二人は洗面所を出てリビングへ戻る。
しかし、自室へ戻って一人で寝るという選択肢は、どうにも自然に口に出なかった。
「……念のためです」
ケイがぽつりと言う。
「何が」
「一人で寝るより、同じ空間にいた方が安全でしょう」
「まぁ……そうだな」
「ただし、布団は別です」
「当たり前だろ」
「当たり前です」
妙に強く確認し合ってから、二つの布団を並べて、別々に寝ることに落ち着いた。
「じゃ、電気消すぞ」
「はい」
リョウがリモコンで照明を落とす。
今度は完全な暗闇ではない。
常夜灯と、カーテンの隙間から入るわずかな外の明かりが、部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。
「……おやすみ」
「おやすみなさい」
会話はそこで途切れる。
疲れていたのだろう。リョウは布団に入ると、しばらくして静かな寝息を立て始めた。
ケイは眠れなかった。
雨はもう弱くなり、雷も遠い。電気も戻った。
キヨツグも明日には連絡が取れる。
怖がる理由は、ほとんど残っていない。それでも眠れなかった。
「……リョウ君?」
ケイがそっと声をかけるが、返事はない。本当に寝てしまったようだ。
いつものように口うるさく言い返してくるリョウではない。
先ほどまで幽体離脱などと騒いでいた少年でもない。
ただ静かに眠っている、普通の高校生だった。
「……」
ケイは暗闇の中、そっと自分の布団から手を伸ばした。そして、隣の布団で眠るリョウの手のひらを探す。
ごつごつとした、自分よりも大きな、男の子の手。その温もりに触れた瞬間、胸の奥にじんわりと安心感が広がった。
「……これは」
誰に言うでもなく、小さく呟く。
「心配だからです……姉としての責務です」
何かあった時、すぐ気付けるように。
理由はいくらでもあった。だからケイは、リョウの手をそっと握った。
リョウの手のあたたかさと雨の音に包まれながら、ケイは深い眠りへと落ちていった。
リビングには、二人分の静かな寝息だけが残った。
────────────────────────────────
翌朝。
カーテンの隙間から、淡い光が差し込んでいた。
昨夜の嵐が嘘のように、外は静かだった。
遠くで車の走る音が聞こえる。どこかの家の扉が閉まる音。朝の生活音。
リビングには、二つの布団が並んでおり、その片方でケイは深く眠っていた。
普段なら誰よりも早く起きている時間だった。だが今朝のケイは、まったく起きる気配がない。
「……よく寝てんな」
リョウはキッチンからリビングを覗き込み、小さく呟いた。
昨夜、あれだけ怖がって、騒いで、風呂場でまで確認を繰り返していたのだ。
疲れていて当然だった。
それに――。
リョウは自分の手を見る。
朝方、目を覚ました時、そこにはケイの手がそっと触れていた。
しっかり握られていたわけではないが、離れない程度には確かに重なっていた。
思い出した瞬間、リョウは少しだけ耳を赤くする。
「……いや、考えんな」
小さく首を振り、キッチンへ戻る。
コンロの上では、鍋が弱火にかけられていた。
中に入っているのは、冷蔵庫に残っていた野菜を適当に切って放り込んだスープ。
横には、軽く焼いたパンが皿に並んでいる。
朝食としてはかなり簡素だ。
ケイがいつも作るような、整った献立とは比べ物にならない。
野菜の切り方も大きさが揃っていないし、煮込んだせいで形の崩れているものも多い。
それでも、手を抜いたつもりはなかった。
「……まぁ、食えるだろ」
リョウは鍋の中を覗き込み、そう呟いてから、リビングへ戻った。
「おい、ケイ」
布団の横にしゃがみ込む。
「朝だぞ」
「……ん」
ケイが小さく身じろぎする。
だが、目は開かない。
「ケイちゃん」
「……誰が、ケイちゃんですか……」
寝ぼけているくせに、そこだけは反応した。
「起きてんじゃねぇか」
「起きていません……」
「寝ながらツッコむなよ」
リョウは呆れたように笑い、少し声を柔らかくした。
「朝飯できてる。起きろ」
「……朝ごはん」
その言葉に、ケイのまぶたがゆっくりと開いた。
