暗闇の中で、バツン、というひどく乾いた音が響く。
古びた回路が弾け飛ぶような、あるいは張り詰めた細い糸が断ち切られるような、あっけないノイズ。
それが、通信回線越しに聞いた、他部隊の生体ユニットが焼き切れる音だったと認識した瞬間、俺は弾かれたようにベッドから跳ね起きた。
「っ……! はぁっ、はぁっ……!」
肺の奥に溜まっていた空気を吐き出し、乱れた呼吸を整えようと酸素を貪る。全身が嫌な汗でぐっしょりと濡れていた。
静まり返った士官宿舎の寝室。聞こえるのは、微かな空調の駆動音と、自身の異様に早い心拍音だけだ。
額に張り付いた前髪を乱暴に掻き上げながら、俺は深い絶望感に包まれていた。
あの大規模な防衛戦から、すでに数週間が経過している。
部隊は甚大な被害を受けつつもコロニーの防衛に成功し、現在は再編と機体の修復のために後方に下がっていた。
だが、俺の意識はあの宇宙空間から、あの地獄のような通信回線の中から、一歩も抜け出せずにいた。
俺はふらつく足取りでベッドから降りると、音を立てないように寝室のドアを開け、隣の部屋、ユニの私室へと向かった。
ノブに手を掛け、僅かに開けたドアの隙間から中を覗き込む。
薄暗い部屋の中、ベッドの上で小さな規則正しい寝息が聞こえた。シーツから零れ落ちた鮮血のような赤い髪が、常夜灯の微かな光を受けて鈍く光っている。シーツがゆっくりと上下し、彼女が間違いなく生きて、呼吸をしていることを示していた。
「……」
それを見て、ようやく俺の心臓は正常な鼓動を取り戻し始める。
扉を静かに閉め、冷たい廊下の壁に背中を預けてズルズルと座り込んだ。
こんな真似を、あの戦闘の日から毎晩のように繰り返している。彼女が生きているか、その脳がショートして冷たい骸に変わっていないか、自分の目で確かめなければ、恐ろしくて眠ることすらできなくなっていた。
いつか、あの乾いた音を立てて、俺の目の前で彼女が壊れる日が来る。
その確信めいた恐怖が、冷たい泥のように俺の思考を侵食し続けていた。
─────
朝が来ても、頭の中の霧は晴れなかった。
リビングに出ると、ユニがすでにキッチンに立っていた。コーヒーの香りが部屋を満たし、フードクッカーの調理完了を告げるチャイムが小さく鳴っている。
「おはようございます、ヴィル。今日はパンケーキにしました」
振り返った彼女の表情は穏やかだった。以前のような感情の見えない無表情ではなく、口元にほんの僅かな柔らかさを湛えた、彼女なりの朝の挨拶の顔。
「……ああ」
短い返事を返し、テーブルについた。だが、皿に盛られたパンケーキに手を伸ばす気力が湧かない。コーヒーを一口含んでみたが、味が舌を素通りしていく。
ユニは向かいに座り、俺の様子を窺うように赤い瞳をこちらに向けていた。何かを言いかけて、やめたように視線を自分の皿に戻す。
この数週間、生活のあらゆるものが色褪せていた。
食事の味がわからない。訓練シミュレーターに座っても操縦桿を握る手が震える。端末に届く次回出撃の編成案を開くたびに、胃の底が鉛のように重くなる。
上官からは「機体の修復が完了次第、前線に復帰せよ」と通達が来ている。再編された部隊にはすでに補充のパイロットと新たな生体ユニットが配備され、俺とユニの復帰を待っているという。
わかっている。戦わなければならない。それが軍人としての義務だ。
だが、頭では理解していても、身体が拒む。
機体に乗れば、ユニを機体に繋ぐことになる。彼女の脳を焼くことになる。出撃のたびに、彼女に死の可能性が生まれる……。
「……次の出撃の編成案、確認しましたか?」
ユニが静かに訊いた。
「……ああ」
「機体のオーバーホールは、一週間以内には完了する見込みです。復帰スケジュールの提出期限は……」
「わかっている」
自分でも驚くほど硬い声が出た。ユニの言葉を遮るように、俺はカップをテーブルに置く。
「……わるい。少し、考える時間が欲しい」
