と場合によっては洒落にならない凡ミスを犯した俺が悪いから、こちらに反論の余地はない。
「蒼。他人事みたいな言い方をしているが、本番で自分の実力を惜しむことなく発揮するにはどれだけ日頃から自己管理が出来ているかが大切になってくるんだぞ」
元陸上選手にして今は自身が現役のときから所属する実業団の陸上競技部の総監督とスポーツ解説者を務めている、俺の父こと
「分かってるよ。次からマジで気を付ける」
「分かってくれているのならいいんだが、起こしてくれる人がいるのは今のうちだからな」
「おうよ」
100メートルの自己ベスト、10秒03。この脚力を引っ提げ日本の短距離界を引っ張っていた現役時代を終え15年以上が経ちアラフィフと呼ばれる歳になっても全く変わらないスラっと引き締まった体型が物語るように、父はこと陸上においては自分の子供だろうとただレースで1着になっただけでは簡単に褒めることはせず、私生活も含めて厳しく接する根っからのアスリートでもある。
「しかし、蒼も今日から高校生か」
「それな。まだちょっと実感が湧かないわ」
「ついこの間まで“おぶらせろ”と明良の背中に抱きついていた蒼が、もう高校生になるとは」
「この間どころか俺が2歳くらいのときの話じゃねえか」
「それぐらいお前は大きくなったって話だ」
かと思ったらこんなふうに突拍子もなく真顔で冗談を口にするユーモラスな部分もあるから、厳しい人ではあるものの同じスプリンターの道へ進んだ人間として短距離を誰よりも速く走ることの過酷さを自分なりに知った今は、基本的に父のことは尊敬している。
「なんの話してんの?」
「父さんのジョークに付き合ってた」
「ていうかアホ毛立ってるかわいい」
「えマジ?後で直すわ」
2階から戻ってきた明良が隣のイスに座りがてらに俺の寝癖を揶揄い半分で指摘して、そのまま小さく“いただきます”と呟いてコップの牛乳を一口飲んで、ボウルに入ったサラダを口に運ぶ。
「蒼、寝癖立ってるよ?」
「たったいま明良に言われたばっかだわ」
「
「はーい」
俺と明良が自分のイスに着いて朝食を食べ始めたのを見て、キッチンにいた母が朝食の並ぶリビングに戻りデジャブの如く俺へ寝癖が立っていることを指摘して空いている斜め向かいのイスに座り、それと入れ替わるように朝食を食べ終えた父は自分の食器を持ってキッチンへと向かい片付けて、一足早く仕事へ行くための支度を始める。寝坊さえしなければ朝食を食べ終えるのはいつも俺が一番最初だからか、この光景はちょっとだけ見慣れない。
「それにしても珍しいわね。お父さんと同じくらい早起きな蒼が寝坊するなんて」
「それも明良から言われてきたばっかだよ」
「アラームセットし忘れたんだってさ」
「あらま」
明良から言われたことを立て続けにほぼそのまま俺に言ってくるのは父と同じく元陸上選手で今はスポーツマネジメント会社に勤める、俺の母こと
「ところで入学式には間に合いそう?」
「とりあえず今から30分以内に出れば間に合う」
「学校の場所は大丈夫?」
「推薦のときに場所は覚えたから問題ナシ」
「そっか。ならひと安心ね」
「こう見えて蒼って意外と地図とか見るの得意だからね」
「こう見えてって言うな明良」
元アスリートとは思えないほど温厚でどこか抜けた部分もある人柄と、世陸と五輪に出場した父の活躍と知名度を前にするとどうしても隠れてしまう部分はあるが、この人も普通に凄い人だ。
いま思うと、この人が俺と明良の意思を汲み取って父を説得してくれたおかげで俺は
「…何というか感慨深いわね。今日から蒼も高校生になるって」
「それもさっき父さんから言われたばっかだよ母さん」
「え、そうなの?」
「ていうかキッチンにいたなら聞こえてたでしょ俺らの
「ごめん聞こえなかった」
「マジか。ならしゃあないか」
と言った具合に、もうお分かりだと思うが俺の家族は同じ屋根の下で暮らす父母姉が揃って全国大会トップレベルの陸上競技者という、界隈じゃ名の知れた“陸上一家”というわけだ。
「蒼って今日から練習あるの?」
「おう。本格的にメニュー組まれるのは明日からになるけど、入学式終わったらすぐ練習」
「まーそうだよねぇ。蒼のところも強豪校だし」
そして俺もまた、この一家の例に漏れず小3で陸上を本格的に始めたときから短距離を走り続け、去年の全中大会は得意とする100M走の決勝で2位、200M走決勝で5位、4×100Mリレー決勝で2位になって何とか“井浦”の名に恥じない走りが出来るようになったスプリンターだ。もちろん小3からの集大成の結果がこうなったことは、今でも自分の中では全く納得していない。
「
「サラッととんでもないプレッシャー掛けてきたなこの人。ていうか別に推しじゃねえし」
