旗艦までの最短突入ルートの演算が、完了した。
残った視界の中央に、巨大な影が浮かんでいる。Raiderの旗艦。機械と生体が融合した、理解を拒む形状の母艦。その全長は味方の戦闘艦の十倍以上あり、異形の装甲が鈍い光を放ちながら、無数の小型機を吐き出し続けている。
「……突入ルート、送ります。旗艦の装甲に一箇所、構造的な脆弱点を検出。そこから内部に侵入し、炉心まで到達できます」
『了解。……ユニ、炉心までの距離は』
「……近いです。内部に入ってから、およそ四千メートル」
『四千か。……狭い通路を抜けながらの戦闘になるな』
「はい。でも、わたし達なら行けます」
『……ああ。行こう』
機体が加速した。
護衛の敵機群を振り払い、旗艦の巨体に向かって一直線に突き進む。周囲から集中砲火が浴びせられるが、ヴィルはそのすべてを紙一重で回避していく。俺が送る劣化したデータを、彼の技術が完璧に補っている。
旗艦の装甲に亀裂が走った脆弱点が、視界の中心に迫ってくる。
『──突入する!』
ヴィルの叫びと共に、機体が装甲の裂け目に飛び込んだ。
外壁を突き破る衝撃。金属と生体組織が入り混じった異様な内壁が、周囲を取り囲む。薄暗い通路の中を、機体のセンサーライトが切り裂いていく。
狭い。機体の両腕が壁面を擦り、火花が散る。一歩判断を誤れば壁に激突して終わりだ。
「左方向に分岐、右側へ。二百メートル先、迎撃ユニット四基。……配置データ、送ります」
通路内部にも防衛機構が待ち構えていた。壁面から突き出す砲台、天井から降下する小型迎撃ドローン。ヴィルがライフルを構え、狭い空間の中で信じられないほど精密な射撃を続ける。一発、また一発。弾が吸い込まれるように標的を貫いていく。
(……すごいな、ヴィル。この狭さで、この精度……)
俺が送るデータは、もう開戦直後の二割以下にまで劣化している。それでもヴィルは一度も機体を壁にぶつけず、一度も敵弾に被弾せず、旗艦の深部へと突き進んでいた。
炉心まで、あと二千メートル。
その時、俺の右目の視界が、ぷつりと消えた。
─────
暗い。
真っ暗だ。
視界のすべてが失われた。モニターの映像も、ポッド内のライトも、自分の手の輪郭すらも、もう何も見えない。
(……あ、目か……)
視覚野の神経が完全に焼き切れたのだと、少し遅れて理解した。
残っているのは、右耳の聴覚と、かろうじて繋がっている電脳領域の演算機能だけ。身体の感覚はもうほとんど残っていない。自分がポッドの中にいるのか、宇宙空間に放り出されているのか、肉体の感触だけでは判別できなくなっていた。
ただ、ヴィルの声だけが聞こえる。
『ユニ! 応答しろ! ユニ!!』
「……っ、はい。ここに、います……」
『同調レートが維持限界域に入っている! 接続を切る、今すぐ──』
「だめ……っ!!」
声が掠れた。喉の筋肉さえ、満足に動かなくなりつつある。
「接続を切ったら……っ。この距離で、この敵の数で……予備の演算機が、持ちません……」
『そんなことは──』
「お願い……ヴィル。……切らないで」
通信越しに、ヴィルの息が止まるのがわかった。
「わたしは、まだ動けます。……まだ、演算できます。だから……あと少しだけ。炉心まで、あと少しだけ……」
沈黙が落ちた。
接続回路越しに、ヴィルの操縦桿を握る手が震えているのが伝わってきた。切りたい。切って、俺を解放したい。でも、切れば自分もろとも死ぬ。そして俺も、もうどのみち……。
『…………わかった』
絞り出すような声だった。
「……ありがとうございます」
ヴィルが機体を前に進めた。
俺は見えない暗闇の中で、最後の演算リソースを搾り出す。電脳領域の残存機能だけを頼りに、旗艦内部の構造データを読み解き、炉心までのルートを紡いでいく。
炉心まで、あと千メートル。
もう数字を正確に把握する能力さえ怪しくなっていた。残っている情報処理の大半を、ヴィルへのデータ送信に回している。自分自身の状態を認識するためのリソースは、とっくに削り落としていた。
意識が、揺らぐ。
(……もう少し。もう少しだけ)
─────
白い天井。
消毒液の匂い。規則正しい電子音。
