出撃まで、あと十五時間。
最後の点検を終えた格納庫から宿舎に戻ると、コロニーのスクリーンはすでに夜の色に切り替わっていた。人工の星々が、いつもと同じように天蓋に散りばめられている。いつもと同じ夜。なのに、空気の温度がほんの少しだけ違って感じた。
部屋に入ると、ヴィルがキッチンに立っていた。
「……今日は、俺が作る」
振り返りもせず、短くそう告げる背中。その肩が微かに強張っているのを、俺は見逃さなかった。
(……ヴィルも、緊張してるんだな)
当然だろう。明日は、人類の存亡をかけた戦いだ。どれだけ腕のいいパイロットでも、三千を超える敵を前にして平常心でいられるわけがない。
俺はソファに座って、彼の背中を眺めた。フードクッカーのパネルを操作する指先が、いつもより少しだけぎこちない。メニューを選ぶ手が、何度か止まっては、やり直している。
やがてテーブルに並んだのは、トーストとスクランブルエッグとサラダ、そしてコーヒーだった。
「……これ」
「ん?」
「初めて、一緒に朝ご飯を食べた時と、同じメニューですね」
ヴィルの手が一瞬だけ止まった。それから、何も言わずに椅子を引いて座る。
「……偶然だ」
(……嘘つけ)
でも、それを指摘する気はなかった。彼なりの、不器用すぎる感傷の表し方なのだろう。
フォークでスクランブルエッグを口に運ぶ。ふわりと柔らかい食感が舌の上で崩れ、バターの香りが鼻を抜けていく。
……あの日と同じ味。
(……美味しいな。やっぱりヴィルと食べるご飯は美味しい)
「……ごちそうさまでした」
「ああ」
皿を片付ける。水の音。食器の触れ合う軽い音。日常の些細な音が、今日はやけに鮮明に耳に届く。
まるで身体が、この瞬間を一つ残さず記憶しようとしているみたいだった。
─────
就寝前のメンテナンスの時間。
ベッドの端に座り、ヴィルに背を向ける。いつもの手順。冷たい洗浄液がソケットの周辺に塗布され、彼の指先が丁寧に表面を拭き清めていく。
……だが、今日の彼の指は、いつもよりずっとゆっくりだった。
一つ一つの動作を引き延ばすように、確かめるように、指先がソケットの縁をなぞっていく。まるで、この作業をできるだけ長く続けていたいと願っているかのように。
「……異常なし」
その声も、いつもより低く、静かだった。
俺は振り返り、彼の顔を見上げた。
ヴィルの黒い瞳は、メンテナンスの器具を片付ける手元ではなく、俺の顔を見ていた。真っ直ぐで、どこか脆い眼差し。
「……ヴィル」
「……ん」
「怖いですか?」
「……何がだ」
「明日のこと」
ヴィルは少しだけ間を置いてから、静かに首を振った。
「怖くはない。お前がいるなら、俺は負けない」
(……ほんと、かっこいいこと言うよな、この男は)
その言葉が嘘じゃないことを、俺は知っている。ヴィルは本気でそう信じている。俺がいれば勝てると。二人で帰ってこられると。
…………よし。
「……ヴィル」
「ん」
「今夜は、まだ寝たくないです」
ヴィルが少し驚いたように俺を見た。
「……明日のためにも、休んだ方がいい」
「わかってます。でも……もう少しだけ、ヴィルと一緒にいたいんです」
俺は彼の腕にそっと手を添えた。指先が、彼のシャツの袖に触れる。薬のおかげで今夜は感覚がしっかりしている。彼の腕の温度も、シャツの生地の織り目も、その下にある筋肉の硬さも、全部わかる。
全部、覚えておきたい。
ヴィルの手が、俺の手の上に重なった。指と指を絡めるように握る。掌と掌の間に、互いの体温が溜まっていく。
「……ユニ」
「はい」
「明日、お前を必ず守る。どんなことがあっても」
「……知ってます。ヴィルはいつもそうだから」
