どれほどの時間、二人はそのまま固まっていただろうか。
外では相変わらず激しい雨が窓を叩き、遠くで雷が低く唸っている。
リビングの中は真っ暗なまま。
ケイはリョウの膝の上にすっぽりと座り、リョウの右手を両手で包み込むように握りしめている。
リョウも退けと言いつつ本気で振りほどこうとはしていなかった。
「……」
「……」
互いに何か言わなければと思う。
しかし、何を言えばいいのか分からない。
怖いのか。恥ずかしいのか。今のこの距離を意識しすぎているのか。
もはや何が原因で心臓がうるさいのか判別できなくなっていた。
その時だった。
――パチン。
小さな音と共に、リビングの電灯が一斉に点いた。
「っ……!」
「まぶし……」
暗闇に慣れていた目が急な光に刺され、二人は同時に目を細める。
そして数秒遅れて、視界が戻る。
戻ってしまった。
リョウの膝の上に座ったままのケイ、その両手に包まれているリョウの右手。
ほとんど抱き寄せるような距離。
「……ッ!!」
次の瞬間、二人は弾かれたように距離を取った。
「い、今のは不可抗力です!!」
「分かってるよ!! こっちも不可抗力だわ!!」
ケイは顔を真っ赤にしながらソファの端へずれ、リョウも同じように反対側へ身体を引いた。
慌てて離れたものの、離れた手のひらに残る熱が、どうしようもなく名残惜しい。
二人は気まずそうに視線を泳がせ、同時にわざとらしい空咳をついた。
「ふ、復旧、しましたね。これで、あのような理屈の通らない怪異が出現する確率も下がったはずです」
「あ、ああ、そうだな……つーか、もうこんな時間かよ。早く風呂入って寝る準備しねぇと……」
「そ……そうですね、汗もかいてしまいましたし」
大雨の湿気と、さっきまでの冷や汗のせいで、お風呂に入らなければ寝られない。
二人は同時に廊下の方を見る。
浴室へ続く廊下、いつもなら何でもない見慣れた家の一角。
だが、今はどうしても暗がりが気になる。
廊下の角、洗面所の鏡、脱衣所の扉。
先ほどの『5人目』と、駅前の白い服の男の話が、嫌でも頭の中に残っていた。
ケイがぽつりと言う。
「……リョウ君」
「なんだよ」
「順番にお風呂に入りますが、その間……もう一人は脱衣所で立って待っていることを提案します」
「……奇遇だな、俺も今まったく同じことを考えてた」
どちらも、怖いからとは言わなかった。
────────────────────────────────
最初はリョウが入ることになった。
「じゃあ、先入るわ」
「分かりました。私はここで待機しています」
ケイは脱衣所の扉の外、廊下側に立って腕を組んだ。
その顔はいつも通り冷静を装っているが、視線だけが妙に忙しなく周囲を確認している。
浴室の扉が閉まりシャワーの音が聞こえる。
リョウの「準備できたぞ!!」という声に従いケイは脱衣所へ入った。
水の音のせいで周囲の雑音が聞こえなくなるため、恐怖がじわじわと増してくる。
「……本当にそこにいますよね」
扉越しにケイは声をかけた。しかし返答はない。
「リョウ君!! 本当にそこにいますよね!?」
「はい!? なんだよ!!」
「返答が遅いです!」
「シャワーで聞こえなかったんだよ! ちゃんといるわ!」
「本当にリョウ君ですか?」
「俺以外に誰がいるんだよ!」
「念のため確認しているだけです!」
数分後。
「リョウ君!!」
「いる!!」
さらに数分後。
「リョウ君!!」
「います!!」
さらにその数十秒後。
「リョウ君ですよね!」
「さっき返事しただろ!!」
「もっと定期的に声を上げてください!」
「歌でも歌えってのかよ!!」
そんなやり取りを何度も繰り返しながらも、リョウの入浴は何とか無事に終わった。
ケイは廊下へ退散し、やがて脱衣所の扉からリョウが出てくる。
寝間着代わりのラフな服に着替え、髪はまだ少し濡れていた。
普段よりも前髪が下り、いつもの雑な雰囲気が少しだけ和らいで見える。
「終わったぞ」
「……」
「なんだよ」
「い、いえ」
ケイは慌てて視線を逸らした。
ただ風呂上がりのリョウを見ただけだ。髪が濡れていて、少し湯気をまとっていて、いつもより声が落ち着いて聞こえただけだ。
普段の生活でそれなりに見てるのに、なぜか今は胸の奥が落ち着かない。
「どうした、早く入れよ」
「っ、何でもありません! 交代します!」
ケイは小さく息を吸い、脱衣所に飛び込むように入る。
扉が閉まる間際、ケイは顔だけを覗かせてリョウを鋭く睨みつけた。
「いいですか!! 覗いたら殺しますからね!」
「するかボケ! 早く入れ!」
「声が大きいです!」
「先に物騒なこと言ったの君だろ!」
「私が合図するまでこっちに入らないで下さいよ!!」
「さっき話し合ってそう決めただろうが!!」
ケイは少し顔を赤くしプイッと顔を背けると、脱衣所の扉を閉めた。
扉の奥から、衣擦れの音がかすかに聞こえた。
健全な男子であれば意識をせざるを得ない状況であるが……
(し、白い服のおっさんが五人目……とかないよな、やっぱ幽体離脱してボコるか……?)
