病室の扉が閉じる。
廊下へ出た途端、先ほどまで聞こえていたキヨツグの声も、医療機器の規則的な音も遠ざかった。
リョウはしばらく扉の前に立っていたが、やがて小さく息を吐いて歩き出す。
「行くぞ」
「はい」
ケイもその隣へ並んだ。
病院の廊下は静かだった。
すれ違う医師や看護師、面会に訪れた人の足音だけが反響する。
ケイは自分の右手へ視線を落とす。まだあの感覚が残っている。
リユの手に自分の手を重ねた時のかすかな感覚。
「……やはり、握り返されたと思います」
「まだ言ってんのか」
前を向いたままリョウが答える。
「反射だよ。医者の先生にも何度も説明された」
「ですが、あの時は明らかに――」
「期待しないほうがいい」
その一言だけ、妙に低かった。
ケイは口を閉じる。
リョウの歩調は変わらない。
けれど、先ほどまでより少しだけ早足になっているように感じた。
二人はエレベーターで一階へ降り、病院の正面玄関を抜けた。
外へ出ると、夕方の風が頬を撫でた。
西へ傾き始めた陽の光は、病院の中に長くいた目には少し眩しく感じられる。
ケイとリョウは二人並んで帰路についていた。
病院を出てから、互いに一言も口を開いていない。
リョウは道の先にある小さな公園へ視線を向けた。
ケイを家族の事情に付き合わせてしまったことが、少し気にかかっていた。
「向こうで、ちょっと座ってくか」
公園の一角には、花壇を囲むようにベンチが設けられていた。
人の姿はない。
リョウは自動販売機の前で足を止め、缶コーヒーのボタンを押しながら尋ねる。
「何か飲むか?」
「いえ、自分で買います」
遠慮するケイにリョウは振り返った。
「母さんの化粧、手伝ってくれたろ。礼くらいさせろ。これから父さんと母さんからの分もまだあるんだぞ」
「……分かりました」
ケイはそれ以上反論せず、厚意を受け入れた。
こういう時、相手が遠慮しても強引に押し切るところはキヨツグもリョウもよく似ている。
ケイが温かい紅茶を指さすと、リョウはそのボタンを押した。
取り出したペットボトルを放るようにケイへ渡し、そのままベンチの端へ腰を下ろす。
「ありがとうございます」
「あぁ」
ケイも少し間を空けて隣へ座った。
西日に染まった淡い光が、ベンチの前に咲く花々を柔らかく照らしている。
二人はしばらくその花を眺めていた。
会話はない。
リョウはやがてコーヒーを一口飲み、缶を両手で弄び始めた。
何かを考えているようでありながら、それを口にする気はないようにも見える。
ケイは紅茶のペットボトルを膝の上へ置いた。
「事故について、もう少し聞いてもよろしいですか」
「……さっき話しただろ」
「中学三年生の時に事故に遭い、それ以来意識が戻っていない。それだけです」
「十分だろ」
「いいえ」
ケイはぴしゃりと言った。
「貴方は、まだ何か言っていません」
リョウの指が止まる。
だが、すぐに鼻で笑った。
「何だよ、それ。全知か?」
「それはヒマリです……貴方は何かを隠す時、露骨に話を切り上げようとします」
「気のせいだ」
「それから、妙に意味深な表情をします」
「してねぇよ」
「隠せているとでも思っているのですか?」
間髪入れずに返される。リョウは足を組んでベンチにもたれ、背もたれの縁へ肘を預けた。
「……君からしたら、平和な現代のガキの悩みなんてくだらねぇよ」
「何ですか、それは」
「《鍵》なんて役目背負わされてさ。銃撃戦だの、世界の危機だの、そういうの経験してきたんだろ」
リョウは缶コーヒーへ視線を落とした。
「それに比べりゃ、俺の話なんざ大したもんじゃねぇ。聞く必要ないってことだよ」
「話の重さを、勝手に比較しないでください」
「それとも何か?」
リョウは自嘲するように口元を歪め、片手をひらひらと振った。
「実は暗い過去を背負ってました、なんて悲劇の主人公サマみてぇな話を期待してんのか?そういう薄ら寒い設定はやめろ」
ケイはしばらく黙って彼を見つめた。
リョウも横目に視線を返す。
どちらかが先に折れるまで睨み合うような形になり、やがてケイは、呆れたように息を吐いた。
「隠すのであれば、もう少し上手くやってください」
「……は?」
「いちいち意味深な表情をされて、見ているこちらは腹が立ちます」
慰めるような声ではなかった。
同情も過度な気遣いもない。