そう言って、俺は握られた手を少しだけ持ち上げ、彼の指先に唇を当てた。ヴィルの肩が跳ねる。もうこういう不意打ちには慣れたはずなのに、相変わらず可愛い反応をする。
「……ヴィル。わたし、ヴィルに聞きたいことがあります」
「なんだ」
「わたしのこと、好きですか」
「……何度も言っただろう」
「もう一回、聞きたいんです」
ヴィルは呆れたように息を吐いた。けれど、俺の目を見て、はっきりと答えた。
「好きだ。愛している」
その声が、静かな部屋の中で小さく震えた。何百回聞いても色褪せない、真っ直ぐな言葉。
(……うん。知ってた。でも、何回でも聞きたかったんだ)
「わたしも、ヴィルが好きです。世界で一番」
俺はそう言って、彼の頬に手を伸ばした。
ヴィルの瞳が、至近距離で俺を見つめている。黒い瞳の中に、常夜灯の小さな光が二つ映っている。その光が揺れていた。
「……ヴィル。お願いがあります」
「言ってみろ」
「今夜は……わたしの傍に、いてくれますか」
「…………」
数秒の沈黙の後、その言葉の意味を、ヴィルは理解したのだろう。彼の肩が微かに強張り、それからゆっくりと力が抜けた。
「……いいのか」
「はい」
正直に言えば、怖くないわけじゃなかった。前世の俺は男だ。男の身体で男に触れられる想像なんてしたこともなかったし、この身体になってからも、そういうことを考えるたびに頭の片隅で「いやいやいや、俺は元々男で……」という声が鳴っていた。
以前なら、こんなことを自分から言い出すなんて、死んでも……いや、死んだから今ここにいるんだけど、とにかく想像もつかなかっただろう。男だった自分が、男に向かってこんな言葉を口にするなんて……。
(……でもさ、ヴィルだからいいよな。ヴィルだから、全部あげたいんだ)
前世が男だったとか、この身体が借り物だとか、そんなことは、とっくにどうでもよくなっていた。
だって、俺が好きになったのは「ヴィルヘルム・オルバース」という人間で、この身体で感じたすべての幸せも痛みも喜びも、全部本物だから。
それを、最後に、全部、この人にあげたい。
俺は、彼の目を真っ直ぐに見つめた。もう演技も、建前も、言い訳もいらない。今夜だけは、全部、脱ぎ捨てて。
「……今夜は、ヴィルの隣で眠りたいんです」
ヴィルが息を呑む音が聞こえた。
数秒の沈黙の後、彼の大きな手が俺の頬に触れた。温かい掌。少しだけ震えている。
「……本当に、いいのか」
「……はい。ヴィルだからいいんです」
不思議なほど自然に、そう思えた。前世がどうとか、男だったとか、そういう理屈が全部、この人への気持ちの前では驚くほど軽い。好きだから。大好きだから。この人に全部あげたい。残された時間の全部を、この人の温もりで満たしたい。
それだけのことだ。
─────
部屋の照明が、暗く落とされた。
窓の外のスクリーンが映す人工の星明かりだけが、カーテン越しに薄く部屋を照らしている。
ヴィルの指先が、俺の赤い髪に触れた。いつものメンテナンスの時とは少し違う、ゆっくりとした指遣い。髪の一筋一筋を確かめるように梳いて、耳の後ろ、うなじ、首の後ろのソケットの冷たい金属の縁をそっとなぞり、それから肩へと降りていく。
その指先が通る場所が、微かな熱を帯びていく。
「……冷たいな。お前は、いつも手が冷たい」
ヴィルが囁いた。その声は、暗闇の中でいつもより近く、柔らかく響いた。
「……ヴィルが温めてくれるから、大丈夫です」
彼の掌が俺の手を包み込む。大きくて硬い手。タコのある指。この手で操縦桿を握り、この手で俺のソケットを磨き、この手で俺にコーヒーを淹れてくれた。大切な記憶が染み込んだ手だ。
ヴィルの額が俺の額に触れた。
吐息が肌を撫でる。コーヒーの僅かな残り香。
唇が触れた。