そうだ。最初はあの白い部屋だった。何もわからないまま目を覚まして、自分の手を見て驚いて、首の後ろの冷たい金属に触れて。
───やばぁ……。
あの日の声が、脳裏に甦る。鈴を転がすような、可愛らしい少女の声。俺の声。
そこから始まったんだ。この余生は。
……白い独房。クソ不味い灰色の栄養ペースト。退屈で退屈で、壁のシミを数えるしかなかった日々。
そして、あの日。電子ロックが開いて、扉の向こうに立っていた。
───『お前が、U222か』
低い声。冷たい瞳。初めて見た時は内心でビビり散らかしたけど、あの最後の一言は覚えてる。
───『部屋の環境に不備があれば、報告しろ』
なんて……あの事務的な言い回しの中にほんの少しだけ滲んでいた不器用な優しさ。あれが、全部の始まりだった。
……ふかふかのベッド。コーヒーの匂い。
───『管理官としての命令だ。食え』
スクランブルエッグの味……無表情を維持するのに必死になってた。
……膝の上に放り投げられたデータパッド。
───『突っ立ってこちらを凝視されるよりは、余程マシだ』
素っ気ない声。でも、あれがどれだけ破格の優しさだったか、他の生体ユニットの扱いを知った後で、ようやくわかった。
───『ユニ、だ』
名前をもらった夜。耳まで赤くした顔で「Uと2から取った」と言った彼。あの温かさ。
───ヴィル。
彼の言い訳を逆手に取って勝ち取った呼び名。「好きにしろ」とため息をつく横顔の、優しい眼差し。
……淡いブルーのサマードレス。クレープの甘さ。口元の生クリームを拭ってくれたハンカチ。水族館の青い光。植物園の花の香り。人混みの中で掴んだ袖。
人工の海辺。オレンジ色の夕陽。手を握り合った、あの瞬間。
……ソファで寄りかかって眠ったこと。目が覚めたらブランケットがかけられてて。ブランケットに、ヴィルの匂いが妙に落ち着く匂いで……。
……暗いリビングで差し出したコーヒー。
───わたしは、どこにも行きません。
あの時のヴィルの顔。泣きそうで、でもどこか救われたような、壊れそうなくらい脆い表情。
───『俺は、お前を……愛している』
世界から音が消えた瞬間。心臓が壊れるかと思った。「わたしも」って言った時の、自分の声の震えまで思い出せる……。
……心臓の音。額と額を合わせた暗闘の中の、静かで深い幸福。
全部。全部。
忘れない。ぜったい……。
こんなにたくさんの幸せを、ヴィルがくれた。
─────
炉心が、近い。
残された電脳領域が捉えた微かなエネルギー反応が、前方の壁の向こうに巨大な動力源が存在することを告げている。
「……ヴィル。正面の隔壁を、突破、すれば、炉心です」
『……わかった』
「炉心に直接、全火力を……叩き込んでください。……座標と、最適な、射角データを、送ります」
最後の演算。
焼け焦げた回路の残りカスを、一滴残らず搾り出す。もう痛みさえ感じなくなっていた。痛覚を処理する神経が完全に断裂したのか、あるいは脳が痛みを認識すること自体を手放したのか。
どっちでもいい。もう、どちらでもよかった。
「……データ送信……完了。あとは、ヴィルが撃つだけ、です」
『……ユニ』
「……はい」
『…………ありがとう』
(……それは、こっちの台詞だよ、ヴィル)
「……ヴィル」
『……なんだ』
暗闇の中で、俺は笑った。
誰にも見えない。モニターも死んでいるみたいだし、ポッドの中は完全な闇だろう。
でも、口元が確かに弧を描いたのが、動かなくなりかけた顔の筋肉の、最後の仕事としてわかった。
「……またね、ヴィル」
通信越しに、息を呑む音が聞こえた。
ヴィルが何かを言おうとした。口を開きかけた気配が、接続回路越しに伝わってきた。
でも、言葉にはならなかった。
代わりに、操縦桿を握る彼の手に、静かな、しかし途方もない力がこもった。
トリガーが、引かれた。
機体の全火力が、炉心に向けて放たれる。
轟音。閃光。旗艦の内部が白く染まっていく。
その光が、暗闇の底にいた俺の意識にも届いた。
視覚野はとうに機能していない。目は見えないはずなのに、頭の中が、まばゆいほどの光で満たされていく。温かくて、優しくて、何もかもを包み込むような光。
