ヴィルと恋人同士になってから、数ヶ月が過ぎた。
出会いから数えれば、もう二年になる。生体ユニットの平均稼働寿命を考えれば、これは平均以上、何なら後少しで最長記録ではないだろうか? ギネスブックがあったら申請したいくらいである。
(……いや、この世界にギネスブックがあるかも知らないんだけど)
朝、目を覚ます。窓の外には、スクリーンが映し出す穏やかな朝焼け。キッチンのフードクッカーからは、タイマーで仕込まれたコーヒーの香りがリビングから漂っている。
ベッドから身を起こし、伸びをする。
その瞬間、頭の奥を、チリッと短い痛みが走った。
(……ん)
一瞬だけ視界が白く明滅して、すぐに収まる。最近は、朝起きた直後にこういうノイズが混じるようになっていた。電脳化された領域の信号が乱れているのか、あるいは神経の接合部が劣化し始めているのか……。
(……まぁ、二年も使えばそりゃガタも来るよな……。前世の知識で言えば、スマホだってバッテリーは二年位で劣化するし。俺の場合はバッテリーが脳味噌なだけで)
鏡の前に立つ。相変わらずの赤い髪と赤い瞳。十八歳になったはずだが、生体ユニットとして肉体の成長を調整されているからか、外見にはほとんど変化がない。永遠の十六歳みたいな顔をしている。
(……アンチエイジング効果抜群だな。もっとも、その代償が数年で脳が焼き切れる消耗品人生ってのは、コスパが悪いにも程があるけど)
鏡の中の少女に向かって、にっと口角を上げてみせる。笑える。ちゃんと笑える。表情筋は正常。これが動かなくなったら、さすがにヴィルにもバレるだろうから、ここだけは死守しないと。
俺は小さく肩を竦めて、洗面台に向かった。
─────
朝食のテーブルで、ランニングから戻ったヴィルと向かい合う。
恋人同士になったからといって、朝の風景が劇的に変わることは無かった。彼は相変わらず端末で任務のスケジュールを確認しているし、俺はコーヒーを啜りながらトーストをかじっている。
ヴィルがコーヒーを一口飲み、端末を置いた。
「今日の出撃は一四〇〇だ。午前中にシミュレーターで最終調整を入れる」
「了解です。……最近、出撃の間隔がずいぶん短くなっていますね」
「ああ。Raiderの攻勢が前線に集中し始めている。偵察部隊の接触頻度が先月の倍近い。上層部は持久戦を想定しているようだが、現場が持つかどうかは別の話だ」
ヴィルの声に、僅かな苛立ちが混じっている。軍の上層部への不満というよりは、俺への負荷が増えることに対するものだろう。あの大規模防衛戦の後、ヴィルは俺の身体の状態をひどく気にかけるようになった。
暗いリビングで「お前が壊れるのが怖い」と震えていた男だ。その恐怖は、今も彼の中に残っているのかもしれない。
(……心配性め。まぁ、恋人が消耗品なんだから、そりゃ心配にもなるか)
「ヴィルの操縦なら大丈夫です。わたしへの負荷は最小限に抑えられていますから」
「……そうだとしても、だ。今週で三回目の出撃になる。お前の身体が心配だ」
ヴィルが端末を置き、真っ直ぐに俺を見た。黒い瞳の奥に、隠しきれない心配の色がある。あの星空の下で「愛している」と告げた瞳が、今は「壊れないでくれ」と訴えている。
「大丈夫です。わたし、丈夫にできてますから」
にっこり笑って、トーストを一口かじった。
まぁ、嘘だ。
丈夫なんかじゃない。最近は出撃するたびに、頭の奥で何かが軋む音がする。戦闘後の頭痛は以前の倍は長引くようになったし、帰還して機体から降りた直後に視界が白く飛ぶ頻度も増えた。それを悟られないように、機体から降りる時は必ずヴィルより後に出るようにしている。
でも、ここでそれを口にするわけにはいかない。あの暗い数週間を、部屋に閉じこもって壁を見つめるだけのヴィルの姿を、もう二度と見たくなかった。
だから俺は笑う。いつも通りの笑顔で、何でもないふりをして。
(……皮肉なもんだ。最初は自分が好かれるために演技を始めたのに、今はヴィルを守るために演技してる。演技の目的が百八十度変わってるのに、やってることは同じだなんてさ)
─────
