『……接続完了。全データリンク、オールグリーン。U222、思考同調を開始します』
無機質なシステムアナウンスが脳内に響き渡り、生体ユニット用ポッドの中で完結していた意識が、一気に拡張された。
頚椎のソケットに差し込まれた接続ケーブルを通じて、機体の全神経系統が俺の脳と電脳に接続されていく。装甲の隅々に至るまでのダメージセンサー、推進系の燃焼温度、武装系統のエネルギー残量。
膨大な情報の奔流が、堰を切ったように頭蓋の内側へ流れ込んでくる。
狭いポッドの中、プラグスーツに包まれた華奢な身体が微かに震えた。いつもの出撃前の感覚だ。背骨の芯が冷たくなり、指先が痺れ、視界が一瞬だけ白く弾ける。
だが今日は、それに加えて、首筋にじわりと滲む鈍痛があった。ヘンドリクスの薬が切れかかっている。朝、最後の一錠を飲んだが、あれは数時間しか保たない。
(……まぁ、もう関係ないか)
ポッドの壁面に設置された小さなモニターに、格納庫の映像が映し出されている。何十機もの機動兵器が整然と並び、整備兵たちが最後の作業に奔走している。その喧騒の中を、ヴィルがコックピットに向かって歩いていくのが見えた。
黒い髪。引き締まった背中。迷いのない足取り。
昨夜、あの背中に腕を回して眠った。ヴィルの温かさを、指先が覚えている。
モニターの中で、ヴィルがコックピットのハッチに手をかけた。乗り込む直前に、一瞬だけ、ポッドのある方向に視線を向けた気がした。
通信回線が開く。
『……ユニ。聞こえるか』
「はい、ヴィル。感度良好です」
『……同調レートは?』
「フェイズ5。……いつも通りです」
短い沈黙。通信越しでも、彼が僅かに笑ったのがわかった。
『……そうか。なら、負ける気がしないな』
ヴィルの声が、俺の脳髄に心地よく響く。この声を聞くと、焼け付くような神経の痛みが、ほんの少しだけ和らぐ。
格納庫に、出撃を告げるサイレンが鳴り響く。
『──全機、射出態勢。カウントダウン開始。十、九、八……』
機体がカタパルトに固定され、推力が急速に上昇していく。身体の奥底から這い上がってくる振動が、ポッドの壁を通して骨に伝わった。
「……ヴィル」
『なんだ』
「勝ちましょう」
カタパルトが機体を射出した。
凄まじいGが全身を叩き、視界が一気に宇宙空間の漆黒に塗り替わる。無数の星が一瞬だけ光の線になって流れ、直後、眼前に広がったのは……地獄だった。
─────
宇宙空間が、赤く染まっていた。
それは比喩ではない。敵機の群れが放つエネルギー兵器の閃光と、味方機の爆発が放つ火球と、あらゆる方向から交差するビームの光跡が、漆黒の宇宙を血の色に変えていた。
三千を超えるRaiderの艦隊。モニターの全方位に映し出される赤い敵影反応は、もはや個々の点ではなく、視界を覆い尽くす赤い霧のようだった。
『──第三小隊、壊滅! 第七小隊、後退します!』
『くそっ、前衛がもたない! 増援はまだか!!』
通信回線に飛び交う絶叫。防衛ラインは開戦からわずか数分で寸断され、各部隊が散り散りになって個別の戦闘を強いられている。
その混沌の只中を、俺とヴィルの機体は駆け抜けていた。
『ユニ! 右舷方向、敵機六! 回避ルート!』
「了解……! 回避パターン構築、送ります! 直後に上方から三機接近、タイミングを合わせて反転攻撃!」
俺が弾き出した回避ルートを、ヴィルが寸分の狂いもなくトレースする。機体が錐揉み回転しながら六条のビームの間を縫い抜け、反転と同時にライフルが火を噴いた。三つの閃光が、立て続けに敵機を貫く。
爆散する残骸。だが、その破片を掻き分けるようにして、すでに次の群れが押し寄せてくる。
(……一つ潰しても、すぐ次が来る。きりがない……っ)
脳が、熱い。
通常の戦闘とは桁違いの情報量が、俺の電脳化された領域を洪水のように流れている。敵機の座標、予測軌道、エネルギー波長、味方機の損傷データ、戦域全体の刻一刻と変化する戦況マップ……。
それらすべてを同時に処理し、最適解を算出してヴィルに送り続けなければならない。
頭蓋骨の内側を、焼けた針が何千本も突き刺すような痛み。こめかみの奥で何かがじりじりと溶けていく感触。歯を食いしばりすぎて、奥歯が軋んだ。
『──ユニ、前方に大型艦! データ解析を頼む!』
「っ……了解! 構造解析開始……弱点座標、送ります……!」
大型艦の装甲データを解析しながら、同時に後方から接近する小型機群の迎撃パターンを演算する。二つの処理が脳の中で干渉し合い、視界の端が激しく明滅した。
(……っ、ぐ、あつい……!)
