いつもと変わらない、嵯峨野家の朝。
三人で食卓を囲み、キヨツグが淹れたコーヒーの香りがリビングに漂っている。
テレビからは朝のニュースが流れ、リョウはパンをかじりながらスマートフォンを眺めていた。
一見すれば、普段と何も変わらない。
けれどケイには、リョウとキヨツグの様子がいつもと少し違って見えた。
キヨツグは先ほどから何度も壁の時計を確認している。
リョウも普段のように軽口を叩かず、どこか落ち着かない様子だった。
「よりによって、肝心な日に外せない仕事が入るとはなぁ……」
キヨツグは大きくため息をつき、残っていたコーヒーを一息に飲み干した。
「できるだけ急いで片付ける。昼過ぎには戻るわ」
「分かった。それまでは任せといてくれ」
リョウが短く答える。
いつもの二人であれば、仕事を押しつける上司への愚痴や、休日出勤を巡る軽口の一つくらい交わすところだ。
だが今朝は、それ以上の言葉はなかった。
「じゃあ、頼んだぞ」
キヨツグはリョウの肩を軽く叩き、慌ただしく玄関へ向かう。
「行ってきます」
「「いってらっしゃい」」
二人に見送られ、キヨツグは家を出ていった。
扉が閉まる音が響く。
ケイはしばらく玄関を見つめたあと、隣に立つリョウへ視線を向けた。
「……何かあるのですか?」
「あ?」
「先ほどから、二人とも普段と様子が違います」
リョウは一瞬だけ目を丸くした。
それから、思い出したように「ああ」と声を漏らす。
「今日は父さんと母さんの結婚記念日なんだ」
「結婚記念日……」
ケイは小さく繰り返した。
この家に来てから、キヨツグやリョウの口から母親の話を聞くことは何度かあった。
けれど、現在どこにいるのか、詳しく尋ねたことはない。
自分が使わせてもらっている部屋も、元は母親の部屋だったという。
二人が過去形で話すことが多かったため、ケイは何となく、すでに亡くなっているのだろうと考えていた。
「毎年、結婚記念日だけは二人きりで過ごすことになってんだよ」
リョウは食器を重ねながら続ける。
「だから父さんが帰ってくるまでに、色々準備しねぇと」
「でしたら、私にも手伝わせてください」
ケイは迷うことなく申し出た。
「お母様の部屋を使わせていただいています。何もせずにいるわけにはいきません」
「元から、そのつもりだよ」
「……最初から私を働かせるつもりだったのですか?」
「人聞き悪ぃな。君にしか頼めそうにないことがあるんだよ」
「私にしか?」
「ああ」
リョウは立ち上がり、椅子に掛けていた上着を手に取る。
「着いたら話す。まずは花屋だな」
「花屋ですか」
「予約してあるんだ。受け取りに行くぞ」
─────────────────
商店街の一角にある花屋へ入ると、店員はリョウの顔を見るなり、奥から透明なケースを持ってきた。
ケースの中には、淡いピンクや黄色を中心にまとめられた花々が収められている。
生花と見紛うほど鮮やかだが、水を必要としないプリザーブドフラワーだった。
「ご予約の品はこちらでよろしいでしょうか」
「はい、ありがとうございます」
リョウは花の状態を確認してから、丁寧にケースを受け取った。
店を出たところで、ケイが隣から花を覗き込む。
「前から用意していたのですか?」
「ああ。去年は花まで用意してなくてな」
リョウはケースを落とさないよう、両手で抱え直す。
「せめて今年くらいは、俺から何か用意しようと思って」
「そうでしたか」
ケイはそれ以上何も言わず、リョウの隣を歩き始めた。
淡い色合いの花は、結婚記念日の贈り物としては明るく、華やかだった。
ケイは歩きながら、何度もケースへ視線を向ける。
亡くなった人へ供える花としては、少し華やかすぎるような気もする。
もっと白や落ち着いた色を選ぶものではないだろうか。
もっとも、こちらの世界の習慣について、ケイが詳しく知っているわけではない。
結婚記念日に贈るものであれば、これが普通なのかもしれない。
「花、気になるか?」
不意にリョウから声をかけられ、ケイは肩を揺らした。
「へ? い、いえ」
「さっきからずっと見てるだろ」
「綺麗だと思っていただけです。それより、これからどこへ向かうのですか?」
「病院」
