久しぶりのデートだった。
ここ数ヶ月、Raiderの攻勢は激化の一途を辿っていて、出撃の間隔はますます短くなっていた。
まともな休日なんて月に一度あるかないかで、あったとしてもヴィルは事務仕事に追われ、俺は検診や薬の服用スケジュールの管理に神経を使い、二人で外出する余裕なんてほとんど残されていなかった。
だからこそ、今日この日が嬉しくて仕方がない。
(やったー! デート! デートだ! 恋人になってからのデートって、なんかこう、前とは違うドキドキがあるよな!)
俺はクローゼットからあの淡いブルーのサマードレスを引っ張り出し、鏡の前で襟を整えた。何度も着ているから少しくたびれてきたけれど、この一着は俺にとって特別だ。
ヴィルとの思い出が染みついた、俺の勝負服。
ただ、鏡に映る自分の顔が、ほんの少しだけ痩せたような気がした。頬の輪郭が以前より鋭くなっている。初めてこの顔を見た時の、ふっくらとした幼さはもうない。
(……まぁ、シャープになったってことで。モデル体型ってやつだ。ポジティブに解釈していこう)
朝食の前に、洗面台の棚から小さなケースを取り出す。ヘンドリクス軍医が処方してくれた神経安定剤。電脳化された領域と生身の境界の信号の乱れを一時的に抑え、末梢神経の伝達遅延を緩和する効果がある。
副作用として微かな倦怠感があるが、手足の痺れや視界の明滅を数時間ほど抑えてくれる。俺のお守りのような薬だ。
白い錠剤を幾つか口に放り込み、水で流し込んだ。苦い。コーヒーの苦さとは違う、薬品特有の無機質な苦味が喉の奥に残る。
(……よし。これで今日一日は大丈夫。デートを楽しむための必要経費だ)
リビングに出ると、ヴィルが珍しくキッチンではなくソファに座って俺を待っていた。黒いシャツにダークグレーのパンツ。いつもと同じ服装だ。
(……この男、私服のレパートリーが少なすぎるんだよな。でも、まぁ、似合ってるからいいか。むしろ毎回同じ格好なのに、毎回かっこいいのがずるいよな)
「おはようございます、ヴィル。準備できました」
「ああ。……行くか」
ヴィルが立ち上がり、俺に手を差し出した。恋人になってから、外出時はこうして自然に手を繋ぐようになっている。大きくて温かい掌が、俺の小さな手を包み込む。
薬のおかげで、今日は指先の感覚もしっかりしている。彼の体温が、ちゃんとわかる。
(……うん。やっぱり、ヴィルの手は温かいな)
─────
コロニーの商業区画を二人で歩く。
あの初めての散歩の日と同じ通りだ。ホログラムの広告が空中を漂い、並木道の緑が人工の陽光に照らされて鮮やかに揺れている。
だが、二年半前とは明らかに変わっていることがあった。通りを歩く人の数が、目に見えて減っている。Raiderの攻勢が激しくなるにつれて、ショーウィンドウの半分以上にはシャッターが下り、かつての華やかさは薄れつつある。閉店した店舗のガラスには薄く埃が積もり、ホログラム広告も以前の半分ほどしか稼働していない。
それでも、通り沿いのクレープの屋台は健在だった。クレープの甘い匂いが、風に乗って漂ってくる。
「ヴィル、あそこ。まだやってます」
「……ああ。食うか」
「もちろんです」
苺と生クリームのクレープを両手で包み持ち、端っこを小さくかじる。じゅわりと広がる甘さに、俺の頬が緩んだ。最近は味覚もかなり鈍くなってきているが、今は大丈夫、ちゃんと甘い。
(……うん、この味だ。あの時と同じだ)
初めてここでクレープを食べた時、俺は思わず頬を緩ませてしまって、ヴィルに口元の生クリームをハンカチで拭われたのだった。あの時はまだ、「演算処理の乱れが……」なんて苦しい言い訳をしていたっけ。
今は、言い訳をする必要もない。
「……美味しいです、ヴィル」
「口にクリームがついている」
「えっ」
慌てて口元に手をやるより先に、ヴィルの親指がすっと唇の端を拭った。
(……お、おい。公共の場でそういうことするなよ。心臓に悪いだろ)
頬が熱くなるのを感じながら、俺はクレープをかじって誤魔化した。ヴィルの口元には、微かな笑みが浮かんでいる。
(……あんたも二年半でだいぶ変わったよな。あの氷の仏頂面がこんなにデレるなんて、初対面の俺が見たら腰を抜かすぞ)