痛い。脳が、燃えている。
以前なら「脳みそが沸騰しそう」と内心で軽口を叩けていた。でも、今感じている熱は、もうそんな言葉で茶化せるものじゃなかった。
頭蓋の内側で、何本もの神経繊維がジジッ、ジジッと音を立てて断裂していくのが、はっきりとわかる。電脳化された領域と生体の脳の境界線上で、データの奔流が肉を焦がしている。目の裏側が白く灼けて、一瞬だけ視界が完全に消えた。
戻る。まだ見える。まだ動ける。
『ユニ! 同調レートが揺らいでいる! 大丈夫か!』
「問題ありません。演算を続行します……!」
嘘だ。問題だらけだ。
左手の指先から感覚が消えていた。数秒で戻る、いつもの症状じゃない。もう戻ってこない。
右目の視界の端が暗くなり始めている。視野が、少しずつ狭まっていく。
それでも、演算は止めない。止められるわけがない。
俺が止まれば、ヴィルが死ぬ。
(……痛い。痛い。でも……)
痛みの向こう側で、ヴィルの声が聞こえる。操縦桿を握る彼の意志が、接続回路を通じて流れ込んでくる。怒りでも恐怖でもない。ただ純粋な、守ると決めた者を守り抜くという、凄まじい執念。
その熱が、焼け焦げた俺の脳の中を、もう一度だけ走り抜けた。
(……ヴィル。お前のその声が聞こえてる間は、俺はまだ戦える)
─────
戦闘は、終わらなかった。
一時間が経ち、二時間が経った。防衛ラインは幾度も崩壊と再構築を繰り返し、宇宙空間には味方機の残骸と敵機の破片が、星屑のように漂っていた。
データリンクを通じて、次々と生体ユニットの信号がロストしていくのが伝わってくる。
パツン。
パツン。
パツン、と。
小さな、あっけない音が、何度も何度も、俺の脳裏を叩いた。今まで幾度となく聞いてきた、命が消える音。細い糸が一本ずつ断ち切られていくような、ひどく静かな死の音。
そのたびに、データリンク上から一つの光点が消え、通信回線から一つの声が消える。
(……みんな、燃え尽きていく)
俺もだ。
もう左腕の感覚は完全に失われていた。右手の指先も、三本目から先が動かない。視界は中央の狭い範囲だけしか残っておらず、周辺視野は白い靄に覆われている。
脳内の演算処理が、目に見えて鈍っていた。処理速度が落ち、最適解の算出に一瞬の遅延が生じる。その一瞬が、戦場では致命的になりかねない。
『──ユニ! 次の回避ルートを!』
「はい……っ。ルート構築……!」
歯を食いしばり、電脳領域のリソースを極限まで搾り出す。脳の奥で、バチンッと何かが弾ける音がした。視界が一瞬真っ白になり、左耳の聴覚が、プツンと途切れた。
(……あ。今の、また一本、飛んだな……)
恐怖は、もうほとんど感じなかった。痛みが大きすぎて、恐怖を感じる余裕すら脳に残っていないのかもしれない。
代わりに、頭の中にはヴィルの声だけがあった。
その声が途切れない限り、俺はまだ動ける。
焼け落ちていく神経の代わりに、ヴィルの声が俺の演算回路を繋ぎ止めている。生体の脳が壊れていく速度と、彼の声が俺を引き留める力が、ぎりぎりのところで拮抗している。
(……ヴィル。聞こえてるよ。ちゃんと聞こえてる)
『ユニ!? 同調レートが急落しているぞ! 状態を報告しろ!』
ヴィルの声に、隠しきれない焦燥が滲んでいた。あの夜、暗い部屋で「お前が壊れるのが怖い」と震えていた男の声。今もきっと、操縦桿を握る手が、ほんの少しだけ硬くなっている。
「……一時的な信号ノイズです。リカバリー完了。……演算、続行します」
嘘だった。リカバリーなんてできていない。焼き切れた回路は二度と戻らない。
だが、残った回路を再配線して、失われた処理能力を補うことはできる。効率は落ちる。負荷はさらに跳ね上がる。他の領域の寿命を前借りして、穴の空いた回路を塞ぐ。その場しのぎの応急処置だ。