ぼんやりとした赤い瞳が、数秒遅れてリョウを認識する。
「……リョウ君?」
「おう」
「……今、何時ですか」
「いつも起きてる時間より、ちょい遅いくらいだな」
ケイは一瞬だけ沈黙し、次の瞬間、勢いよく上体を起こした。
「っ、朝食! 私の当番だったのに……!」
慌てて立ち上がろうとしたケイの肩を、リョウが軽く押さえる。
「いいって。もう作った」
「ですが、私が――」
「問題ねぇよ。いつも世話になってるしな」
何気ない言葉だった。
本当に、ただ思ったことを言っただけの声。
ケイは、その一言に少しだけ固まった。
「……世話に、なっている?」
「なってるだろ……家事してもらって、勉強見てもらって、生活のこともあれこれ言われて。正直うるせぇ時もあるけど、助かってんのは事実だし」
「うるさいは余計です」
「そこだけ拾うんじゃねぇよ」
リョウは小さく笑いながら立ち上がった。
「たまには寝坊くらいしとけ。昨日あんだけ騒いだんだから」
「……私は騒いでなどいません」
「リョウ君いますかって何回も呼んでた奴が何言ってんだ」
「……姉として生存確認をしたまでです」
「スケールでけぇよ、お姉ちゃん」
いつものようなやり取り。
けれど、ケイの反論は少し弱かった。
リョウはキッチンの方へ歩きながら続ける。
「それに、君だってたまには世話焼かれる側でいいだろ」
「……」
その言葉に、ケイは布団の上で動きを止めた。
世話を焼かれる側になることを、考えたことがないわけではなかった。
けれど、自分は基本的に誰かの面倒を見る側だった。
だらしない先生の生活を管理する。
ゲーム開発部では、アリスの世話を焼き、モモイと口論し、ミドリと一緒に呆れ、ユズの不安に寄り添う。
誰かを支える側。それが当たり前だった。
なのに今朝は、自分が眠っている間に朝食が作られていた。
「……妙な気分です。私は世話を焼く側だと思っていました」
「まぁそうだろうな」
「先生も、ゲーム開発部の皆も、放っておくとすぐに問題を起こしますから」
「それは何となく分かる」
「ですが……」
ケイは少しだけ視線を落とす。
「世話を焼かれる側になるのは、あまり慣れていません」
「慣れとけよ」
「簡単に言いますね」
「ウチにいる間くらい、そういうのも込みでいいだろ」
ケイは顔を上げる。
リョウは少し照れくさそうに視線を逸らしながら、ぶっきらぼうに続けた。
「父さんも多分そう言うし……違う世界で肩身狭い思いしてんだ、ほっとけるかよ」
「……そうですか」
ケイはしばらく何も言わなかった。
そして、小さく息を吐く。
「では、今日は少しだけ甘えることにします」
「おう。そうしとけ」
「ですが、朝食の出来は確認します」
「結局評価すんのかよ」
「当然です。リョウ君が先生に相応しいかどうかの重要な指標ですから」
「朝飯で先生適性測るな」
リョウが不満げに言うと、ケイは少しだけ口元を緩めた。
「では、顔を洗ってきます。先に食べないでくださいね」
「子供じゃねぇんだから待つわ」
ケイは布団から立ち上がり、まだ少し眠気の残る足取りで洗面所へ向かった。
数分後。
顔を洗ってリビングへ戻ると、リョウが二人分の器をテーブルへ並べているところだった。
ケイはリョウの向かいへ腰を下ろす。
そして、改めてテーブルの上に並べられた朝食を見る。
焼いたパンと、湯気の立つ野菜スープ。
派手さのない、かなり簡素な食卓だった。
けれど、スープの中には野菜がそれなりに入っている。
栄養バランスだけで見れば、大きな問題はなさそうだった。
「……野菜スープですか」
「おう」
「どうやって作ったのですか」
「あ? 適当に切って、適当に煮りゃスープになるだろ」
「……」
ケイの目が、すっと細くなった。
「まぁ、配分ミスったり調味料やらかすと青汁レベルになるがな」
「味見は?」
「まだしてねぇ」
「……」
「飲んでみる?」
「飲みません!」
即答だった。
「なんて失礼な奴だ」
「今の説明で飲もうと思いますか!?」
「俺が味見すりゃいいんだろ」
リョウは不満げにスープの器を持ち上げ、一口飲んだ。