ただ純粋に、面倒な態度を取られていることへ腹を立てている声だった。
リョウは目を瞬く。
しばらく呆気に取られていたが、やがて肩の力を抜き、小さく笑った。
「……ありがとう。そう言ってもらえると、話しやすい」
ケイは少し目を見開くと、すぐに微笑んだ。
「ふふ……何のことでしょうか? 私はただ、イラついただけです」
「それでもだ、ありがとう」
リョウは缶コーヒーを口へ運ぶ。
一度、深く息を吐いてから前を向いた。
「母さんが事故に遭ったのは、俺を探してたからだ」
「貴方を?」
「ああ」
缶を握る指に少しだけ力が入る。
「中三の頃、俺は今よりずっと荒れてた。喧嘩ばっかして、色んな奴から恨み買ってた」
「松永君からは流されていただけだと」
「……余計なことを。んなもん言い訳にしかなんねぇよ」
リョウはまるで他人の話でもするように続ける。
「ある日、その恨みからか、かなり追い回されてな……大した連中じゃねぇがしつこいのなんの。その時、たまたま才馬も巻き込まれた」
「才馬君が?」
「あぁ、アイツと話したのはそれが最初だ」
「才馬だけは逃がせた。そこまでは別にどうってことなかったんだが……そのあと数増えやがってな。結果、俺は拉致られて潰れた倉庫に監禁された」
リョウはあっけらかんと続ける。
「向こうは少し痛めつけて、上下関係でも分からせるつもりだったんだろうけどな」
ケイの眉が寄る。事態にしてはあまりにも軽い言い方だった。
「それは、少しという言葉で済む話ではないのでは?」
「結果的には生きて帰ってる」
「結果の話をしているのではありません」
「話進まねぇだろ」
リョウは苦笑した。ケイの言葉が少しうれしかった。
「翌日、俺が学校に来ねぇのに気付いて、才馬が警察に通報した。それで俺は警察に助けられた」
「でしたら――」
「助けられて家に帰った時には、母さんはもう病院にいた」
ケイの言葉が止まる。
公園を抜ける風が二人の間を通り過ぎた。
「俺が帰ってこないって分かって、母さんはずっと探し回ってたらしい」
リョウは淡々と続ける。
「警察にも連絡して、知り合いにも片っ端から聞いて、それでもじっとしてられなかったんだろうな。夜まで一人で探して……その途中で、事故に遭った」
「……」
「車に撥ねられて、頭を強く打った。命は助かったけど、それ以来ずっとあの状態だ」
リョウは缶コーヒーを傾けた。
だが、もう中身はほとんど残っていなかった。
「俺が病院に着いた時、父さんも兄貴もいた」
その時の光景を思い出しているのか声が少しだけ遠くなる。
「父さん、俺の顔見るなり……よく帰ってきたって言ったんだよ」
「……」
「兄貴もだ。何でこんなことしたとか、母さんがどうなったと思ってるとか、何も言わなかった」
リョウは乾いた笑いを漏らす。
「母さんがあんな状態なのに、俺が生きて帰ったことを喜んだ」
「……以前、言っていましたね」
「何を」
「才馬君と知り合った頃、“くだらないことをしていた自分に嫌気が差して、空っぽだった”と」
リョウの目がわずかに動く。
会った初日の話だ、覚えていないと思っていた。
「……覚えてたのか」
「貴方が自分から話したことです」
ケイは少しだけ視線を落とす。
「あの時は、ただ自分の素行を悔いていたのだと思っていました」
「……まぁ、嘘じゃねぇよ」
リョウは缶を指先で転がす。
「でも、それだけじゃなかった。母さんの事故を知って……何やっても全部くだらなくなったんだよ」
リョウは鼻で笑いながら続けた。
「喧嘩で勝ったとか負けたとか、誰が上だとか下だとか……そのせいで母さんがああなってんのによ」
「それが、“空っぽ”だった理由ですか」
「……そういうこと」
リョウは一度言葉を切る。
次に口を開いた時、声は少し低くなっていた。
「だから困るんだよ」
ケイがリョウを見る。
その横顔には、怒りも悲しみも浮かんでいなかった。
ただ、長い間同じ場所に置き去りにされているような、動かない表情だった。
「誰も、責めねぇんだ」
絞り出すような声だった。
「俺が喧嘩なんかしてなきゃ、恨みなんか買わなきゃ、母さんは事故に遭わなかった」
「ですが、貴方を拉致した人間と事故を起こした人間が――」
「分かってるよ。直接やったのは俺じゃねぇ」
吐き捨てるように言う。
「そんなこと、何百回も言われた」
「……」