(……あぁ、綺麗だ)
光の中に、ヴィルの顔が見えた気がした。
あの星空の下で俺を見つめていた、黒い瞳。あの海辺で風に吹かれていた、短い黒髪。あの朝、コーヒーを淹れてくれた背中。何度も握ってくれた、手の温もり。
(……ヴィル。ごめんね。コーヒー、淹れられなくなっちゃった)
(……でも、大丈夫。大丈夫だから)
(……だって、またね……だから)
光が、すべてを満たしていく。
痛みはもうない。恐怖もない。あるのはただ、温かさだけ。ヴィルがくれた幸せが、温かさが、俺の意識の最後の一片を、優しく包んでいる。
(……ありがとう、ヴィル。俺に名前をくれて、ご飯を作ってくれて、恋をしてくれて、愛してくれて)
(……俺の余生、最高だったよ)
光の中で、俺はもう一度、笑った。
誰にも見えない、最後の笑顔。
けれどそれは、間違いなく、俺がこの人生で浮かべた中で、いちばんの……。
─────
旗艦の炉心が崩壊し、内部から膨大なエネルギーが噴出した。
巨大な母艦が、その中心から光を放ちながら砕けていく。連鎖的に誘爆が広がり、旗艦を構成していた異形の装甲が、宇宙空間に向かって四散した。
崩壊の寸前に、一機の機動兵器が旗艦の外殻を突き破り、爆炎の中から躍り出ていた。
損傷だらけの機体が、崩壊する旗艦の破片を縫うように飛翔していく。
コックピットの中で、ヴィルヘルム・オルバースは操縦桿を握ったまま、動かなかった。
背後で、旗艦が最後の爆光を放ち、粉々に砕け散る。戦域に散っていたRaiderの小型機群が、母艦を失ったことで次々と機能を停止し、宇宙空間を漂い始めた。
通信回線に、味方部隊からの歓声が飛び交い始める。
だが、ヴィルヘルムはその声を聞いていなかった。
機体の計器に表示された、生体ユニットの生体データ。
心拍数──ゼロ。
脳波──フラット。
神経伝達──全断裂。
すべての数値が、静かに、ゼロを示していた。
ヴィルの手が、操縦桿の上で微かに震えた。
口を開きかけて、閉じた。もう一度開いて、また閉じた。
声にならない吐息だけが、ヘルメットの内側で小さく揺れた。
コックピットの向こう側では、旗艦の残骸が光の粒子となって散っていく。その光が、操縦桿を握るヴィルの手を、静かに照らしていた。
やがて、彼はゆっくりと片手を操縦桿から離し、コンソールの端にある生体ユニット用ポッドへの内部通信ボタンに、指先を置いた。
押しても、もう応答はないと知りながら。
「…………ユニ」
ポッドとコックピットを繋ぐ回線から、もう何の信号も届かない。二年半の間、途切れることのなかった彼女の声が、「はい、ヴィル」と応えてくれたあの声が……どこにもなかった。
あの声が、もう二度と聞こえない。
朝、コーヒーを淹れて「おはようございます、ヴィル」と言ってくれた声。出撃の前に「勝ちましょう」と告げてくれた声。あの星空の下で「好きです」と震えた声。「おやすみなさい」と囁いた声。
そのすべてが、フラットラインの向こうに消えた。
ヴィルヘルムは、ゆっくりと目を閉じた。
操縦桿を握っていた右手が、力を失って膝の上に落ちた。彼女の小さな手を包み込んだ手。毎晩、ソケットを磨いてやった手。朝食を作って、毎朝、差し出した手。
その手が、微かに震えていた。
「……またね、か……」
彼女が最後に残した言葉を、唇の中で、静かに繰り返す。
別れの言葉にしては、似つかわしくない響き。まるで、明日また会えるかのような。おやすみなさい、と同じくらい軽くて、温かい言い方。
あの少女らしい、と思った。最後の最後まで、笑っていたのだろう。最初に出会った時の、あの人形のような表情はもうどこにもなくて、代わりに、花が咲くような、あの柔らかい笑顔を残して。
崩壊する旗艦の残骸が、宇宙空間にゆっくりと散っていく。破片の一つ一つが光を反射して、まるで星屑のように瞬いている。
その光を、ヴィルヘルムは開いた目で、少しの間、じっと見つめていた。
通信回線には、防衛戦の勝利を告げる司令部の声が流れ始めている。だが、その言葉は、ヴィルヘルムの耳を素通りしていった。
手は、まだ震えていた。
さよなら、ヴィル