そんな全中2位の個人成績で満足せず、更に上の高みを目指すと心に誓いそのままエスカレーター式に進級するはずだった高等部への進学を蹴って別の高校へ進んだ俺に、隣に座る明良がさり気なく冗談半分にプレッシャーを掛けてクスリと笑う。とはいえ井浦一家で生まれ育った俺からすれば、一番の理解者でもある姉からの揶揄いは重圧にすらならない。
「ま、中2になってから一度も勝ててない
何気なく同じテーブルを囲んで同じ献立を毎日こうして食べている光景が当たり前になっていくと感覚が麻痺して何も感じなくなってきてしまうが、改めて俺はとんでもない家族の下に生まれてしまったなと思う。当然それは両親と姉の経歴が凄いというだけで悪い意味ではなく、少なくとも今日まではこの家族の下に生まれたことを後悔したことは一度だってなく、基本的に毎日が幸せだ。
「喋るのもいいけどそろそろ食べ始めないと間に合わないんじゃない?」
「やっべそうじゃん」
「あははっ、心配だな~」
ただひとつ、俺には生まれながらに家族にさえずっと言えないままでいる
「…っし」
朝食を食べ終えて歯を磨いて寝癖も整えて、自分の部屋へ戻って今日から通う高校の制服に身を通す。これからの3年間で身体が大きくなっていくであろうことを想定して若干大きめのサイズにしたつもりが、いざ着てみたら思いの外に余裕がない。届いたときに“記念に写真を撮りたい”と言ってきた明良の我儘に付き合った1回しかまだ着ていないせいか、あるいは慣れない制服と初めての環境への僅かばかりの緊張のせいか、余裕があるはずなのにカーキ色の新しい制服にほんの少しの窮屈さを感じる。
いや、これは単に
「しゃ行きますか」
忘れ物がないかを確認して、特にこれといった意味のない気合い入れの言葉を呟き練習着を入れた新しいスクールバッグを背負ってそのまま玄関へと向かう。これといった意味がないと思って何となく口から発してみたが、意外にも軽く気合い入れをしたおかげでスイッチが入った感覚がした。
「蒼、忘れ物はない?」
「大丈夫全部揃ってる」
10分ほど早く家を出た父に続いて、春休み最後の練習へ行く明良と一緒にスニーカーを履く。
「いってきます」
「いってらっしゃい。蒼は今日から始まる高校生活、悔いのないように頑張んなさい」
「おう」
「ぷはっ、照れてやんの」
「照れとらんわ」
先にスニーカーを履き終えた明良が玄関のドアを開けると、リビングから迎えに来た母がこれから入学する俺に激励を送ってきた。正直心の中では小恥ずかしい気持ちもあるが、純粋な気持ちからくる言葉だということを子供として知っているからちゃんと受け止め、俺ら姉弟は仲良く玄関の外に出る。
「いい天気だね、空」
玄関を出て、外の世界へと出た瞬間に俺たちを照らした晴れ渡る青空を見上げながら明良が俺へ呟く。
「だな」
「なんだか神様が蒼のことを祝福してるみたい」
「だといいな」
「ホントに思ってる?」
「ホントだって」
“神様が祝福しているみたい”と明良は空を見上げて大袈裟に微笑んでいるが、言ってしまえば晴れていると綺麗は綺麗だが感動するほどではない見慣れた都心の住宅街を覆う狭い空。だけれど今日みたいな節目の日だと、ただ晴れているだけでいつもよりも“きれいな空”だと感じてくるのはどうしてだろうか。
「できれば大会がある日は全部こんな天気ならいいのにね」
「プラス2メートル以内の追い風」
「それ最高」
多分そう感じるのは、生まれたときからこの頭の中で残り続けている“記憶”のせいだろう……と、俺は思う。
「それじゃ、今日から頑張れ新一年生」
「そっちこそラストの一年頑張れ二刀流」
「始業式は明日からだよ」
天気の話を少しばかりして、俺と明良は最後に互いの健闘を祈り合いそれぞれの学校に向けて正反対の方向へ歩き出す。姉として、そして俺より2年早く陸上競技を始めた先輩として弟を見送った明良も含めて、この世界で生きている全ての人は誰一人として知る由もない。
「……待ってろよ。
俺が、矢沢風馬の“記憶”を引き継いだ
【人物紹介】
井浦蒼(いうらあおい)・・・本作の主人公。100Mと200Mを専門にしているスプリンターで、得意としている100Mでは中学3年次の全中大会にて100M走と4×100Mリレーで準優勝の戦績を残している。彼のいる井浦家は両親が共に日本の陸上界を牽引していた元陸上選手で、姉の明良も100M 走と100MH走を専門とする“二刀流”として全国レベルの大会で活躍している所謂陸上一家である。
元々は2学年上の明良と同じく通っていた中高一貫校の高等部に進学する予定だったが、“とある理由”で別の高校へ進学した。
2011年8月9日生まれ。身長165cm。専門種目:100M走(PB:10.70)/200M走(PB:22.38)