「でも俺が原因なのは変わらねぇだろ」
指が缶を握り込み薄い金属が小さく歪んだ
「家族から母さんを奪った。兄貴からも、父さんからも」
リョウは病院がある方向へ視線を向けた。
「母さんからも、時間を奪ってる」
「……リョウ君」
「もし目を覚ましたとしても、身体が前みたいに動く保証はない。家族も歳取って、何年も経って、生活も全部変わってる」
唇の端がわずかに歪む。
「それに、もし今も動けないまま意識だけあるんなら……生きてる方がつれぇって思うかもしれねぇ」
病院に向かう前に聞いた言葉が、ケイの中に蘇る。
――母さん自身は、死んだ方がマシだと思ってるかもしれねぇ。
あの時は意味が分からなかった。
だが今なら、その言葉がリユの本心ではなく、リョウ自身の恐怖なのだと分かる。
「だから、少しでも時間を止めたかった」
「時間を?」
「ああ」
リョウは自分の手を見る。
「俺には母さんを治せねぇ。医者でもねぇし、何の知識もない」
小さく拳を握る。
「でも、肌が荒れないようにするとか、髪を綺麗に保つとか、それくらいならできた」
ケイは病室で見たリョウの手つきを思い出す。
化粧水を手のひらで温めること。
肌を傷つけないよう、濡らしたタオルで優しく拭くこと。
以前、自分の髪を乾かしてくれた時もそうだ。
熱を当てすぎないように髪を乾かし、毛先から丁寧に櫛を通すこと。
普段の大雑把さからは想像もできないほど迷いのない手つきだった。
「あの人が目覚めた時、少しでも昔と同じ姿でいられるように」
リョウは自嘲するように笑った。
「もう二年は経ってんのに、馬鹿みてぇだろ」
「いいえ」
ケイは即座に否定した。
「別に、慰めなくていい」
「慰めてはいません」
声が少し強くなる。
「貴方が今日まで続けてきたことを、馬鹿にする理由がありません」
「これくらいしか、できねぇんだよ」
「“これくらい”ではありません」
ケイはリョウの横顔をまっすぐに見た。
「病院へ通い、家で起きた出来事を話し、目覚めた後のことを考えて肌や髪を守る。それを続けているのでしょう」
「俺のせいなんだから当然だろ」
「当然ではありません」
「……」
「罪悪感だけで続けられることではありません」
リョウが眉を寄せる。
「私には、貴方が罰を受けているようには見えませんでした」
「じゃあ何に見えたんだよ」
「お母様との時間を、今も生きているように見えました」
リョウの目がわずかに揺れた。
「返事がなくても話しかける。目覚める可能性を考えて、勝手に髪を切らない。結婚記念日には花を用意する」
ケイは病室の中で見たものを一つずつ言葉にしていく。
「未来を諦めた人間は、そのようなことをしません」
「……分かったようなこと言うなよ」
低い声だった。怒っているというより、これ以上踏み込まれることを恐れているように聞こえた。
「母さんが何を思ってるかなんて、誰にも分かんねぇ」
「はい。分かりません」
予想外の返答に、リョウがケイを見る。
「私はリユさんではありません。ですから、リユさんが貴方を許しているとも、恨んでいるとも断言できません」
「……ずいぶん冷てぇな」
「勝手に気持ちを決める方が、失礼でしょう」
ケイは静かに続ける。
「ですから、目覚めた時にご本人へ聞いてください」
「……」
「答えを聞く前から、嫌われていると決めつけないでください」
リョウは何も言わなかった。
手の中の空き缶を見つめたまま、じっと動かない。
ケイも無理に言葉を重ねなかった。
やがてリョウがぽつりと呟く。
「目ぇ覚まさなかったら、聞けねぇけどな」
「でしたら、聞ける日まで待つしかありません」
「簡単に言うなよ」
「簡単だとは言っていません」
ケイは膝の上の紅茶へ視線を落とした。
「……それに、私にも少し分かります」
「……君が?」
「はい。状況は全く違いますが、自分には責められる理由があると思っているのに、それでも周囲から受け入れられることへの戸惑いは……私にも覚えがあります」
リョウは顔を上げる。
ケイは少し迷うように指先を重ねた。
「かつて私は、《名も無き王女の鍵》としてミレニアムの皆を傷つけました」
「……」
リョウはその出来事を知っている。
ゲームの中で見た。
ケイがアリスの身体を奪い、先生たちを危険にさらしたこと。
「アリスの身体を利用し、先生や、ミレニアムの皆を危険にさらしました」