柔らかくて、温かくて、少しだけ震えていた。
(……あったかい)
目を閉じると、暗闇の中に、彼の体温だけが世界のすべてになった。
俺の身体は生体ユニットとして作り変えられた、機械と生体の境界に立つ、歪な器だ。首の後ろには冷たい金属のソケットが埋まっていて、脳の一部は電子回路に置き換えられている。
それでもヴィルは、この身体を抱きしめてくれる。冷たい金属ごと、壊れかけた回路ごと、全部まとめて。
彼の心臓の音が、俺の胸に伝わってくる。速くて、強くて、少しだけ不規則で。緊張しているのだ、この男も。あの冷徹だった男が、腕の中の少女一人の前で、こんなにも不器用に震えている。
(……かわいいなぁ、ヴィル)
俺は彼の胸に頬を寄せ、その鼓動を聴いた。
この音も、覚えていよう。
彼の体温を。彼の匂いを。彼の指先の硬さと、その裏側にある途方もない優しさを。俺がこの世界で触れたすべての温もりの中で、この夜が最も美しいものだと、そう記憶に刻み込んでおこう。
星明かりの中で、彼の黒い瞳が俺を見つめていた。その目の中に、俺の赤い瞳が映っていて。
「……綺麗だ」
ヴィルが呟いた。
「……何がですか」
「お前が」
(……やめろ、そういうの。今言われたら、泣いてしまう)
涙の代わりに、彼の首に腕を回して、もう一度、唇を重ねた。
─────
どれくらいの時間が経っただろう。
薄暗い部屋の中で、俺はヴィルの腕の中に横たわっていた。
彼の胸に頭を預け、彼の心臓の音を聴いている。さっきまでの速い鼓動は落ち着いて、今は穏やかなリズムを刻んでいた。彼の腕が俺の背中に回されたまま、時折、指先が俺の髪を梳く。
「……ヴィル」
「ん」
「……幸せです」
「……ああ。俺もだ」
その声には、穏やかさと、微かな眠気と、そしてどこまでも深い愛情が混じっていた。
ヴィルは信じている。明日の戦いを勝ち抜いて、二人で帰ってくることを。軍を辞めて、俺を治す方法を探すことを。この先もずっと、こうして並んで眠れる夜が続くことを。
その希望を、今夜だけは、俺も一緒に信じていたかった。
「……ヴィル」
「ん」
「明日、絶対に勝ちましょうね」
「ああ。……勝って、帰ってくる」
「はい。帰ってきたら、わたしがコーヒーを淹れます。ヴィルの好きな、濃いやつ」
「……楽しみにしている」
ヴィルの声に、微かな笑みが混じった。帰還後のコーヒーを楽しみにしている。その何気ない未来の約束が、俺の胸を温かく、そして少しだけ鋭く刺した。
……ヴィル。ありがとう。俺に、こんなに幸せな時間をくれて。
名前をくれて。
ご飯を作ってくれて。
海に連れて行ってくれて。
星を見せてくれて。
愛してくれて。
全部、全部、宝物だよ。
消耗品のくせに、こんなに欲張りな人生を送っちゃって。
……こんなにも温かい場所で眠れるなんて。
前世の俺が聞いたら「お前ずるいぞ」って言うかな?
うん、ずるいよな。本当に……。
だから、後悔なんて、一つもない。
(……ヴィル。全部、もらったよ。だから、俺も全部あげる。この身体で渡せるものは、全部)
明日が来れば、俺たちは機体に乗り込む。そして、たぶん……。
(……でも、今はまだ、夜だ)
「……おやすみなさい、ヴィル」
「ああ。……おやすみ、ユニ」
目を閉じる。ヴィルの体温が、俺を包んでいる。
彼の心臓の音が、俺の耳元で穏やかに脈打っていた。とくん、とくん、と、生きている音。俺を抱きしめている人が、確かに生きている音。
明日、俺はきっと、笑って戦場に出る。いつも通りの顔で……。そして、ヴィルを勝たせる。
それが、俺にできる、最後の愛し方だ。
だから……。
だから、今夜は、もう少しだけ、この温もりの中にいさせてほしい。
もう少しだけ。
もう少しだけでいいから。