廊下を見回し思考をめぐらすリョウ、この男にはそのことを意識する余裕はなかった。
考え込んでいると、浴室の扉が閉まり、シャワーの音が聞こえ始めた。ケイがか細い声で「どうぞ……」というのが聞こえ、リョウは脱衣所の扉を叩き念のため確認の声を上げる。
「いいんだな!?」
「きゃあ! と、扉を叩かないでください!! 驚きますから!」
「あんだけ警戒してたから気ぃ使ってんだろうが!」
「と、とにかく早く入ってください! 脱衣所に何かいるかもしれません!」
リョウは舌打ちをしながら脱衣所に入り、壁にもたれて腕を組んで待つことにした。
そうして始まったケイの入浴タイムだったが、やはりケイも恐怖には勝てなかった。
「……リョウ君」
「……」
「リョウ君! いますか!?」
「いるから早くしろ!! 水の音で聞こえねぇんだよ! 気付いてほしかったら声出せ!」
「いいい、今シャンプーしてて何も見えないので……何かいませんよね!?」
シャワーの音の向こうから、今度は頭を洗っているらしいケイの、いよいよ余裕のなくなった声が響いてくる。
「こっからそっちの様子分かるか!? ……そんなに怖ぇなら、一緒に入って見張ってやろうか?」
もちろん本気ではない。
そもそもそんなことをする気など、欠片もなかった。
ただ、浴室の向こうから聞こえるケイの声があまりにも落ち着きがなかったから。
このまま怖がらせたままにするよりは、怒らせた方がまだマシだと、そう思っただけだった。
「なっ……!?」
一瞬、シャワーの音だけが響いた。
そして次の瞬間、浴室の中からケイの怒声が飛んでくる。
「へ、変態!! 破廉恥です!! 最低です!! 貴方には常識というものが存在しないのですか!?」
「冗談だよ!! 本気にすんな!!」
「冗談でも言っていいことと悪いことがあります!! この非常時に何を考えているんですか!!」
「だから悪かったって!」
「まったく……貴方という人は……!」
浴室の向こうで、ケイがまだぶつぶつと抗議している。
だがその声には、先ほどまでの震えたような弱さはもうなかった。
リョウは脱衣所の壁にもたれたまま、小さく息を吐く。
「……ちょっとは落ち着いたみてぇだな」
「……」
その一言に、ケイの声がぴたりと止まった。
シャワーの音だけが、しばらく二人の間に流れる。
「……リョウ君、今のわざとですか」
リョウは一瞬だけ言葉に詰まり、それから気まずそうに視線を逸らした。
「あ?……さぁな」
「……そうですか」
ケイの声は、まだ少し不機嫌そうだった。
けれど先ほどまでのように怯えてはいない。
むしろ、ほんのわずかに落ち着きを取り戻したような声だった。
「ですが、不誠実で破廉恥な発言であることに変わりはありません」
「だから悪かったって言ってんだろ」
「減点です」
「また先生ポイントか」
「当然です。大幅減点です」
「じゃあ落ち着いた分で加点しといてくれ」
「調子に乗らないでください」
そう言うケイの声は、少しだけいつもの調子に戻っていた。
リョウはそれを確認すると、脱衣所の壁にもたれたまま、ようやく肩の力を抜いた。
それでもケイは完全に平気になったわけではないらしく、数分おきに声をかけてきた。
「リョウ君、いますか?」「いるって」「リョウ君!」「いるから早くしろ!」そんなやり取りだけは、最後まで続いた。
やがて落ち着いたケイの声が響く。
「……終わりました」
「おう」
「出ますので、外に出てください」
「はいはい」
リョウが脱衣所から出ると、背後で扉が閉まる音がした。
しばらくして、浴室から出たケイが脱衣所の中でタオルを手に取る気配がする。
髪を拭く音。衣擦れ。洗面台の前に立つ気配。
リョウは廊下の壁にもたれたまま、ぼんやりと天井を見上げた。
雨の音はまだ続いているが、雷は遠くなっている。
家の中も、先ほどまでのような異様な暗さはなかった。
これなら、もう大丈夫だろう。
そう思った矢先だった。
「……リョウ君、ドライヤーを使います」
脱衣所の中から、控えめな声がした。
「使えばいいだろ」
「ドライヤーを使うと、音がうるさくて、もし呼んでもリョウ君の声が聞こえなくなります」
「つまり返事が聞こえなくて怖いんだな」
「ち、違います!」
「じゃあ何だよ」