ケイは自分の両手を見つめる。
「しばらくしてまた目覚めた時、私は自分がどのような顔でアリスたちに会えばよいのか……分かりませんでした」
リョウは黙って話を聞いていた。
「皆が受け入れてくれたことも、最初は理解できませんでした」
「……ゲームじゃ、そこまでは分からなかったな」
リョウが小さく呟く。
「事件があったことは知ってる。君が何したかも、その後どうなったかも」
一度言葉を切る。
「でも、君がその時どう思ってたかは……そこまで知らなかった」
ケイはほんの少し目を見開き、それから静かに頷いた。
「当然です」
「当然?」
「ゲームにされた出来事が、私の全てを記録しているわけではありません」
「……そりゃそうだな」
「私は、自分が許されたとは思っていません」
「え?」
「そもそも、私が勝手に“許された”と判断してよいのかも分かりません」
ケイの声は穏やかだった。
「ですが、皆が私に与えてくれた時間を、私の判断だけで捨てることは違うと思っています」
脳裏に、アリスの笑顔が浮かぶ。
先生の言葉。
ゲーム開発部の騒がしい日常。
自分を一人の仲間として迎え入れた人々。
「だから私は、ミレニアムにいます」
ケイはリョウへ視線を向けた。
「キヨツグさんも、お兄様も、貴方が生きて帰ったことを喜んだのでしょう」
「ああ」
「でしたら、貴方がその気持ちを否定してはいけません」
「否定なんかしてねぇよ」
「しています」
ケイはぴしゃりと言い放った。
「自分は帰るべきではなかった。自分だけが日常へ戻るべきではなかった。そう思っているのでしょう」
リョウは答えない。
沈黙が、そのまま肯定になった。
「責任を取ることと、未来を捨てることは同じではありません」
その言葉に、リョウの眉がわずかに動いた。
「以前、私が話したことを覚えていますか」
「何を」
「“先生”が責任を背負う理由です」
リョウは少し考え、思い出したように鼻を鳴らした。
「過ちで未来が閉ざされないようにする、とかいう話か」
「はい」
ケイは頷く。
「責任を取らなくてよいのではありません。責任を取れるようになるまで待つ」
「また先生の受け売りかよ」
「悪いですか」
「別に」
リョウは背もたれへ体重を預けた。
「でも俺は、先生みたいにはなれねぇぞ」
「貴方は貴方でしょう」
あまりにも当然のことのように言われ、リョウは言葉を失った。
ケイは続ける。
「貴方のしたことに、何の問題もなかったとは言いません」
「おい」
「喧嘩を繰り返し、周囲から恨みを買ったことについては、反省すべきです」
「急に説教始めんな」
「ですが、反省することと、自分の未来を捨てることは別です」
リョウは何かを言い返そうとした。しかし、言葉が出なかった。
「責任を取ることは必要です。ですが、自分を不幸にし続けることだけが責任ではありません」
ケイの言っていることは、おそらく父や兄から何度も聞かされたことと大きく変わらない。
それでも、なぜか今日は少しだけ胸に入ってくる。
同じように、自分の過去を知りながら受け入れられたことへ戸惑っている相手から言われたからかもしれない。
それとも、同情も慰めもせず悪かった部分は悪かったとはっきり言われたからか。
「自分がどうありたいかを決めるのは、自分自身です。ですが、他人の気持ちを勝手に決めつけて、それを理由に自分の未来まで決めてよいという意味ではありません」
それは、かつて先生から受け取った考えだった。
けれど、今口にした言葉のすべてが借り物というわけではない。
アリスたちと過ごし、考えた末にケイ自身が選んだ答えでもあった。
「……そう簡単に、切り替えられるかよ」
リョウは小さく呟いた。
「すぐに変われとは言っていません」
「じゃあどうしろってんだ」
「待ちます」
ケイは迷いなく答えた。
リョウが目を瞬く。
「……何を」
「貴方が、自分なりに答えを出せるまでです」
「……待たずに君が戻れるといいがな」
「じゃあ早く答えを出すことですね」
リョウは目を丸くした。
先ほどまで空き缶を潰しそうなほど力を込めていた手は、もう緩んでいた。
以前にも、同じようなことを言った覚えがある。
だが、あの時とは違って今回は「そうですね」では終わらなかった。
「……せかしてんのか?」
「まさか、背中を押してるんです」
