……ヴィルのせいだよ?
あの夜を境に、ヴィルは変わった。
いや、変わったというよりも、元に戻ったと言うべきか。あの大規模防衛戦のあとに纏っていた暗い影が、嘘のように剥がれ落ちたのだ。
朝は俺より早く起きてランニングに行き、訓練シミュレーターでは以前にも増して精密な操縦データを叩き出し、事務仕事もテキパキとこなす。食事の味もわかるようになったらしく、俺が作ったパンケーキの焼き加減の設定にダメ出しまでしてくるようになった。
(……俺が心配して夜中にコーヒーまで淹れてやったのに、恩知らずめ)
なんて内心でブーたれつつも、ヴィルが元気になってくれたのは素直に嬉しかった。あの数週間、部屋に籠もって壁を見つめているだけの彼を見ているのは、なんというか……胸のあたりがずっとざわついて、落ち着かなかったから。
(まぁ、元気になってくれて何よりだ……。あの夜、俺が抱きしめてやったのがそんなに効いたのかな? 我ながら恐ろしいスキルを発揮してしまったかもしれない……)
ただ一つ、少し困ったこともある。
ヴィルは、あの夜以来、俺に対する距離感が明らかに近くなっていた。
ソファで並んで座る時、以前は一人分あった隙間がなくなった。メンテナンスの時の手つきはもともと丁寧だったけれど、最近はソケットを拭き終わった後、俺の髪を指先で梳くような仕草が目立つようになった。
寝る前に「おやすみ」と言う時の声も、以前より低く、柔らかくなった気がする……。
(……なんだろうな、これ。別に嫌じゃないっていうか、むしろ全然嫌じゃないんだけど、心臓が色々と忙しいっていうか……)
そんな穏やかで、けれどどこかソワソワする日々が数ヶ月ほど続いたある日のこと。ようやく部隊に長期休暇が出た。前線は一時的に膠着状態に入っており、上層部も「これ以上パイロットを酷使すると戦線ごと崩壊する」と判断したらしい。
おかげで、俺たちは久しぶりに戦闘のない穏やかな日々を満喫していた。
そんなある日の朝食のテーブルで、ヴィルが端末から顔を上げて、唐突に言い出した。
「今日の夜、少し出かけるぞ」
「……シミュレーターですか?」
「違う。デートだ」
「……で、え?」
俺の反応が間抜けだったことは自覚している。だが仕方ないだろう、あのヴィルヘルム・オルバースが、あの仏頂面で、「デート」なんて単語を使うなんて、この世界の物理法則が歪んだとしか思えない。
「十九時に玄関で待っていろ。私服で構わない」
それだけ言い残して、ヴィルは自室に引っ込んでしまった。
残された俺はリビングで固まったまま、しばらくの間、空になったコーヒーカップを握りしめていた。
(……デートって言ったよな、今。デートって。天下のヴィルヘルム・オルバース少尉がデートって言ったよな? え、これってつまり……どういうこと?)