それでも、まだ動ける。まだ、演算できる。
ヴィルが生きている限り、俺は止まらない。
(……大丈夫。大丈夫だよ、ヴィル)
(……俺は、お前の隣にいる。最後の一秒まで、ここにいるから)
頭蓋の内側で、また一本、細い糸が灼けて切れた。ジリ、と短い音を立てて、俺の中の何かが永遠に失われる。
その痛みの波が引いた後に残ったのは、不思議と、温かいものだった。
昨夜、彼の腕の中で感じた体温。彼の心臓の音。「愛している」と言ってくれた声。暗い部屋の中で、互いの額を合わせた瞬間の、あの静かな幸福。
それらが、焼け落ちていく俺の脳裏に、消えることなく灯っている。
ポッドの中で、動かなくなった左手の上に、まだ感覚の残っている右手を重ねた。
昨夜、この手を握ってくれたヴィルの掌の温もりを思い出す。大きくて、硬くて、タコがあって。でも、どんな毛布よりも温かかったあの手。
(……あの手で、操縦桿を握ってるんだな、今も)
俺の演算が、あの手の動きを導いている。俺の脳が焼けるたびに、あの手が敵を撃ち落とし、あの手が機体を翻し、あの手が二人を生かしている。
ならば、この痛みには意味がある。
この脳が焼ける熱は、ヴィルを勝たせるための炎だ。
─────
戦闘開始から四時間。
俺とヴィルの機体は、百機以上のRaiderを撃破していた。
右目の視界も薄暗くなり始め、残った感覚器官で拾えるデータは、開戦直後の三割ほどにまで落ち込んでいた。
それでも俺は演算を回し続けた。脳が焼ける痛みに声なき悲鳴を上げながら、一秒でも長く、一手でも多く、ヴィルに最適解を送り続けた。
ヴィルの操縦は完璧だった。俺が送るデータの精度が落ちても、彼はその劣化を自分の技術と判断力で補っている。二年半の共闘が築き上げた信頼と連携が、崩れかけた俺の演算を支えてくれていた。
『ユニ。データが遅れている。……無理をしているな』
「……大丈夫です。まだ、動けます」
『嘘をつくな。……声が、震えてる』
(……バレてるか)
当然か。ずっと、ずっと一緒にいたんだ……。俺の声の微かな揺れくらい、聞き逃すはずがないよな。
『……帰ったら、コーヒーを淹れてもらう約束だ。忘れるなよ』
「……はい。濃いやつ、ですよね」
『ああ。だから、一緒に帰るんだ』
(……ヴィル。お前、ほんと、そういうとこだぞ……)
涙は出なかった。たぶん、涙を流すための神経さえ、もう焼き切れかけているのだろう。
けれど、胸の奥の……脳でも電脳でもない、もっと深いどこかが、たまらなく温かかった。
(……大丈夫。まだ動ける。まだ、この人の声が聞こえる)
(まだ、俺は……)
その時、作戦回線に、新たな通信が割り込んできた。
『──全機に告ぐ。敵旗艦を確認。セクターE-9、距離二万三千。全戦力を集中し、旗艦の撃破を最優先目標とする』
敵の旗艦。この戦いを終わらせるための、最後の標的。
ヴィルの操縦桿を握る手に、新たな力がこもるのが、接続越しに伝わってきた。
『──ユニ。聞いたな』
「……はい」
『行くぞ。……最後の仕事だ』
最後の仕事。
ヴィルにとっては、この戦いを終わらせて帰還するための最後の仕事。
俺にとっては……。
(……うん。最期の仕事だ)
俺は、残った右手の二本の指で、ポッドの内壁をそっと叩いた。
大丈夫。まだ動ける。まだ、演算できる。
この脳が完全に焼け落ちるまで、あと少しだけ時間がある。
その「あと少し」の全部を、ヴィルのために使う。
それが、俺にできる……。
「……了解。ヴィル、旗艦までの最短突入ルート、演算します。……少し、時間をください」
『ああ。待ってる』
頭の中で、焼け焦げた回路がちりちりと火花を散らしていた。