ケイはしばらく、ベッドの上の女性を見つめていた。
規則的に上下する胸元。閉じられたまぶた。
眠っているようにしか見えない。
だが、リョウが口にした言葉が、その印象を否定していた。
――死んだ方がマシだと思ってるかもしれねぇ。
ケイは隣に立つリョウへ視線を向けた。
「……お母様は、どのような状態なのですか?」
リョウはベッドの脇に立ち、掛け布団の端を整えながら、淡々とした声で答える。
「俺が中三の頃に事故に遭って、それからずっとこの状態だ」
「事故……」
「ああ。それからずっと、意識が戻ってねぇ」
言葉に感情の波はない。けれど、その静けさがかえって重みを持っていた。
「担当医の先生からは、植物状態って言われてる。音に反応したみたいに動くこともあるが、それが意思のある反応なのかは分かんねぇ」
「回復の可能性は?」
「ないとは言われてねぇ……だから俺と父さんで交代して、毎日会いに来て話しかけてる」
可能性を信じていないわけではない。ただ、期待を声に出すことを恐れているように聞こえた。
ケイは口をつぐんだ。彼が自分から話すまで待つと、あの日決めていた。
視線をベッドから外し、枕元の棚へ向ける。そこには、今日持ってきたプリザーブドフラワーと、小さな写真立てが飾られていた。
家族四人が写っている。若い頃のキヨツグと、穏やかに笑うリョウの母。
その間には、幼いリョウと、彼より少し年上らしい少年が立っていた。
「この方は?」
ケイが写真の少年を指差すと、リョウは横目で見やり、短く言った。
「ああ、兄貴だよ。大学生で今は遠くで一人暮らししてる」
「本日は来ないのですか?」
「大学もあるし、バイトもしてるからな。そう簡単には――」
言いかけたところで、リョウの目が棚の端に止まる。
見慣れない手提げ袋と、その傍らに添えられたメッセージカード。
以前リョウが来たときはなかったものだ。
それを目にすると、リョウはふっと肩の力が抜けた声を漏らす。
「来てたんだな……お兄ちゃん」
「お兄ちゃん?」
ケイが即座に反応する。普段の態度からは想像もつかない幼い響きだった。
リョウの肩がわずかに跳ねる。
「……兄貴」
「今、確かにお兄ちゃんと呼びましたよね」
「呼んでねぇよ」
「この距離で聞き間違えるわけがありません」
「……昔の癖が出ただけだ」
「別に恥ずかしがることではないと思いますが」
「うるせぇ」
ぶっきらぼうに返すが、表情は少しだけ柔らかかった。
ケイはもう一度、写真の中の兄弟を見る。
幼いリョウは、兄の服の裾を握っていた。
「ずいぶん懐いていたのですね。裾を掴んでいます」
「風強かったんだよ」
「ふふっ、そういうことにしておきますね」
ケイは思わず笑みを漏らした。いつも背伸びしがちなリョウにも、兄の前で見せる「弟」らしい一面があるのだと知り、張り詰めていた病室の空気とケイの緊張が、少しだけ解けた気がした。
「とりあえず君に頼みたいことなんだが」
誤魔化すように言ったリョウは病室の棚からポーチを取り出し、それを開いた。
中から出てきたのは、化粧水や乳液、小さなタオル、櫛。それに、いくつかの化粧品だった。
「それが、私に頼みたいことですか?」
「ああ」
リョウは化粧品を一つずつ棚へ並べながら、少しだけ言いにくそうに頭をかいた。
「母さんのメイク、やってくれねぇか」
「メイク……ですか? 私が?」
「結婚記念日だからな……今日くらいは、父さんに綺麗な母さん見せてやりたいんだよ」
リョウはベッドに横たわる母親を見る。
「去年は俺がやったんだけど、まあ……酷くてな。看護師さんに見せたら、笑いながら全部やり直された」
「想像以上ですね」
「動画見ただけの付け焼き刃だぞ。ファンデーション塗って、口紅引けば何とかなると思うだろ」