頬がじわじわと熱くなってくる。
ダメだダメだ、冷静になれ俺。生体ユニットに感情はないんだ……いや、もうその演技はヴィルの前じゃほとんど通用してないんだった。
俺はカップをシンクに置き、自室に駆け込むと、クローゼットの前で真剣に悩み始めた。
(……何着ればいいんだよ。前世の俺ならジーパンにTシャツで十分だったけど、さすがにそういうわけにはいかないだろ)
結局、以前コロニーのショップでヴィルに買ってもらった淡いブルーのサマードレスを選んだ。あのコロニーでの散歩の時に着たやつだ。他にまともな私服がないというのもあるが、あの日の思い出が染みついたこの一着は、なんとなく特別な気がしたから。
鏡の前で襟元を整え、長い赤い髪を指で梳く。前世の俺が見たら腰を抜かすだろう。男とのデートのために、鏡の前で身だしなみを気にしているのだから。しかも着ているのはワンピースだ……。
(……まぁ、ヴィルが喜んでくれるなら、それでいいか)
そう思った瞬間、自分の考えにドキッとした。いつから俺は、ヴィルに「可愛いと思われたい」なんて考えるようになったんだ。
─────
十九時。
玄関で待っていた俺の前に現れたヴィルは、軍服ではなく、黒いシャツにダークグレーのパンツという、シンプルだが洗練された私服姿だった。
(……くっ、なんでこの男はこう、何を着てもサマになるんだ。ずるい)
「準備はできているか」
「はい。……あの、ヴィル。どこに行くんですか?」
「着けばわかる」
素っ気ない返事。だが、彼の声にはどこか緊張の色が混じっているように聞こえた。俺の知る限り、ヴィルが緊張を見せるのは珍しい。出撃前でさえ、この男は涼しい顔をしているのに。
コロニーの居住区画を抜け、たどり着いたのは、コロニーの最上層に位置する展望区画だった。
展望区画の最上階へ向かうエレベーターが上昇するにつれて、壁面の小窓から差し込む光の色が変わっていく。人工照明の暖かな黄色から、透明な宇宙の光へ。
やがて、扉が開いた。
「……わぁ」
思わず、素の声が漏れた。
展望区画は、想像以上に圧倒的な空間だった。
コロニーの外殻を構成する巨大な透過パネルが、頭上から足元近くまでをぐるりと覆っている。パネルの向こうには、無限の黒に無数の星々が散りばめられた宇宙空間が広がっていた。他に人の気配はない。静寂の中に、微かな空調の呼吸音だけが響いている。
そしてその中心に、青く輝く球体がある。
地球だ。
前世でテレビやネットでは何度も見たことがあったけれど、こうして直接見るのは初めてだった。青い海と白い雲、緑と茶色の大陸が混ざり合う巨大な宝石のような星が、黒いベルベットの上に静かに浮かんでいる。
「……きれい」
気づくと、俺は透過パネルのすぐ前まで歩み寄って、食い入るように地球を見つめていた。
前世では見ることの叶わなかった光景。あの世界では、宇宙から地球を眺めるなんて宇宙飛行士にしか許されない特権だった。それが今、こんな形で叶うなんて。
(……ありがとな、ヴィル。こういうところに連れてきてくれるの、いつもヴィルなんだよな……)
白い雲に覆われた青い星が、静かに回転している。あの星の上で、かつての人類は平和に暮らしていたのだろう。そして今も、あの美しい星を守るために、俺たちは戦っている。
「……綺麗だな」
隣でヴィルが、珍しく柔らかな声で呟いた。
だが、ふと横を見ると、彼の視線は地球ではなく、地球を見上げる俺の横顔に向けられていた。
(……また、見てる)
最近のヴィルは、こうして不意に俺を見つめてくることが多い。俺がそれに気づくと、すっと視線を逸らすのが常だったが、今日は逸らされなかった。
黒い瞳が、星の光を映しながら、真っ直ぐに俺を捉えている。
「ユニ」
「……はい」
「……少し、話がある」
彼の声が、いつもより低く、慎重だった。
ヴィルは俺の前に歩み寄り、パネルを横目に立つ俺の正面で足を止めた。いつもの険しい眉間には力が入っておらず、代わりにどこか緊張したような、不慣れな表情が浮かんでいる。
(……なんだろう。任務の話にしては、雰囲気が違うな)
「俺は、軍人としてお前に接するべきだった」
ヴィルが、ゆっくりと口を開いた。
「生体ユニットの管理官として、お前との間に適切な距離を保ち、感情を排して職務を全うする。それが、正しいあり方だったはずだ」
「……ヴィル?」
「だが、俺にはそれができなかった。最初から、お前は俺の想定を超えていた」
彼の黒い瞳が、真っ直ぐに俺を捉えている。
その眼差しの強さに、俺は何も言えなくなった。
「俺は、お前を部品だと思うことができなかった。同居人としても、戦友としても、部下としてでもなく……俺は、お前を、一人の人間として、一人の女性として、ずっと見ていた」
ヴィルの声が、微かに震えている。だが、言葉を止めなかった。
「あの防衛戦の後、お前を失う恐怖で動けなくなった時、お前は俺を抱きしめて、ここにいると言ってくれた」
あの夜の記憶が、鮮やかに蘇る。暗いリビングで、彼の頬に触れた、あの夜。
「あの時、俺はようやく理解した。俺がお前を恐ろしいほどに大切に思っているのは、管理官としてでも、軍人としてでもない」
ヴィルが一歩、俺に近づいた。
星明かりの中で、彼の手が伸びてくる。俺の頬にそっと触れた、大きくて温かい掌。
「ユニ。俺は、お前を……愛している」
世界が、一瞬だけ音を失った。
透過パネルの向こうで、何億もの星が沈黙の中で瞬いている。地球が静かに青い光を放っている。
そして俺の心臓は、今まで生きてきたどの瞬間よりも激しく脈打っていた。
(……え)
(えっ、今、ヴィル、なんて言った?)