席を立ち、俺はリビングを出た。背後で、ユニが小さく息を吐いたのが聞こえた。
─────
それから数日、俺は自室に籠る時間が増えた。
端末に目を通す振りをして、実際にはベッドの縁に座り込んだまま壁を見つめている。食事はユニが部屋の前に置いてくれたものを、彼女がリビングに戻ったのを確認してから回収する、そんな有様だった。
ソケットのメンテナンスも、最低限しか行えなくなっていた。あの金属のパーツに触れるたびに、これが彼女を殺す接続口なのだと実感させられ、指先が震える。それでもメンテナンスを完全に止めるわけにはいかないから、震える手で必要な処置を済ませて、すぐに手を引く。
ユニは文句を言わなかった。
毎朝決まった時間にコーヒーを淹れ、食事を用意し、俺が部屋に閉じこもっていても扉の外から「おやすみなさい」と声をかけてから自室に戻る。変わらぬ日課を、一度も乱すことなく。
……その規則正しさが、逆に俺の胸を締めつけた。
彼女は俺の状態を察しているのだろう。だが、生体ユニットである彼女の立場からは、管理官の俺を強くは諫められない。それをわかっていて、俺は甘えている。
自分の情けなさに、吐き気がした。
─────
ある夜のことだった。
いつものように悪夢で目が覚め、ユニの部屋へ足を向け、暗いリビングを横切ろうとした時。
「……ヴィル」
声がした。
振り返ると、ソファの上にユニが座っていた。暗闘の中、常夜灯だけを頼りにデータパッドを膝に載せている。その画面の明かりが、彼女の白い顔をぼんやりと照らしていた。
「……なぜ、起きている」
「ヴィルが毎晩、わたしの部屋を確認しに来ていることは、知っています」
息が止まった。
ユニは俺の動揺を見て取ったのか、少しだけ首を傾げた。
「扉が開く音で、目が覚めます。でも、ヴィルが安心して戻っていくまで、寝たふりをしていた方がいいと思ったので」
「……」
見抜かれていた。毎晩の醜態を、彼女はすべて知っていたのだ。恥辱にも似た感情が込み上げるのと同時に、どこか救われたような気持ちが混じる。
「……すまない。起こすつもりはなかった」
「謝らないでください。……ヴィル、座りませんか。コーヒーを淹れます」
「いい。お前は寝ていろ」
「……ヴィルが座るまで、わたしも寝ません」
小さいが、確固たる意志を込めた声だった。
以前の彼女なら、命令には即座に従っていた。それがいつからか、こうして俺に静かに抵抗するようになっていた。
俺は観念して、ソファの端に腰を下ろした。
ユニはキッチンに立ち、手慣れた動作でコーヒーを二杯淹れて戻ってきた。俺の前にカップを置き、再び隣に座る。以前は一人分の距離を空けていたはずの彼女が、今はすぐ隣にいた。肩には触れずとも、手を伸ばせば触れられるほどの近さ。
温かいカップを手に取る。今は、コーヒーの味が、ほんの少しだけわかった。苦くて、温かい。それだけのことが、ひどく有り難かった。
「……ヴィル」
「……なんだ」
「出撃が、怖いですか」
単刀直入な問いかけだった。
生体ユニットが管理官に「怖いか」と問うなど、かつての彼女にはありえなかった。ユニットとしてのそれではない。それは確かに、彼女自身の言葉だった。
暗がりの中で俺を見上げる赤い瞳は、真剣で、真っ直ぐだった。
「……怖い」
自分の声が、酷く情けなく震えているのがわかった。
模範的な軍人を気取っていた男の、ひどく惨めで、弱々しい本音。
顔を両手で覆い、俺は深く項垂れた。
「……怖いんだ。いつか隣で、お前が動かなくなるのが。あんな風に、無惨に壊れて消えていくのが……俺は、お前をあの機体に乗せたくない」
沈黙が落ちた。
自分がどれほど身勝手なことを言っているか、わかっている。戦わなければ、このコロニーごとRaiderに蹂躙されて終わるだけだ。
それでも、俺は彼女を犠牲にしてまで生き延びたいとは思えなくなっていた。
不意に、俺の手首を、小さな手が包み込んだ。