「なりません」
「そう言われたわ」
リョウはため息をつく。
「今年も看護師さんに頼もうと思ってたんだけど、君はこういうの得意だからお願いしようと思ったんだ」
「別に得意と言うわけでは……」
「デパートで水岡から教わってた時も、理解するの早かっただろ。リップも慣れた手つきで馴染ませてたし」
リョウは並べた化粧品へ視線を落としてから、何気ない調子で続ける。
「普段の君を見てても分かる。厚く塗ってる感じはしねぇのに、肌はちゃんと綺麗に見えるし、服を変えても色が浮いてるの見たことねぇからな」
「……ずいぶん細かく見ているのですね」
ケイは思わず頬へ手を添えた。
自分の身だしなみを褒められること自体は珍しくない。
それでも、リョウが日頃の小さな違いまで見ていたと知ると、妙に落ち着かなかった。
「毎日顔合わせてりゃ、それくらい分かるだろ」
「そ、そうでしょうか……」
「嫌なら引き受けなくていい。ただ……自信がないって理由で断るのはやめてくれ」
「……」
「君なら、母さんを一番綺麗にしてくれると思ったんだ」
「リョウ君……」
「お願いします」
リョウは普段の態度から考えられないほど誠実に頭を下げた。
あまりにも真っ直ぐな言葉に、ケイは一瞬返事を失った。
「……そのように言われては、断れませんね」
照れを隠すように化粧品へ視線を落とし、ケイは小さく息を整える。
「お任せください。キヨツグさんが驚くほど、綺麗に仕上げてみせます」
「ありがとう」
リョウは頭を上げると、並べた化粧品の横から小さなタオルを取り出した。
「じゃあ、その前に下地だけ俺がやる」
「下地?」
「肌の手入れだよ。乾燥したまま化粧したら、上手く乗らねぇだろ」
「いえ、それは知ってますが……」
リョウは洗面台でタオルを濡らし、固く絞る。手首で温度を確かめてから、リユの肌を傷つけないよう、顔を少しずつ押さえていった。
「……ずいぶん慣れていますね」
「俺が来る時は欠かさずやってるからな……父さんも、綺麗な母さんと会いたいだろうし」
顔を拭き終えると、化粧水を一度手のひらに広げ、温めてから頬へ馴染ませる。その動きに迷いはなかった。
ケイは、リョウとデパートへ行った日のことを思い出した。
自分の頬へ触れ、肌質を確かめたこと。
化粧水の種類や使用感について、ユナと普通に意見を交わしていたこと。
「……だから、化粧水に詳しかったのですね」
「ん?」
「初日にデパートへ行った時です。私の肌を触って、使いやすい種類を選んでいたでしょう」
「ああ……あれか。母さんと肌質が違うから、そのまま使える知識でもなかったけどな」
「では、才馬君が言っていた中学時代の研究というのは」
「忘れろ」
食い気味にリョウが答えた。
「やはり嘘だったのですね」
「アイツなりに気ぃ使ったんだよ」
そう言いながら、リョウは乳液を手に取る。
乾燥しやすい場所を確かめながら、薄く伸ばしていく。
ケイは黙って、その横顔を見つめた。
母親へ向けられた手は、普段の悪態よりもはるかに多くを語っていた。
「もしかして、髪もあなたが?」
「ああ。毎回じゃねぇけどな」
リョウはベッド脇に置かれていた櫛を取り、長い黒髪へ通す。
「病院で洗ってもらった後、看護師さんに頼んで手伝わせてもらってる」
「だから、私の髪を乾かすのが上手かったのですね」
「ああ……あれか」
リョウは少しだけ視線を逸らした。
「別に大したことじゃねぇよ。慣れてるだけだ」
「髪を傷めないよう、根元から乾かしていました。毛先は熱を当てすぎないようにしていましたし」
「細けぇな」
「自分の髪のことですから」
ケイは当然のように答えた。
リョウは小さく笑うと、母親の髪へ再び櫛を通す。
「母さん、この髪気に入ってたからさ」
