「おはようございます」
それは、最後のインターハイが終わって2日後の練習でのことだった。
「あれ?矢沢先輩ってまだ来てないっすよね?」
「ホントだ」
「朝練も放課後も土日も絶対に一番乗りで練習に来るのに珍しいな」
「寝坊でもしてんじゃね?燃え尽きすぎて」
「マジすか?あの矢沢先輩が珍しいっすね」
「いや、割とあるな」
一日のオフを挟み、半ば3年生の送別会も兼ねた最後の練習。つい一昨日に100M、200M、4×100MRで三冠を達成した立役者が、集合時間になっても練習場に姿を現さなかった。いつもなら俺を含む他の部員がどれだけ早く練習場に足を踏み入れても、その時にはただ1人でウォームアップを始めているのが当たり前の光景だったはずが、この日に限って風馬は練習に姿を現さなかった。
「誰か風馬に連絡したほうがいいんじゃないのか?」
今日限りで完全に陸上競技から足を洗うような奴ならともかく、風馬は18日後に100M走で内定が決まっていた世界選手権への出場を控えていた。それどころか大会明け最初の練習だろうと誰よりも早く練習場に向かい走り始めているような奴が遅刻するなんて、チームメイトになった3年間で初めてのことだった。
「電話はついさっき俺が携帯にかけた」
「マジか。どうだった道啓?」
「応答も着信もなし」
「ははっ、爆睡しすぎでしょ風馬のやつ」
いないことに気付き携帯電話に連絡を掛けてみたが、風馬は俺からの着信に出てくれなかった。周りはインターハイ制覇の余韻に2日経っても浸っていた部分があったのか、本人がいないのを良いことに寝坊しただの冗談交じりに盛り上がっていたが、電話が繋がらなかった瞬間から今まで感じた事のない
「お疲れ」
初めて目の当たりにする風馬がいない練習風景に大会終わりも相まって少しばかり気が緩み出した俺たちの前に、監督とコーチ陣が到着した。
「「お疲れ様です!」」
集合をかけた俺たち部員の前に立つ監督の表情が、心なしか神妙に思えた。
「えー…まずは先日のインターハイ。三冠を達成した短距離走を始め、改めて本当にお疲れ様と言いたい」
集合した部員を前にして、監督はインターハイの成果を労った。心ここに非ずであることが見るからに分かる面持ちを前に、つい数十秒前までの気の抜けた余韻はチクリとした居心地の悪い重苦しさを纏う空気と共に音を立てて消え去った。
この瞬間、俺は風馬に何が起きたのかを本能的に察してしまった。今まで生きてきた中で、このときほど“どうかこれが悪い夢であって欲しい”と心の底から願ったことはない。
「…監督。ひとつ聞きたいことがあるのですが」
その先はもう喋らないでくれ……と願う気持ちに反して、俺の口は監督の言葉を遮った。
「
言い終えたのと同時に、心の中は取り返しのつかないことをしたという後悔に苛まれた。まだ誰も何も言っていないのに、どうして気付いてしまったかなんて自分でも未だに分からない。
ただひとつ強引に結論付けるとするなら、“虫の知らせがあった”といったところだろうか。
「…そのことなのだが……どうかお前たちは落ち着いて聞いて欲しい」
言葉を遮り問いかけた俺へ一瞬だけ目配せし、考え込むように一息の溜息をついて、監督は意を決した表情を浮かべて風馬の身に起きた出来事を俺たちに告げた。
「つい先ほどご家族の方から連絡が来てな……単刀直入に話すと、今朝方に矢沢が亡くなった」
プシュー_
通学と通勤のラッシュで込み合う路線バスに20分ほど揺られ、最寄りとなるバス停から学校の門に向けて歩を進める。決して快適とは言えない箱詰めの空間から地上へ降りると、4月ならではの僅かに肌寒さを残した穏やかで暖かな朝の風が優しく首筋から頬を撫ぜ、ふと上を見上げれば片側二車線の通りに沿って立ち並ぶマンションとビルの隙間から雲一つなく綺麗な、ほんのりと白く霞んだ青空が広がる。家を出たときは綺麗だけど見慣れた程度にしか思わなかったが、自分たちを祝福しているかはともかく確かに明良が言っていた通り、今日は本当に天気がいい。
(ここを左に行くんだよな…)