(愛してる、って、言った? 俺に? え、生体ユニットに?)
頭の中が真っ白だった。前世の人生を含めたすべての記憶をひっくり返しても、こんな台詞を真正面から言われた経験など一度もなかった。
ヴィルの手が俺の頬に触れたまま、彼の黒い瞳が揺れている。返事を待つその顔は、戦場で何百もの敵を前にした時よりもずっと緊張していた。
星空の下。
地球の青い光に照らされた彼の顔は、いつもの厳格な軍人の姿ではなかった。眉間の皺は消え、唇は微かに震え、黒い瞳の奥には、拒絶を恐れるような脆さが覗いている。
いつも隙がなくて、毅然と振る舞うヴィルが、こんなにも無防備な顔をして、真っ直ぐに俺だけを見つめていた……。
(……あぁ、そっか)
俺は、この瞬間、ようやく理解した。
いつからか、ずっと胸の奥にあった、慣れない、焦れるような感情。ヴィルの横顔を目で追ってしまう理由。彼の匂いが染みついたブランケットに顔を埋めたくなる理由。彼に抱きしめられた時、心臓が壊れそうなほど暴れた理由。
全部、全部、これだったんだ。
前世の俺は男で、恋愛なんてしたことがなかった。女の子の身体になっても、中身はただの男のままだと思っていた。
でも、違った。
俺はいつの間にか、この不器用で真面目で、そのくせ世話焼きで、優しくて……コーヒーの淹れ方だけは妙に上手い、この軍人の男に、どうしようもないくらい惹かれてしまっていた。
「……ヴィル」
俺は、彼の頬に触れている手を、自分の両手でそっと握った。
「わたしも、です」
声が震えた。演技じゃない。初めて、心の底から震える声が出た。
「……」
「わたしも、ヴィルのことが……好きです。きっと、ずっと前から」
ヴィルの瞳が大きく見開かれた。
その驚きように、少しだけ笑ってしまう。
「……そんなに驚かなくても。……ヴィルの方が先に言ったんですから、もう少し余裕を持ってください」
「……お前な」
ヴィルが呆れたように吐息を漏らした。だが、その瞳の奥が微かに潤んでいるのを、俺は見逃さなかった。
次の瞬間、ヴィルが俺を引き寄せた。大きな腕が俺の背中に回り、額が俺の髪に押し当てられる。
「……ありがとう」
彼の掠れた声が、頭のてっぺんから降ってきた。
抱きしめられながら、俺は彼の胸に顔を埋めた。彼の心音がすぐそこにある。速くて、力強くて、温かい音。
(……ヴィル。俺、前世では男だったし、こんな展開、生まれてこのかた想像したこともなかったんだけど)
(でも、不思議と、嫌じゃないんだよな。っていうか、めちゃくちゃ嬉しい。心臓が爆発しそうなくらい嬉しい。なにこれ)
俺は彼の胸に顔を埋めたまま、目を閉じた。彼の体温に包まれるこの瞬間が、俺の人生で一番幸せな時間だと、はっきりと感じていた。
「……ヴィル」
「何だ」
「……少し苦しいです」
「……すまん」
慌てて力を緩める彼に、俺はくすりと笑って、もう一度、自分から彼をより強く抱きしめた。
「……でも、離さないでください」
その言葉に、ヴィルは何も言わなかった。ただ愛おしそうに目を細め、俺の額にそっと唇を触れさせた。
ほんの一瞬の、柔らかな温もり。
(……あ、やば。心臓止まる。生体ユニットの死因が、額へのキスって、史上最もロマンチックな死因じゃないか?)