「びょ、病院?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
リョウは足を止め、怪訝そうにケイを見る。
「……もしかして君、母さんが死んでると思ってたか?」
「……」
図星だった。
ケイが答えられずにいると、リョウは少しだけ視線を逸らした。
「死んでねぇよ。一応な」
その言葉の最後だけが、妙に小さかった。
「あ、あなたが何も説明しないから――」
いつものように反論しかけて、ケイは口を閉じた。
詳しく説明しなかったリョウにも原因はある。
だからといって、勝手な憶測で人の母親を亡くなったものと決めつけてよいわけではない。
ケイは一度息を整え、素直に頭を下げた。
「……すみません。勝手な思い込みをしていました」
「いいよ、別に。説明してなかった俺が悪い」
予想に反して、リョウは怒らなかった。
母親のことは、自分から話すまで待ってほしい。
以前そう言われ、ケイも了承している。
ケイは少し迷った末、慎重に口を開く。
「……聞いても、よろしいですか」
「何を」
「お母様はどうして病院に?」
「……」
リョウの足が、ほんの一瞬だけ止まる。
だがすぐに歩き出し、前を向いたまま答えた。
「病院に着けば分かる。詳しい話はその後だ」
「今では駄目なのですか?」
「花持って歩きながらする話じゃねぇんだよ」
いつものぶっきらぼうな声だった。
けれど、ケイはそれ以上尋ねなかった。
再び二人の足音だけが、道に響く。
しばらく歩いたところで、リョウが前を向いたまま口を開いた。
「……ただ、君の予想も、全部外れてるわけじゃねぇよ」
「はい?」
ケイが聞き返す。
リョウは腕の中の花へ、わずかに視線を落とした。
「母さん自身は――死んだ方がマシだと思ってるかもしれねぇ」
淡々とした声だった。
それ以上説明するつもりはないように、リョウは黙って歩き続ける。
鮮やかな花々だけが、その腕の中で静かに揺れていた。
─────────────────
病院へ到着した二人は、受付を済ませ、静かな廊下を歩いていた。
白い壁。消毒液の匂い。一定の間隔で並ぶ病室の扉。
ケースを抱えたリョウは、迷うことなく奥へ進んでいく。
何度も訪れているのだろう。案内板を確認することもなければ、足を止めることもなかった。
ケイは、その半歩後ろを黙ってついていく。
先ほどの言葉が、頭から離れない。
――母さん自身は、死んだ方がマシだと思ってるかもしれねぇ。
詳しい事情は、まだ聞いていない。
ただ病気や怪我で入院しているというだけでは、あのような言い方はしないだろう。
やがてリョウは、一つの個室の前で足を止めた。
扉の横に掲げられた名札を確認し、軽く息を吐く。
それから、慣れた手つきで二度ノックした。
「入るぞ、母さん」
当然のように声をかけ、扉を開く。
「ごめんな。父さん、仕事が入って遅くなるんだ」
ケイは、その言葉にわずかな違和感を覚えた。
扉を開けた瞬間から、ごく自然に母親へ話しかけている。
まるで、いつもそうしているかのように。
室内は清潔に整えられていた。
窓際には小さな棚があり、写真立てや日用品が並べられている。
ベッドの傍らでは、いくつかの医療機器が規則的な音を立てていた。
そして、その中央に一人の女性が眠っていた。
「今日は結婚記念日だし、俺がいると邪魔かもしれねぇけどさ。それでも来たかったんだ。準備が終わったら、父さんと二人にするから」
リョウはいつもと変わらない調子で話しながら、ベッドの脇へ歩み寄った。
その声には、返事がないことを前提にした寂しさも、無理に明るく振る舞うような不自然さもなかった。
家へ帰ってきた時と同じような、ごく普通の報告だった。
「今日は一人じゃねぇぞ。前に話しただろ、ウチに居候が増えたって」
花のケースを棚へ置き、振り返る。
「ほら、何突っ立ってんだよ」
「あ……はい、お邪魔します」
促され、ケイもベッド脇に近づく。
眠っている女性は、リョウとはあまり似ていなかった。
胸元まで伸びた黒い髪が、枕の上へ丁寧にまとめられている。
閉じられた目元は穏やかで、輪郭にもリョウのような鋭さはない。
長い入院生活のためか、肌には少し血色が乏しかった。