バス停から歩いて数十メートルの場所にある1階がコンビニとなっている白い雑居ビルがある交差点を左に曲がり、片側一車線の道を300メートルほど進んだところに今日から通うことになる
(…あそこか)
私立・松耀高校。渋谷の外れにあるこの学校は創立から現在に至るまで“文武両道”のスローガンを掲げ、古くから学業とスポーツの両分野で優秀な人材を多く輩出している私立の名門校。クラス編成は全7~8クラスで普通コースとスポーツコースのふたつに分かれており、部活動も硬式野球部や吹奏楽部を始め指定強化部として認定されている強豪がいくつかあるが、中でも俺が推薦で入部する陸上競技部の短距離部門は創部から55年の歴史の中でインターハイを9度制し、日本代表選手を複数人輩出した実績のある強豪として知られている。
「松耀に行きたいと……いまの学校じゃ不満か?」
しかし2011年の短距離走三冠を最後にインターハイでの優勝からは遠ざかるばかりか出場自体もこの15年で7回に留まり、ここ10年ほどは同じく都内にある成信中学・高等学校の台頭もあり都大会の優勝も果たせておらず、強豪という地位こそ守れてはいるもののかつての“お家芸”と言われていた時代と比べると低迷した状況が続いている。
そんないまの松耀高校陸上部における短距離部門の立ち位置を端的に表す言葉として言われているのは、“落ち目の強豪”。
「わざわざ松耀に転校するメリットはあるのか?成信で続けること以上にどうしてもと言い切れるものが自分自身の中でひとつでもあるとお前は言い切れるのか?」
違う高校へ行くと俺から告げられた父からは何度も覚悟を問われたが、それでも俺は明良とは別の道に進むと最後の全中大会が終わったときから心に決めていた。事実、俺が中等部まで在籍していた成信は短距離、長距離、そして投擲と各競技において全国随一と呼ばれるほどのコーチ陣と強豪実業団クラスと称される充実した設備を擁しており、恵まれた練習環境も相まって都大会及び関東大会は短距離部門において10連覇中で、インターハイもここ10年は京都の
「…あるよ。だから俺は松耀へ行く」
それでも敢えて盤石な道を外れて“落ち目”と呼ばれている高校へ進んだのは、ここでしか成し遂げられない
(…すげえ並木だ)
二車線の道を進んで程なくして、視界の左側に校名の書かれた銘板が横に掲げられた校門が見えて左に曲がると、校名の由来にもなっている開校した年に植えたという松の並木が昇降口までの道を青空と共に色鮮やかに照らしているのが目に留まる。少しの暖かさを纏う風に乗って伝わる爽やかで独特なみずみずしい匂いが、期待と不安を胸にカーキ色の真新しい制服に身を包んで初めて門をくぐる人たちを優しく出迎える。
(えっと俺はスポーツコースだから……F組か)
新しい日常のスタートに思い耽ることは最低限に留めて、昇降口に貼られたクラス分けに書かれた自分の名前を目視で確認し、自分の出席番号が書かれたロッカーで上履きに履き替え、若干の迷いを伴い1学年のクラスへゆっくりと進んでいく集団から早々に離れて、とある場所へ向かう。
教室へ向かう前に、俺にはどうしても
(確かここだったよな…)
シューズに履き替えて、1年F組の教室ではなくこの学校の正面玄関へと足を運ぶ。推薦を受けに行ったときの記憶の通り、目当ての表彰状は正面玄関のロビーにある棚の中に飾られていた。
(…やっぱり、飾ってあった)
俺が生まれる5日前。この学校の陸上部に在籍していた17歳のスプリンターがインターハイの決勝で叩き出した、日本人選手初の9秒台にして16年の月日が経とうとする今でも破られることなく残り続けている“9秒93”という100M走の日本記録。
「…帰ってきたぞ。風馬」
言うまでもなく、この頭の中でずっと残り続けている
「まるで風に乗って軽やかに飛んでいくようなフォームで、最初の7歩目で横一線から飛び出した勢いそのままに100メートルを失速することなく駆け抜ける……日本人であんな走り方ができる選手は見たことがなかったから目の当たりにしたときは衝撃的なんてものじゃなかったよ」