「だから、長いままにしているのですか?」
「ああ。手入れが大変だから、短くする案もあったが、父さんがな……母さんが起きた時、勝手に切られてたら怒るだろって」
リョウは呆れたように言ったが、その声にはどこか優しさが含まれていた。
「だからこのままにしてもらってる……まぁ長すぎるのは大変だから多少は切ってるがな」
「……起きた時、ですか」
「俺よりずっと諦めが悪い」
そう言うリョウ自身も、ここへ来て世話を続けている。
とても、諦めた人間の行動には見えなかった。
「これくらいしか、してやれねぇからな」
その声だけが、少し小さかった。
ケイはリョウの横顔を見る。
何かを後悔しているような表情だった。
だが、ケイが口を開く前に、リョウはいつもの調子へ戻る。
「……準備は終わったぞ。後は頼む」
「はい」
ケイはまず肌の状態を確認した。
手入れが行き届いているため、乾燥は目立たない。
ただし長く入院していることもあり、強い刺激や厚い化粧は避けるべきだろう。
「普段は、どのようなメイクをされていたのですか?」
「濃いのは好きじゃなかったと思う。色は薄いピンクとか、落ち着いた色。派手なのはあんまり選ばなかった」
「分かりました」
目元と眉を自然に整え、頬へ淡い色を乗せていく。
キヨツグの知る面影を損なわず、元の顔立ちを活かすことを優先した。
リョウは隣に立ち、真剣な顔でケイの手元を見ている。
「そんなに見られると、やりづらいのですが」
「去年失敗したから、今年は覚えようと思って」
「ユナの時も随分熱心に見ていましたね」
「……あれは、次に使えるかもしれないと思っただけだ」
「やはり、お母様のためだったのですね」
リョウは答えず、化粧品へ視線を落とした。
ケイは呆れたようにデパートのことを思い出した。
「その割には、才馬君と見た目だけでファンデーションを選んでいましたが」
「……パッケージの格好良さと、中身の使い方は別問題だ」
「開き直らないでください」
静かな病室に、二人の小さなやり取りが落ちる。
ケイは最後にリップを手に取る。淡く落ち着いたものを選んだ。
「……俺が君に選んだやつと似てるな」
「そうですね」
ケイはその唇へ丁寧に色を馴染ませながら、わずかに口元を緩めた。
「あなたの選択も、間違ってはいなかったということです」
「そりゃどうも」
ぶっきらぼうに答えたリョウの声も、どこか嬉しそうだった。
仕上げに全体のバランスを確かめ、ケイは身体を少し引く。
頬には柔らかな血色が戻り、唇には自然な色が添えられている。
写真の中でキヨツグの隣に立っていた女性へ、少し近づいたように思えた。
「……どうでしょう」
リョウはしばらく、母親の顔を見つめていた。
「綺麗だ。父さん絶対喜ぶよ。あの人、母さんなら何しても綺麗って言うけど」
「では、私がメイクをする必要はなかったのでは?」
「それとこれとは別だろ」
リョウはそう言いながら、使用した化粧品を片付ける。
ケイは、改めてベッドの脇の椅子へ座った。
「お母様」
呼びかけると、リョウが小さく口を開いた。
「リユ」
「え?」
「母さんの名前。嵯峨野リユ」
リョウはベッドの上の女性へ視線を向けた。
「……リユさん」
ケイは、その名を静かに繰り返した。
名前を知ったことで、一人の人間として輪郭を持ったような気がした。
「改めまして、天童ケイです」
ケイはベッドの上に置かれたリユの手へ、自分の手を重ねる。
「現在、事情があって、ご自宅のお部屋を使わせていただいています」
少しだけ言いづらそうに目を伏せた。
「勝手に使ってしまい、申し訳ありません。ですが、できる限り綺麗に使っていますので……どうかお許しいただければと」
ケイはリユの手を優しく握った。
その時、閉じられていたまぶたが、わずかに動いた。