午後の出撃は、比較的短時間で終わった。Raiderの偵察部隊を数機ほど排除し、防衛ラインの哨戒を完了しただけの、ルーティンに近い任務。
ヴィルの操縦は相変わらず研ぎ澄まされていて、俺にかかる演算負荷も許容範囲に収まっている。だが、帰還して機体から降ろされた直後、格納庫の通路を歩いている最中に、足元がぐらりと揺れた。
揺れたのは世界じゃない。俺の平衡感覚の方だ。
壁に手をついて、何食わぬ顔で姿勢を立て直す。前を歩くヴィルは気づかなかった。
(……おっとっと。地に足のつかない女だと思われたら困るな。いや、文字通り足がつかなくなりかけたんだけど)
しょうもない冗談を心の中で呟いて、自分を落ち着かせる。
最近は、こういうちょっとした異常が頻発する様になってきている……。勘付かれないように、気をつけないと。
宿舎に戻り、シャワーを浴びている時だった。湯が肩を伝って流れ落ちる中、ふいに右手の指先から感覚が消えた。
親指から小指まで、まるで手袋を二重にしたみたいに、感覚が鈍くなる。湯の温度も、水圧も、自分の肌の感触すらも。握っていたシャワーヘッドが、するりと指の間を滑り落ちた。
カタン、と乾いた音が足元で転がる。
(……っ)
三秒。四秒。
じわりと感覚が指先に戻ってきて、俺はゆっくりと手を握ったり開いたりした。動く。感じる。
(……前は一秒位で戻ってたのにな)
末梢神経の伝達遅延。出撃を重ねるたびに、脳と身体を繋ぐ回路のどこかが、少しずつ焼け焦げて断線しかけている。インストールされた知識と照らし合わせれば、これが何を意味するかは明白だった。
俺は落ちたシャワーヘッドを拾い上げ、何事もなかったように湯を浴び直した。
(……そろそろ、かな)
不思議と、あまり怖くはなかった。
最初からわかっていたことだ。生体ユニットは消耗品。使えば壊れる。数年保てば御の字。俺はその数年を、存分に使い倒した側の人間だ。
灰色のペーストしか食べられなかった日々から始まって、美味しいご飯を食べて、映画を観て、クレープを頬張って、人工の海で潮風を浴びて、好きな人に愛を告げられて、恋人になって……。
前世で見知らぬ人を庇って死んだ時は、ただ暗闇に落ちるだけだった。誰の顔も浮かばないまま、何も残せないまま。
でも、今度は違う。
(……今は、ヴィルがいる)
シャワーを止め、タオルで髪を拭きながら天井を見上げた。
この身体の寿命が尽きる日は、たぶんそう遠くない。それは覆しようのない事実だ。
でも、それなら。
(……どうせ死ぬんだったらさ。最期の最後まで、ヴィルの役に立って死にたいよな)
前世の俺は、誰かを庇って死んだ。それ自体は後悔していない。あの一瞬で、たぶん誰かは助かった。
だったら今度も同じだ。大切な人を守って、笑って退場できるなら、それは悲劇じゃなくて、最高のエンディングだろう。
(……むしろ、前世よりずっと贅沢じゃないか。前世は見知らぬ他人のために死んだけど、今度は世界一大好きな人のために死ねるんだからさ)
俺はタオルを頭に巻いて、曇った鏡の向こうの自分に向かって、ニッと歯を見せて笑った。
大丈夫。まだ笑える。まだ動ける。まだ、ヴィルの隣にいられる。
それだけで、十分。
─────
リビングに戻ると、ヴィルがキッチンで夕食の支度をしていた。
「帰還後の身体データを確認したが、数値上は問題ないな」
「でしょう? 言った通りです。丈夫にできてるんです、わたし」
テーブルについて、「いただきます」と手を合わせる。ステーキを切り分けて口に運ぶと、じゅわりと肉汁が広がった。二年前に初めてスクランブルエッグを食べた時ほどの衝撃はないが、それでも毎回、ヴィルが選んでくれるメニューは美味しい。
食事の途中、フォークを持つ右手が一瞬だけ痺れて、金属がカチリと皿に触れた。
「……どうした」
向かいからヴィルの視線が飛んでくる。
「フォークの持ち方を研究していました。ヴィルの持ち方が綺麗なので、真似しようかと」
「……変な奴だな」
ヴィルが小さく鼻を鳴らす。追及はされなかった。
(……ふう、危ない。あの最初の頃に鍛えた虚無顔と嘘スキルが、まさかこんなところで役に立つとは。やっぱり人生、何が役に立つかわからないもんだ)