「変わらねぇだろ」
「押すんじゃなくて蹴とばしましょうか?」
「上等だコラ」
リョウが睨み返す。
ケイも負けじと目を細めた。
先に折れた方が負けとでも言わんばかりの睨み合いが続く。
やがて――ケイの口元がわずかに緩んだ。
それを見たリョウも堪えきれず、ふっと吹き出す。
「……何笑ってんだよ」
「貴方こそ」
「君が先だろ」
「いいえ、貴方です」
どちらからともなく笑い声が漏れた。
ほんの少し前まで二人の間にあった重苦しい空気が、夕方の風に攫われていく。
笑いが収まると、しばらく二人は何も言わずに公園を眺めていた。
広場では子供たちが走り回り、時折楽しげな声がこちらまで聞こえてくる。
リョウはそれをぼんやり眺めながら、手の中の空き缶を一度だけ転がした。
やがて立ち上がり、近くの回収箱へ放り入れる。
「帰るか」
「はい」
ケイも立ち上がる。
二人は公園を出て、嵯峨野家へ続く道を歩き始めた。
来た時より歩調は少しだけゆっくりだった。
「まぁ……」
しばらくして、リョウが頭の後ろをかいた。
「少しは気持ち楽になった」
「そうですか」
「ありがとな、ケイちゃ――」
言いかけて、止まる。
「……ケイ」
ケイはその横顔を見る。
「別に、“ちゃん”付けでも構いませんよ」
「……は?」
リョウが足を止めた。
「何だよ急に」
「私が貴方を“リョウ君”と呼んでいるのに、貴方だけ禁止というのもおかしいでしょう」
「……たしかに」
それだけ答え、リョウは前を向いた。
口元が緩みそうになるのを見られたくなかった。
「ただし、必要以上に連呼することは禁止です」
「条件付きかよ」
「当然です」
「じゃあ、いつならいいんだよ」
「それくらい自分で考えてください」
「面倒くせぇな、ケイちゃん」
「許可した途端に使わないでください!」
「禁止されてねぇだろ」
「節度というものがあります!」
少し先を歩きながら、ケイは頬を膨らませる。
その背中を見つめながら、リョウは小さく笑った。
一方でケイも、誰にも聞こえないよう、心の中で言葉を紡いでいた。
(すみません、先生)
リョウと先生を比べてばかりいた。
先生の起源だから、それに相応しい人間にするためだから。
そう言いながら、違うところを見つけては呆れ、同じところを探しては安心していた。
けれど、それはきっと、失礼なことだったのだろう。
彼は先生ではない、先生になる必要もない。
誰にも見られない場所で、目覚めない母親へ毎日話しかけ、その時間を守り続けてきた。
過去に苦しみながらも、今も誰かを放っておけずにいる。
不愛想で、口が悪くて、時々どうしようもなく面倒ではあるけれど。
ケイはわずかに頬を緩めた。
(リョウ君。あなたはあなたのままで───立派な人ですよ)
その頬が赤く見えたのは、夕焼けのせいだったのかもしれない。
少し歩幅が遅くなったケイにリョウは軽口をいう。
「拗ねてんのか? ケイちゃん」
「う、うるさいです!」
ケイは振り返ることなく、歩調を少しだけ速めた。
リョウもその背中へ追いつこうと足を進める。
それから、しばらく歩いた時だった。
ケイの頭上に、赤い光が浮かんだ。
「……え?」
小さな四角形のような模様が、いくつも連なっている。
途切れ途切れに連なる赤い光。
ゲームで何度も見た、天童ケイのヘイローだった。
だが、リョウが目を凝らした次の瞬間。
赤い光は揺らぎ、跡形もなく消えた。
そこには、いつもと変わらないケイの後ろ姿しかない。
「……今の」
思わず声が漏れる。ケイが振り返った。
「どうかしましたか?」
「……いや」
リョウは何もない頭上を見つめる。
「なんでもねぇよ」
「そうですか」
ケイは不思議そうに首を傾げたが、それ以上は尋ねず、再び前を向いた。
リョウも歩き出す。
見間違いだったのかもしれない。
陽の光がケイの白い髪の上で反射しただけかもしれない。
それでも。
一瞬だけ見えた赤い残像は、リョウの目の奥から消えなかった。
評価、お気に入りありがとうございます。
遅れましてすみません、繁忙期前にあげようとしたら思ったより早く来てしまいました。
次回から第二部 繫忙期なのと展開の整理ができておらず遅れます。
一ヶ月は空きます。
申し訳ございません。
小説初心者なのでその他至らぬ所は言っていただけると励みになります。