そんなしょうもないことを考えている自分に呆れつつも、俺はヴィルの胸に、赤くなっているであろう顔を埋め、その温かさに全身を預けた。
─────
展望区画のベンチに並んで座り、俺たちはしばらくの間、言葉もなく星を眺めていた。
ヴィルの大きな手が、俺の小さな手をずっと握っている。骨ばって硬い手のひら。タコのある指先。それが妙に心地よくて、俺は自分から離す気にはなれなかった。
「……ヴィル」
「ん?」
「わたしたち、恋人になった、ということでいいんでしょうか」
「……俺から告白して、お前が受け入れた。それ以外にどう解釈するんだ」
「いえ、確認です。わたし、こういうことに慣れていないので」
(前世でも今世でも初めてだからな、恋人とか)
「……俺もだ。慣れているように見えるか」
「全然」
「……そうか」
ヴィルが小さく笑った。声を出して笑うのを聞いたのは、これが初めてかもしれない。低く、控えめで、けれど温かい笑い声。こんな声もこの男は持っていたのかと、新鮮な驚きがあった。
俺はその声を、この先どれだけの日数が残されているかわからない自分の記憶の中に、大切に刻み込んだ。
「……ヴィル」
「なんだ」
「わたし、ヴィルの笑った顔、好きです。もっと見せてください」
ヴィルは少し驚いたように俺を見て、それから照れたように顔を背けた。耳たぶが赤くなっている。
「……善処する」
(相変わらずのお堅い返事。でも、耳が赤いのは全然隠せてないぞ)
俺は繋いだ手にきゅっと力を込め、彼の肩に頭を預けた。
星々の静かに輝きと、地球の青い光が、ドーム越しに俺たちを柔らかく照らしていた。
前世では叶わなかった、恋人とこうして星を見る夜。前世の俺が見たら笑うだろうか。お前、女の子になって男に告白されてるじゃん、とか。
(……うるせぇよ、過去の俺。これはこれで、最高に幸せなんだ)
隣にいる人の体温が温かい。この手を離したくない。この時間が止まればいいのに。
消耗品の寿命とか、摩耗とか、Raiderとか、そういう冷たい現実は、今だけは遠くに追いやって。
今はただ、この星降る夜の中で、ヴィルの隣にいられる幸せを、全身で感じていたかった。
「……ヴィル」
「……ん」
「ありがとう。わたしに名前をくれて、ご飯を作ってくれて、海に連れて行ってくれて、守るって言ってくれて……好きだって、言ってくれて」
ヴィルの肩が、わずかに強張った。
「……礼を言われるようなことは、していない」
「してます。たくさん」
「……」
「だから、わたしも、ヴィルにたくさん返します。これからも、ずっと」
ヴィルは何も言わなかった。ただ、繋いだ手の力を少しだけ強めて、俺の頭にそっと頬を寄せた。
この瞬間が、俺の人生で一番の宝物だ。
【U222/ユニ】
性自認はしっかり男の子。別にメス堕ちとかはしてない。ヴィルが好きなだけ。ヴィルだけが好きなだけ。
【ヴィルヘルム・オルバース】
初恋。告白の為に天望区画の最上階を貸し切った。ユニの身元を買い取るために、ありとあらゆる、軍からの仕事を請け負って金を貯めている。