何とか誤魔化せたことに安堵しながら、ステーキを一切れ口に運ぶ。
(……こんな美味しいご飯が食べられるなら、もうちょっと長生きしたいよな、正直)
そんなことを思いながら、スープを啜る。向かいの席で同じように食事を進めるヴィルの横顔を、俺はいつものように眺めていた。この顔を見られる夕食が、あと何回あるだろう……。そんなことは数えないことにした。
数えたら、きっとこの美味しいステーキの味がわからなくなってしまうから。
─────
夜。就寝前のメンテナンスの時間。
ベッドの端に座り、ヴィルに背を向ける。首の後ろに冷たい洗浄液が触れ、彼の指先がソケットの周辺を丁寧に清めていく。
二年間、一度も他人に任せなかったこの作業。タコのある硬い指なのに、触れ方はいつも驚くほど繊細で、壊れものを扱うような慎重さがある。
恋人になる前も後も、この手つきだけは変わらなかった。どこを押せば痛くて、どこを拭けば楽になるか、俺の身体の地図を完璧に把握している手つき……。
「……異常なし。接続端子の状態は安定している」
ヴィルの声が背中越しに聞こえる。
(……ソケット周りは確かにまだ大丈夫なんだよな。壊れかけてるのは、もっと奥。その手じゃ届かない場所だ)
「ありがとうございます、ヴィル」
振り返り、メンテナンスを終えた彼の隣に、ぽすんと身体を預けた。彼の腕に頭を乗せ、見上げる。
「……まだ寝るには早いぞ」
「知ってます。でも、もう少しだけこうしてたいんです」
ヴィルは一拍置いてから、諦めたように小さく息を吐き、俺の頭に掌を載せた。ゆっくりと、赤い髪を撫でていく。前世なら「男に頭を撫でられるなんて」と全力で拒否していたはずの行為が、今ではこの上なく心地いい。
人間、変われば変わるものだ。
(……ヴィルの手、好きだな。この手に触れてもらえる時間が、一番落ち着く)
「……ヴィル」
「なんだ」
「わたし、ヴィルの恋人になれて、よかったです」
「……急にどうした」
「別に。ただ、思っただけです」
ヴィルの指が、一瞬だけ止まった。それからまた、何も言わずに動き出す。
「……俺もだ」
低く、柔らかい声。
その優しさと愛しさの滲んだ声が、俺の胸のいちばん深いところに、じんわりと沁みていく。
温かくて、甘くて、同時にどこか痛い。
この声を聴けなくなる日のことを、一瞬だけ考えてしまったから。
(……あぁ、やばいな。こんな声で言われたら、ますます死にたくなくなるじゃないか)
でも。
死にたくないという気持ちと、いつか死ぬという事実は、別の話だ。
俺の中では、とっくに答えは出ている。
この身体が限界を迎えるその日まで、全力でヴィルの隣にいる。出撃では最高の演算を回し、日常では最高の笑顔を見せる。彼が「ユニと過ごした日々は幸せだった」と振り返れるように、一日たりとも手を抜かない。
そして最後は、できるだけ綺麗に、彼を悲しませないように退場する。
前世でファンだったロボットアニメの主人公が言っていた。「守りたいものがあるなら、最後まで笑っていろ」と。当時は画面の前で「かっけぇ……」と涙を流していたが、まさか自分がそれを地でいくことになるとは。
しかも、守りたい相手が、顔の怖い黒髪の軍人だ。前世の俺に教えてやりたい。「お前、来世でSF世界に転生して、美少女になって男に恋して、その男のために死ぬ覚悟を決めるぞ」と。まぁ、絶対に信じないだろうけど。
(……でもさ。悪くないよな、この人生。消耗品にしちゃ、かなり上等だろ)
ヴィルの掌の温もりに包まれながら、俺はゆっくりと目を閉じた。
限界の足音は、もうすぐそこまで来ている。
でも、それが今日じゃないなら、俺はまだ笑える。明日もヴィルの隣で目を覚ませるなら、それだけで十分すぎるくらい幸せだ。
(明日も、明後日も。その次の日も。一日でも長く、こんな時間を……)
そんな、ささやかだけれど、俺にとっては何にも代えがたい我儘を願って。
ヴィルの掌の温もりに包まれて、俺は穏やかな眠りへと落ちていった。
本作の曇らせのテーマは『じわじわと這い寄る絶望と別れ(幸せエンド)』です。