クレープを食べ終えた後、俺たちは商業区画の奥にある小さな公園のベンチに座った。人工の陽光が木漏れ日を作り、葉っぱの影が俺たちの足元でゆらゆらと揺れている。
ヴィルが自販機で買ってきた飲み物を俺に渡した。温かいカフェオレ。
「……ヴィル」
「ん」
「今日、ここに来られてよかったです。最近ずっと忙しかったから」
「……ああ。俺もだ」
ヴィルが、ベンチの背もたれに身体を預けた。軍人としての姿勢の良さが少しだけ崩れて、年相応の青年の佇まいになる。こういう顔をしている時のヴィルが、俺は好きだ。
俺はカフェオレを一口飲んで、ほぅと息を吐いた。甘くて温かい。この味を、あと何回味わえるだろう。
(……数えない、数えない。今日は楽しむ日だ)
カフェオレの缶を両手で包みながら、ふと隣のを見る。ヴィルが端末を閉じて、代わりに俺の方をじっと見つめていた。
「……何ですか?」
「いや。……お前、最近よく笑うようになったな」
「そうですか?」
「ああ。出会った頃は、人形みたいな顔をしていたのにな」
(……それは演技だったんだけどな。今さら言えないけど)
「ヴィルの影響ですよ、きっと。ヴィルが笑うようになったから、わたしも笑うようになったんです」
「……俺は、そんなに笑っているか?」
「笑ってますよ。前に比べたら、ずっと」
ヴィルは少し面食らったような顔をして、それから照れ臭そうにコーヒーに視線を落とした。二年半前、あの白い部屋に現れた時の氷のような表情とは、別人のようだ。
(……俺がこの男を変えたのか、この男が俺を変えたのか。たぶん、両方だな)
「ヴィル、このあとどこか行きたいところはありますか?」
「お前が行きたいところでいい」
「じゃあ、あの植物園にもう一度行きたいです。前に行った時、奥のエリアが閉鎖中で見られなかったので」
「わかった。飲み終わったら……」
その時だった。
ヴィルの端末が、けたたましい警告音を発した。
ヴィルは眉間に皺を寄せながら端末を確認し、その表情が一瞬で険しくなった。
「……緊急招集だ。全パイロットと搭載ユニットは、即座に第一会議室へ出頭せよ」
俺の端末にも、同じ通知が届いていた。赤い文字で最優先のマークが点滅している。
「……デート、おしまいですね」
「……すまん」
「ヴィルが謝ることじゃないです。……行きましょう」
俺はカフェラテの残りを一気に飲み干し、椅子から立ち上がった。甘い余韻が舌の上に残っている。植物園は、また今度だ。
(……あーあ、せっかくのデートだったのにな)
─────
司令部の大会議室は、異様な緊迫感に包まれていた。
長いテーブルを囲むように、数十人のパイロットとその生体ユニットたちが整列している。中央に展開されたホログラムモニターには、宇宙空間の三次元マップが映し出されていた。
その中央に表示された赤い点の群れを見た瞬間、俺の血の気が引いた。
(……なんだ、あの数)
人類防衛圏の外縁部。そこに集結しているRaiderの反応を示す赤い光点は、モニターの一角を埋め尽くすほどの密度で犇めいていた。
司令官が壇上に立ち、重々しい口調で説明を始めた。
「諸君に告げる。七十二時間前、防衛圏外縁部セクターG-7において、過去最大規模のRaider艦隊集結が観測された。その数、推定三千以上。旗艦級を含む戦闘艦隊が、人類防衛圏への侵入態勢を構築しつつある」
会議室がざわめいた。三千。これまでの大規模防衛戦でさえ、Raiderの総数は数百規模だった。桁が違う。
「本作戦は、人類防衛圏の存亡をかけた決戦となる。利用可能なすべての戦力を投入し、敵艦隊を外縁部で迎撃する。出撃は四十八時間後を予定している」
俺は隣に立つヴィルの横顔を窺った。彼の表情は凍りついたように硬い。パイロットとして、すでにこの戦力差の意味を理解しているのだろう。顎の線がぴくりと動いた。歯を食いしばっている。
(……三千、か。シミュレーションで想定される最悪のケースよりも、さらに悪い)
この規模の敵を相手にするとなれば、脳にかかる演算負荷は通常の数倍に跳ね上がる。今の俺の身体で、それに耐えられるか……。
答えは、たぶん……否だ。