「……ッ!!」
ケイはじっとその表情を見る。
「やっぱりですか」
「飲める。普通に」
「美味しくないんじゃないですか」
「俺、自分の作った料理を自分で美味いって言うほど自信ねぇよ」
「仕方ありませんね」
ケイは小さく息を吐き、スプーンを手に取る。
そして、警戒するようにスープを一口飲んだ。
「……少し塩気が強くないですか?」
「パンで済ますためだわ。普通のおかずと合わせるなら薄くする」
「……悪くありませんね」
「美味くねぇんじゃねぇか」
「悪くないと言っています」
ケイは今度はパンを小さくちぎり、スープと一緒に口へ運んだ。
すると、少しだけ納得したように目を細める。
「……パンと合わせると、ちょうどいいですね」
「だろ」
「ですが、野菜が崩れすぎです」
「芯残るから死ぬ気で煮込んだ」
「火の通りにくい根菜と、すぐ柔らかくなる野菜を同じタイミングで入れるからです。入れる順番を考えてください」
「全部煮りゃ全部柔らかくなるだろ」
「発想が乱暴です。にんじんは残っているのに、玉ねぎがほとんど消えています」
「玉ねぎは犠牲になった」
「料理中に戦死者を出さないでください!」
「何言ってんだ。料理の材料なんて、基本的に死んで間もない奴らだろ」
「それは新鮮と言いたいのですか!?」
「……いや。冷蔵庫に残ってた野菜だから、死後しばらく経ってるな」
「死後しばらくどころじゃありません! 言いたかっただけでしょう!?」
ケイの鋭いツッコミに、リョウは悪びれることもなくパンをかじった。
改めてスープの中を覗き込む。確かに、食べられないほどではない。
だが、ケイの言う通り改善できる点はいくらでもありそうだった。
リョウは少しだけ考え込んだ後、何でもないことのように口を開いた。
「じゃあ、今度教えてくれ」
「……」
それまで間髪を入れずに返ってきていたケイの声が、そこで初めて止まった。
「なんだよ、驚いた顔して」
「いえ……もう作らない、と言い出すかと思いました」
「別に嫌味で言ってんじゃなくて、直してほしいから言ってんだろ」
リョウは当然のように続ける。
「どうしようもねぇと思われたら、そもそも何も言われねぇしな」
「……」
「大体、父さんに手ぇ抜いた家事すんなって言われてんだ。改善する意思はあるわ」
ケイは言葉を失った。
自分の指摘に反発するのではなく、面倒だと投げるのでもなく。
当然のように、次に繋げようとしている。
「君に教えてもらえるなら確実だしな」
そう言って笑ったリョウの表情は、昨晩、ケイの髪を褒めた時に見せたものと少し似ていた。
「……べ、別に、教えないとは言っていません」
ケイは慌てて視線を逸らす。
「なら頼む」
「ですが、教えるからには厳しくいきます」
「お手柔らかにな、ケイちゃん」
「誰がケイちゃんですか」
いつものように言い合いながら、二人は朝食を食べ始める。
ケイはもう一度スープを口に運び、今度はパンと一緒にゆっくりと飲み込んだ。
味は少し濃く、形の崩れた野菜も多い。切り方だって雑だ。
けれど、温かかった。
自分のために用意されたこの簡素な朝食が、妙に胸の奥をくすぐった。
「……加点してあげましょう」
「何点だよ?」
「調子に乗るので教えません」
「チッ……あっそう」
ケイがもう一度、スープへスプーンを伸ばす。
リョウはそれを見て、少しだけ安心したように息を吐いた。
「……何ですか、その顔は」
「いや、食えてるならいいかなって」
「失礼ですね。食べられないとは言っていません」
「評価厳しかっただろ」
「評価は厳正に行うべきです」
そう言いながらも、ケイのスプーンは止まらなかった。
朝の光が、リビングに差し込んでいた。
いつもと同じ朝のはずだった。
けれど、昨日までとまったく同じではなかった。
二人の朝は、ほんの少しだけ、昨日までより柔らかいものになっていた。
お気に入りありがとうございます。
少し関係進展した程度ですね。
次回も進展イベントで、第一部終了予定です。
ちょっとした節目を考えております。
小説初心者なのでその他至らぬ所は言っていただけると励みになります。