少しの沈黙。そして、ケイは小さく息を吐いた。
「貴方が乾かしてください……貴方が外にいるより、中にいた方が異常に気付きやすいでしょう」
「便利に使いやがって」
「貴方が後ろでドライヤーを持っていれば、そこにいてくれるって分かりますから」
その声は、さっきまでの恐怖に震えたものとは少し違っていた。
怖いから呼んでいるだけではない。そこにいてほしいと、そう頼られているような気がして、リョウの心臓が妙に跳ねた。
「わ、わかったよ……入るぞ」
リョウは脱衣所の扉に手をかける。
「待ってください! まだ心の準備が!」
「どっちだよ!」
「入っていいとは言いましたが、急に入っていいとは言っていません!」
「めんどくせぇな!」
数秒待ってから、リョウは改めて扉を開けた。
脱衣所の中では、寝間着に着替えたケイが洗面台の前で椅子に座っていた。
長い髪はまだ濡れており、タオルである程度水気を取っただけの状態だ。
いつもより髪が重たげに肩へ落ちていて、普段の整った印象とは少し違って見える。
「……何か言いたげですね」
「べ、別になんでもねぇよ」
リョウは少し顔を赤くし視線を逸らしながらドライヤーのコードを伸ばし、スイッチを入れた。
温風が、ケイの白い髪をふわりと揺らす。
最初こそリョウの動きに警戒するように肩を固くしていたケイだったが、すぐにその手つきが乱暴ではないことに気づいた。
熱が一箇所に集中して熱くならないよう、優しく指先で髪を梳かしながら、地肌からしっかりと乾かしていく。リョウの普段の雑な言動に反して、あまりにも慣れたその手つきに、ケイはなぜか少しムスッとした感情が湧いてきて、意識してしまう。
「……慣れていますね」
ケイがぽつりと呟く。
「まぁ、少しはな」
「誰にやっていたんですか」
「母さんだよ」
短い返答だった。
ケイは鏡越しにリョウの顔を見た。
リョウは特に表情を変えず、ただ淡々とケイの髪を乾かしている。
それ以上踏み込まれたくない話題なのだと、何となく分かった。
だからケイも、それ以上は聞かなかった。
ただ、ほんの少しだけ肩の力を抜く。
「なぁ、ケイちゃん」
「誰がケイちゃんですか」
「ごめん……ちゃんと近いうちに話すから、もう少し待てるか」
申し訳なさそうな声色のリョウ、対してケイは柔らかく笑った。
「大丈夫ですよ、待つって約束しましたから」
「……ありがとう」
リョウは少し照れくさそうに、けれどどこか安心したように笑った。
その珍しい表情がケイの心に何故か強く残った。
「……お礼はいりませんよ」
ケイは小さく呟く、それ以上うまく言葉が続かなかった。
ドライヤーの音が、洗面所の中に響く。
リョウはケイの髪を指先で掬い上げ、少し照れくさそうに、さっきと同じ優しい笑顔で言った。
「長くて、綺麗な髪だな」
「っ……!」
ケイの肩が、ほんのわずかに跳ねた。
リョウは気づいていない。
本当に、ただ思ったことを口にしただけなのだろう。
ケイは鏡に映る自分の顔を見ないように、わずかに俯いた。
(落ち着きなさい。リョウ君は、先生に相応しい人物かどうかを見極める評価対象に過ぎません。
今の発言も、特別な意図があったわけではありません……!)
そう自分に言い聞かせる。
しかし、先ほどの優しい笑顔と何気ない言葉が胸の中に残っていた。
「綺麗な髪だな」という言葉が。
そんなケイの動揺にも気づかないまま、リョウは最後まで丁寧に髪を乾かしていく。
やがて、ドライヤーの音が止まった。
「よし、終わり」
リョウがコードをまとめながら言う。
ケイはそっと自分の髪に触れた。
きちんと乾いている。絡まりもない。乱雑さなど、どこにもなかった。
「……ありがとうございます」
「おう」
それだけのやり取りだった。
怖さが消えたわけではない。気まずさがなくなったわけでもない。
ただ、本当に少しだけ、二人の間の距離は近くなっていた。
評価、お気に入りありがとうございます。
嘘ついてごめんなさい 月曜になったうえ長くなったので中編となりました。
ホラー編と次の章でかなり関係が進むかも……?
お風呂と聞いてラッキースケベが無いのはすみません、好感度がまだ足りない気がするのです……
小説初心者なのでその他至らぬ所は言っていただけると励みになります。