(……まぁ、予想より早く来ちゃったな。でも、問題ないっちゃ問題ない)
ブリーフィングの詳細が次々と読み上げられていく。各部隊の配置、作戦フェーズごとの目標、撤退条件。俺はそれらを頭に刻みながら、隣のヴィルの強張った拳を、そっと小指で突いた。
ヴィルがこちらを向く。
俺は、できるだけ普通の顔で、小さく頷いてみせた。大丈夫、と。
ヴィルの強張った拳が、ほんの少しだけ緩んだ。
─────
ブリーフィングの後、宿舎に戻る道すがら、ヴィルはずっと黙っていた。
廊下を歩く他のパイロットたちの表情も一様に暗い。すれ違う生体ユニットたちの虚無の顔が、妙に俺の目に焼き付いた。あの中の何人が、この戦いを生きて帰れるのだろう。何人の脳が、音を立てて焼き切れるのだろう。
部屋に入り、ドアが閉まった瞬間、彼は俺の手を握り、静かに口を開いた。
「ユニ」
「はい」
「……この戦いが終わったら」
ヴィルが、真っ直ぐ前を見たまま口を開いた。
「俺は、軍を辞める」
「……え?」
予想していなかった言葉に、俺は思わず彼の顔を見上げた。
ヴィルの黒い瞳は、これまでに見たことのないほどの決意を湛えていた。
「軍を辞めて、お前を治す方法を探す。生体ユニットの摩耗を止める技術が、この世界のどこかにあるかもしれない。なくても、俺が見つける。何年かかっても」
「ヴィル……」
「お前は俺の部品じゃない。消耗品でもない。俺は、お前とただ一緒に、生きていきたいんだ」
声が、微かに震えている。それでも彼は目を逸らさなかった。
(……あぁ、ヴィル。お前は本当に、どこまでも真っ直ぐな奴だな)
嬉しかった。本当に、心臓がちぎれそうなくらい嬉しかった。
ヴィルの手に、ぎゅっと力がこもった。
その声の真剣さ。その瞳の強さ。彼は本気だ。本気で、俺の未来を信じている。
胸の奥が、ぎゅうっと絞られるように痛んだ。
嬉しい。彼がそこまで俺のことを考えてくれている。俺の未来を、俺以上に信じてくれている。それが、たまらなく嬉しい。
でも、同時に、胸が引き裂かれそうだった。
だって、俺は知っている。ヘンドリクスに告げられた数字を。半年。楽観的に見ても、半年。
たとえ生き残ったとしても、この戦いが終わる頃には、俺の身体はもう……。
(……ヴィル。その約束は、たぶん、叶わない)
でも、ここでそれを言うわけにはいかない。この男の希望を、俺が奪うわけにはいかない。彼がこの戦いを最高の状態で戦うためには、帰ってきた後の未来を信じていてもらわなきゃいけない。
俺が死ぬことは、変えられない。でも、彼が戦う理由を奪うことだけは、絶対にしちゃいけない。
「……ヴィル」
(……ごめんな。でも、ありがとう)
彼が俺の未来を信じてくれていること。俺のために全てを捨てようとしてくれていること。それだけで、十分すぎるほどの幸福だ。
「……ヴィル。わたしも、ヴィルと一緒に生きたいです」
嘘じゃない。
ただ、俺にとっての「一緒に」は、ヴィルが思っているものとは少しだけ違う形になるだけだ。
俺はヴィルの胸に額を押し当て、目を閉じた。彼の腕が俺の背中に回り、強く抱きしめてくる。
「……約束する。絶対に、お前を救う」
ヴィルの腕の中は温かかった。この温もりを覚えていよう。身体のどこかに、この熱を刻み込んでおこう。
たとえ形が変わっても、ずっと覚えていられるように。
(……あと四十八時間。まだ、四十八時間もある)
薬の効果が切れかけているのか、こめかみの奥がじんわりと疼く。左手の小指の感覚が、数秒だけ鈍くなって、また戻った。
全部、隠す。ヴィルの前では、最後まで笑っていると決めたのだから。
だから、泣いている暇なんてない。笑おう。最後まで、ヴィルの前では笑い続けよう。
俺はヴィルの背中にきゅっと腕を回し、もう少しだけこうしていたいと思った。
残された時間を、一秒も無駄にしないために。
【U222の磨耗状況に関する報告】
現在見られる諸症状:
・視覚の持続的な明滅。
・手足の麻痺。
・平衡感覚の乱れ。
・聴覚の断続的な難聴。
・味覚,嗅覚の鈍化。
・他神経摩耗による諸症状。
追記
U222に処方している神経安定剤の消費が指定より早い。過剰摂取は身体的な悪影響が…………。