ゆっくりと、ほんの少しだけ目が開く。
「……っ! リョウ君!」
「ああ、たまにある」
ケイは慌てて振り返るが、リョウは驚く様子もなく、母親の顔を覗き込んだ。
「時間帯とか音で、目ぇ開くことがあるんだ。人の方を見てるみたいに動く時もある」
「それなら、意識があるのでは?」
「担当医の先生も、はっきりとは分からないって言ってる」
「……そうですか」
リユの目は、やがてゆっくりと閉じられていく。
手はまだ、リユの手へ重ねたままだった。
その指先へ、ほんのわずかな力が返ってきた。
「……え?」
ケイは息を止める。
握り返されたような感覚があった。
「……今、握られた気が」
「んなわけねぇだろ」
リョウは即座に否定した。
「ですが、確かに」
「反射だよ。もしくは君の気のせい」
ケイは慌ててリユの顔を見る。
表情にも変化はなく、規則的な呼吸だけが続いていた。
それでも手のひらには、先ほどの感覚が残っている。
「……」
ケイはもう一度だけリユの手を優しく握った。
今度は、何の反応もなかった。
やがて、病室の外から慌ただしい足音が近づき、扉が開く。
「悪い、遅くなった!」
仕事着のままのキヨツグが、息を弾ませながら病室へ入ってくる。
「思ったより仕事が長引いちまって――」
途中で言葉が止まった。
キヨツグの視線は、ベッドの上の妻へ向けられている。
丁寧に整えられた黒髪に、薄く施された化粧、淡い色を取り戻した頬と唇。
キヨツグはゆっくりとベッドへ近づき、リユの顔を覗き込む。
「……綺麗だな」
心の底から零れたような声だった。
「一体、誰が――」
「ケイちゃんだよ」
リョウが答えた。
ケイはいつもなら、すぐに「誰がケイちゃんですか」と返していた。
けれど今は、その言葉が出てこなかった。
キヨツグはケイへ振り返る。
「ケイが?」
「はい。ですが、その……」
ケイは少し不安そうにリユを見る。
「ご本人の了承を得ず、勝手なことをしてしまいました。以前の印象と違っていなければよいのですが」
「何言ってんだ」
キヨツグは大きな手を伸ばし、ケイの頭を優しく撫でた。
「ありがとうな、ケイ。母さんも喜んでる」
ケイは思わず息をのみ、ベッドの上のリユへ視線を落とした。
先ほど感じた、指先のわずかな感触。
あれが本当にリユからの「ありがとう」だったのかは分からない。
それでも今だけは、リユも喜んでくれているのだと思いたかった。
「……そうでしょうか」
「ああ。絶対そうだ」
キヨツグは迷いなく言い切り、ベッド脇の椅子へ腰を下ろした。
そしてリユの手を取り、家に帰った時と変わらない声で呼びかける。
「ただいま、母さん。遅くなって悪かったな」
リョウはその様子を見て、壁の時計を確認した。
「じゃあ、俺たちは出るわ」
「おう。ありがとな、リョウ」
「今日くらいは、二人でゆっくりしてくれ」
リョウはケイへ目配せし、病室の扉へ向かう。
ケイも一度だけ、リユへ頭を下げた。
「失礼します、リユさん」
扉を閉じる直前、ケイはもう一度だけ病室の中を見た。
キヨツグは愛おしそうにリユの手を両手で包み、少年のような笑みを浮かべている。
「母さん……いや、リユ。ケイがこんなに綺麗にしてくれたぜ」
しばらく妻の顔を眺めてから、楽しそうに笑った。
「メイクの腕だけなら、君より上かもしれないな」
冗談めかしてそう言い、すぐに声を柔らかくする。
「まあ、誰が化粧したって、元が一番綺麗なのは君だけどな」
病室の扉が、静かに閉じた。
お気に入りありがとうございます。
初期の話題を拾ってるので忘れちゃってたらすみません。
ケイちゃんである以上、趣味のおしゃれを拾いたかったのでこの展開を作りました。
小説初心者なのでその他至らぬ所は言っていただけると励みになります。