けれど、痩せ細っているという印象はなかった。
それでも髪も肌も、驚くほど綺麗に整えられていた。
誰かが、欠かさず世話をしているのだろう。
「母さん。こいつが天童ケイ。……ああ、事情があって今は嵯峨野ケイ扱いだ。誰かに紹介する時は気をつけてくれ」
リョウはベッドの女性へ紹介するように、ケイを示した。
「いつも話してるだろ。家事にうるさくて、俺の勉強まで勝手に管理してる奴」
「勝手ではありません。必要だから管理しているのです」
「あと、勝手に住み着いてる」
「私は好きで住み着いたわけではありません!」
「じゃあ出ていきたいのか?」
「それは……」
ケイは言い淀む。
嵯峨野家の居心地は悪くない。だが、キヴォトスへ帰りたいのも確かだった。
肝心のヘイローすら、未だ発現していないのだ。
リョウはその様子を見て申し訳なさそうに笑った。
「……悪い。帰りたいに決まってるよな」
「それは……そうですが」
「まぁ、母さんの部屋を使ってるのは事実だろ」
「それもご本人には了承を得られていないので、ずっと気にしていたのですが……」
「毎日報告してるからいい」
ケイは目を瞬かせた。
「毎日?」
「ああ。父さんか俺のどっちかは、毎日来てるからな」
リョウは当たり前のように答えた。
「君が来た日のことも、部屋を使わせてることも、家事を当番制にしたことも話した」
「そこまで……」
「この前、君が寝坊したことも」
「それは報告する必要がありますか!」
「珍しかったからな」
「他には何を話したのですか!」
「幽霊にビビり倒してたこととか」
「それはあなたもでしょう!?」
病室に、ケイの声が響いた。
直後、自分が声を荒げた場所を思い出し、ケイは慌てて口元を押さえた。
「……すみません」
「別にいいよ。母さん、昔から家の中がうるさい方が好きだったんだ」
そう言ってリョウは、女性の黒髪へ軽く触れた。
絡まりがないか確かめるように、毛先を指で丁寧に梳いていく。
その手つきは、普段の大雑把な家事からは想像できないほど優しかった。
「な、母さん。ケイちゃん来てから、父さんも家に帰るのが楽しそうだぞ。娘が増えたってな」
まぶたが開くことも、表情が動くこともなかった。
まるで母親も会話に加わっているかのように、リョウは何でもない日常の報告を続けていた。
「リョウ君」
「なんだよ」
「もしかして、普段からこのように話しかけているのですか?」
「話さねぇと、家で何があったか分かんねぇだろ」
当然のことを聞くなと言わんばかりの返答だった。
「担当医の先生に言われたんだ。毎日、できるだけ話しかけてあげてくださいってな」
ケイは、改めて女性の顔を見る。
長い黒髪。穏やかに閉じられた目。
どこか幼さを残した、柔らかな雰囲気。
顔立ちが同じというわけではない。
それでもケイの中には、なぜか一人の少女の姿が浮かんでいた。
「……少し、アリスに似ていますね」
「んー……似てるか?」
リョウも母親の顔を覗き込む。
アリスの姿を思い浮かべるように目を細め、それから首を傾げた。
「髪が黒いくらいじゃねぇの?」
「顔が似ているという意味ではありません。雰囲気です」
「雰囲気?」
「はい。穏やかというか……無防備というか。見ていると、放っておけないようなところが」
「アリスはレールガン持って戦うだろ。母さんよりよっぽど物騒じゃねぇか」
「そういう表面的な話ではありません!」
「分かるか! 俺は直接会ったことねぇんだぞ!」
ケイは少し不満そうに眉を寄せたが、反論は続けなかった。
もう一度、ベッドの女性へ視線を戻す。
返事をすることもなく、それでも毎日、夫と息子から家の出来事を聞かされている人。
似ている理由を、ケイ自身もうまく説明できなかった。
アリスを見ている時と同じ、放っておけないような感覚が胸の奥に残った。
そして同時に、この人が夫と息子からどれほど大切にされているのかも、よく分かった。
窓から差し込む淡い光が、長い黒髪と、棚に置かれた鮮やかな花を静かに照らしていた。
お気に入りありがとうございます。
リョウの過去の掘り下げが始まります。
お見舞い編終われば物語のテーマも少し変わる予定。
小説初心者なのでその他至らぬ所は言っていただけると励みになります。