東京五輪が終わってすぐくらいのときに、日本選手権で2度戦ったことのある父に風馬の走りがどのようなものだったかを聞いて、返ってきた答え。スプリンターとしてのピークは過ぎていたとはいえ、日本代表として陸上界を引っ張っていた父とは記憶の中で同じトラックに立って戦ったことがある……なんてことは今日に至るまで言えず仕舞いのままだが、風馬と隣り合って100メートルの直線を走った父はしみじみとした口ぶりで懐かしみながら振り返っていた。
「自分の半分ほどの年しかない小柄な高校生があの走りをするのを間近で見せつけられて、“もう役目は終わった”と俺は悟ったものさ」
世界選手権の決勝はおろか、10秒の壁を越える選手が誰一人としていなかった日本の男子100M走界に現れた、1人の高校生。2011年の日本選手権で当時の日本記録タイとなる10秒00を叩き出して史上初にして現在でも唯一となる高校生による日本選手権優勝という快挙を達成した走りを間近で体感した父は、このレースを最後に現役を引退した。
この2か月後、風馬が9秒93という前人未到の記録を残して
「もしさ、矢沢風馬が今も生きてたらどうなってた?」
「蒼も興味あるのか?」
「そりゃだって、短距離やってるし」
日本人が初めて100Mで10秒の壁を越え、16年。この16年で、一体どれだけの人が9秒93という記録に挑んできたのだろうか。俺が生まれて松耀に入学するまでの間に、4人の日本人スプリンターが10秒の壁を越えた。
「これはあくまで持論だが、もし彼が生きていたらこの前の東京五輪の100M走で表彰台の一番上に立ったのは日本人になっていたかもしれない」
だが、風馬が最後に叩き出した記録より先に100メートルを走り切れた日本人は、追い風参考記録を除いて誰一人として現れていない。
「それって…」
「あの伸びしろとポテンシャルを保ったまま成長していけば、練習環境次第じゃこの日本で100メートル9秒7台を出せる非ネグロイドのスプリンターが誕生していた可能性は十分にあった……今となっては憶測になってしまったがな」
日本の陸上界が矢沢風馬を失ったことでどれだけの大打撃を受けたのか、それを物語るように父は俺へ風馬の存在がいかに短距離界へ影響を与えていたのかを教えてくれた。
1番になれないのなら、1位の称号なんて無価値だ_
それは頭の中ではノイズじみた黒っぽい靄と化している、1番になるためなら不要なモノだと前世の自分が
「…帰ってきたぞ。風馬」
棚のちょうど中央の位置に飾られた賞状を前に、
(
記憶に映っていた景色を思い浮かべながら、次は心の中で声を掛ける。もしもこの身体に前世の人格が丸ごと引き継がれているとしたら風馬の気持ちが手に取るように分かるはずだが、生憎なことに人格は全くの別人なため考えたところで想像にしかならない。
そもそも引き継がれた記憶も全てが鮮明というわけではなく、まるで機密文書の如く肝心な部分が黒く塗りつぶされている上に風馬自身の声は
「俺はここで、お前を越えて
ただ、
一緒に速くなろう。誰にも負けないくらい_
自分がこの世界に生まれたことが正しかったと、
「新入生か?」
「?!…はい」
視界の外から呼びかける声が聞こえ、反射的に振り返る。いきなり話しかけられたせいで、思わず驚いてしまった。
「こんなところで何しているんだ?教室は上だぞ」
つい1秒前まで風馬の名前が書かれた賞状を眺めていた俺に、ウインドブレーカーを着た背の高い男の人が少し怪訝な表情で話しかける。
(あれ…この人どこかで…)
服を着ていても普段からスポーツをしていると分かる無駄な贅肉のないスラっと締まった体躯と、どこかで聞き覚えがあるやや低めの声。そして振り返り目が合った瞬間に電流の如く脳内を埋め尽くした、懐かしさにも似た既視感。
「?どうした?」
風馬。100メートルは楽しいか?_
「……道啓?」
前世のときの面影が強く残るかつてのチームメイトに、気が付くと俺はつい自分が転生者であることを忘れて素で道啓の名前を口にしていた。