ひんやりと冷たくて、けれど確かな脈動を感じる、柔らかな手。
「……ヴィル」
「……」
「……顔を、見せてください」
促されるままに両手を離すと、すぐ目の前に彼女の顔があった。
表情に乏しいはずのその顔は、今、ひどく困ったような、そして痛みを堪えるような、不器用な歪み方をしていた。
「……わたしは、ここにいます」
彼女の小さな手が、俺の頬にそっと触れた。
ひどく滑らかな肌の感触。彼女の体温が、冷え切っていた俺の皮膚にじわじわと浸透してくる。
「幻でも、ただの部品でもありません。ちゃんと生きて、ヴィルの目の前にいます」
「……ユニ」
「だから、そんなに怖がらないで。……わたしは、どこにも行きません」
そう言って、彼女は俺の首に腕を回し、そっと抱きついてきた。
華奢で、頼りないほどの小さな身体が、俺の胸に押し付けられる。彼女の柔らかい赤い髪が俺の頬をくすぐり、甘いような、日向のような香りが鼻腔をくすぐった。
トクン……トクン……と。
密着した胸の奥から、彼女の小さな心拍が伝わってくる。
機械的なノイズでもなく、データ上の数値でもない。彼女が確かに命を刻んでいる、生きた証の音だった。
「……あぁ」
俺は、無意識のうちに腕を上げ、彼女の細い背中を強く、ひどく強く抱きしめ返していた。
彼女の体温が、俺の内側に巣食っていた冷たい泥を、少しずつ溶かしていくのを感じる。
「……ヴィル、少し苦しいです。……でも、温かいですね」
耳元で囁く声は、もう完全に、等身大の少女のそれだった。
その声を聞きながら、俺はゆっくりと目を閉じた。
そして、自分の中に芽生えていた感情の正体に、遅すぎる決着をつけていた。
なぜ、彼女を失うことがこれほどまでに恐ろしいのか。
同情ではない。戦友としての情でも、庇護欲だけでもない。
俺は……。
俺は、この少女を、愛しているのだ。
いつの間にか、俺の乾ききった人生の中心には彼女がいた。
彼女のぎこちない笑顔に救われ、彼女が淹れてくれるコーヒーの匂いに安堵し、彼女の存在そのものに、俺の心は完全に奪われていた。
俺は、ユニを一人の女性として、深く愛してしまっている。
この戦いばかりの狂った世界で、いつ壊れてもおかしくない、この少女に、取り返しのつかないほどの恋をしていた。
その事実を認めた瞬間、胸の奥で燻っていた恐怖が、別の熱に変わっていくのを感じた。
……逃げている場合ではない。
彼女を戦場に出したくないからと殻に閉じこもるなど、ただの自己満足の逃避だ。
俺が倒れれば、結局彼女は別のパイロットの機体に繋がれ、本当の意味でただの部品としてすり潰されていくだけなのだから。
俺が、彼女を守る。
俺の持つ全ての技術と、この命の全てを懸けて、彼女への負荷を極限まで削り落とし、共に生き抜く。
いつか来るかもしれない終わりの日を恐れて立ち止まるのではなく、彼女と笑い合える「明日」を、力ずくで掴み取ってやる。
「……すまない、ユニ」
俺は、彼女の背中に回した腕の力を少しだけ緩め、その赤い髪にそっと頬を擦り寄せた。
「……俺が、間違っていた」
「……ヴィル?」
「お前を絶対に壊れさせない。お前を背負って、俺が勝つ。……だから、これからも俺の隣で、俺を支えてくれ」
俺の言葉に、ユニは少しだけ身をよじって顔を上げると、至近距離で俺と視線を合わせた。
赤い瞳が、驚いたように大きく見開かれている。
そして。
「……はい。もちろんです、ヴィル」
ふわりと、花が咲くように。
彼女は、あの海辺で見た時と同じ、純粋で優しい笑顔を俺に向けた。
その笑顔を見た瞬間、俺の心の底に澱んでいた最後の迷いが、完全に吹き飛んだ。
あぁ、本当に。
俺は彼女のためなら、どんな地獄でも這い進んでみせよう。
俺の腕の中で温かな体温を放つ、愛おしい少女。
彼女が静かに目を閉じ、俺の胸に再び身を預けてくるのを受け止めながら、俺は彼女の背中を、赤子をあやすように優しく撫で続けた。